嘘を囁いた唇にキスをした。それが最後の会話だった。

わたあめ

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二章 のんびり日常

10.恐怖と安堵

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リゼがホレイナと会う少し前、キャメルは不貞腐れた様子で従業員スペースへと入っていった。

「もっとお話したかったなぁ」

キャメルは独り言のように呟くと、薄い布を床に敷いて横になった。
キャメルは元より貴族であったし、ヒルトンに見合う婚約者になろうと、貴族の礼儀作法を鍛えるために毎日を奔走していたので、同じくらいの歳の子と話す機会はそうそうなかった。
ましてやそんな人たちと一緒にお泊まり会みたいなことをするなど、夢の中だけのお話にすぎなかった。だからこそ、リゼたちとの会話はいちいち楽しかったし、一緒に寝泊まりができることを楽しみにしていた。
しかし、横を見ても彼女はいないし、扉に耳を当てても雑多な音がするばかりで、想像していたほどお泊まり会は煌びやかなものではなかったらしい。
もっとも、リゼにとっては今の現状が普通であることは重々承知しているのだが、それでもやるせない気持ちだけが頭の中で右往左往していた。

「普通ってなんだろうなぁ」

お泊まり会がされない腹いせに、少しでもリゼが来るのを待とうと、キャメルは今日一日謎だったことを解き明かそうと目論んだ。

「普通」という言葉は単調なことのように見えて実は難解であり、それは人々の地位や価値観によって大きく異なる。キャメルはそれを理解していたつもりだったが、今日に平民の暮らしに触れてみて、平民を演じてみて自分の認識が愚であったことを思い知らされた。
細かいところから語るなら、馬車の代金でさえ御者に言われないと怪しいほどだった。キャメル自身が精算をしてきたわけではないが、今まで金貨をざっと渡せば何事も出来たし、それで良かったからだ。
接客対応も書物からの引用だけでは普通とは程遠いものであったし、盛り付けにしても普通と呼べる代物ではなかった。
それに別れの感情もそうだ。リゼは別れの感情を「愛が強ければ強いほど、離れてほしくないもの」と言っていた。ただ、キャメルがヒルトンと別れたときには特段、そう言った感情は湧かなかったし、なんならここから早く離れたいという気持ちの方が強かった。若い時期を彼に捧げたのだから好きじゃないと言えば嘘になるし、一つのキスだけでその感情が消えるほど愛は少なくなかったはずだ。

それじゃあ、好きとは?恋とは?普通とは?!

「すみません、起きてますか」

キャメルが普通の意味を見失いかけて悶えていると、突然宿の方から声を掛けられた。何事かと恐る恐る声のした方を見ると、宿で何かあったとき用にあるであろう小さな受付のところの前に、カバンを持った茶髪の男が立っていた。

「ええ、起きてますよ。どうなされましたか?」

「落し物があったのですが、受け取って頂けませんか」

「・・・分かりました」

懺悔室の小窓のようなところから若い男がこちらを覗きながらファンシーな薄い布を置いたが、不親切にもキャメルから見て遠いところに置かれたので、それを取ろうとして小窓を全開にした。しかし、不意に彼の手元を見ると、何かが薄い灯りを反射したような気がしてキャメルは本能的にこれはマズイと察し、手をサッと引っ込めた。すると、薄い布がナイフでいとも容易くスパッと断ち切られた。
男のあわよく自分が薄い布を取っていたらと思うと、キャメルはその瞬間から萎縮したように恐怖に支配されていた。

「なんで避けるんだよ...」

男は口調を荒くしてナイフの握る手を強め、従業員スペースの方に入ろうと小窓から身を乗り出し始めた。
キャメルは抵抗しようと小窓を閉めようとするが、完全に閉まり切っていなかったそれから男は上半身だけを乗り出し、乱暴にナイフを振り回した。そして、一太刀。

「きゃあ!」

ナイフは赤い血を飛び散らせながらキャメルの二の腕を切り、キャメルは思わず、悲鳴を上げた。そして、じわっとした痛みが広がり、血が腕をわたる感触を鮮明に感じてしまい、腰が抜けたように床にへたり込んでしまった。

「逃げんじゃねぇよ...」

されど男は満足していないかのように静かな声で呟きながら狭い小窓から入ろうと身を捩らせた。
男の血の付いた鋭利なナイフとなにかに取り憑かれたように自分をギョロっと凝視する目が人ではない化け物のように思えてしまって、キャメルは恐怖心に駆られ、後退りした。
やがて、キャメルの背中が壁の感触に触れるといよいよ逃げ場が無くなり、その恐怖も大きくなっていく。男が入ってくるのも時間の問題で、キャメルはそれを覚悟した。

「大丈夫か!?」

キャメルがわなわなと震え、目を瞑ると今度は喫茶店の方から男の声がした。この際泥棒でもなんでもいいから助けて、と願いながら視線を向けると、仰々しくも貴族の服がこちらを見ていた。そして、その後ろの背の低いリゼも。

「はぁ...」

キャメルは安堵したようにため息を零し、受付の方を見やると化け物は居なくなっていた。そればかりか、「離せ!離せ!」とくぐもった声がする。
一段落いちだんらく着いたのだと思うと、感じていなかったはずの疲れがどっと押し寄せてきてキャメルは床に項垂れた。どこからか自分を心配する声が掛かっている気もするが、この際どうでも良かった。一先ずは恐怖から解放され、休みたかった。この恐怖をかき消してくれるほどの安寧が欲しかったのだ。
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