上 下
5 / 58
一章 婚約破棄

5.いざ隣国へ

しおりを挟む
「はぁ」

と、ため息を少々。
それはまだ暗い明け方を走る馬車の中で出されたキャメルの憂いだった。

キャメルは馬車に揺られるのは初めてでは無かったが、こんな暗い中、ましてや乗客一人の空間は初めてであった。
いつもは世話係のメイドや妹のナターシャ、父や母とともに小綺麗な馬車に同乗し、明るいうちに出かけ、夜の帳が降りる頃に宿に泊まるような移動スタイルだったため、中々こういう体験は出来なかった。

「しかしながら、御者は目がいいこと。この暗闇をこの速さで走れるなんて」

彼女が呟いたところで御者はそれに答えることは無かった。

貴族を運ぶなら、愛想の一つや二つあってもいいものだが、彼女にそれは持ち合わせていなかったらしい。

いや、自分がその地位にいないだけか、と彼女は自身の服を見てひとり自問自答した。そして、ため息をまた一つ吐き、御者から渡されていた飲み物を一口含んだ。

依然として、馬車は西の方を目指して走っている。
ジェレマイア領の西にあるのはエセルター公爵家が統べるエセルター領で、その歴史はまだ浅いが、様々な文化を認めているため「今時」とも言える流行の最先端の地だ。
また、多くの移民を受け入れており、文化や身分、宗教によっての隔たりが他の領地と比べて少ないのが特徴だ。

それゆえ、多くの課題があるが、それはどこも同じであろう。とにかく、キャメルが目指す場所はそんな異郷の地であった。



「ただいまエセルター領に着きましたよ」

御者が肩を鳴らしながら、馬を止め、キャメルを起こした。キャメルは乗っている間、ずっと寝てたというのに長旅の疲れを感じながら、馬車から降り、エセルター領を眺めると、そこには長閑のどかさを表すかのように一面の緑が広がっていた。

思えば、道中何事もなくことが進んだのがおかしかったのかもしれない。ヒルトンが殺し屋の一つや二つ、雇えば簡単に殺せるであろうに、全くその気配をキャメルが感じ取れなかったからだ。寝ていたからだ、と言われてしまえばお終いだが、彼女は自身がエセルター領に着いたとは到底思えなかった。

「ここは天国か」

「何をふざけたことを言っているのですか。ここはエセルター領の農業区です」

キャメルが呟くと、検問を終えた御者がすかさず訂正した。どうやらあの世には行っていなかったらしい。

「あなたの荷物の検問が終わりましたよ。それと、ジェレマイア領の馬車はここから通れないので、今度はエセルター領の馬車に乗って移動してください。銀貨を6枚払って、行き先を伝えれば連れて行ってくれるので」

御者は「それでは」と別れを告げ、近くの馬小屋に向かった。三日三晩走り続けた馬を休めるのだろう。ノロノロと走る馬車のキャビンの屋根は薔薇のような深い赤色だった。乗った当初は夜の暗闇で分からなかったが、かなり独特な色の馬車にキャメルは乗っていたらしい。

「ありがとうございました」

キャメルは小声で呟き、荷物を片手にその場を後にした。次に目指すのはエセルター領の中央区だ。きっとそこなら辺境よりも安定した職に就くことできるだろう、とキャメルはワクワクしながら、馬車の方へと向かった。

「中央区の方までお願い出来ますか」

前の御者に言われた通りに銀貨を6枚出してから、行き先を伝えると、男の御者は「毎度あり!」と威勢の良い声で勘定した。

「こっちが中央区行きの馬車ですね!後ろに荷物を置いてどうぞ!お客さんが乗ったら、出発しますんで!」

男の案内に従うままキャメルは後ろに荷物を置き、さっさと馬車に乗り込んだ。さっきの馬車とは違い、使い古された感じはするものの、清潔感を感じさせるものであったが、彼女はすでに乗っていた3人の少女を見て絶句した。

4人乗りの馬車にすでに乗客がいてもおかしくは無いから、キャメルはそこに驚いた訳ではない。
キャメルは皆が皆、一様にしてに驚いたのだ。純粋な金髪は貴族の血筋を表すもの。それが4人乗りの馬車に貴族がすしずめ状態になっているのに、「ここは天国ではなく、地獄だったか」と、キャメルは失望した。

「あら、あなたなのね。こんにちは。あれ?こういう時はなんて言うんだったかしら」

「勉強不足ね。こういうときは『ご機嫌よう』って言うのよ」

「『ご機嫌よう、お嬢様』。はぁ、このセリフ一度言ってみたかったんだ!」

しかし、キャメルの不安とは裏腹に彼女たちは楽しそうに会話をしていた。そればかりか、借りてきたような貴族の言葉を使っている。

「ご、ご機嫌よう?」

彼女たちの思いもよらぬ対応に、キャメルは戸惑いながらも挨拶を交わした。よく見れば、キャメルを含め、彼女たちは全員金髪に似合わぬ、平民の服をしていた。

「あなたも髪染めをしてきた後なのね!しかも、上質な金色ね。かなり高価な店でやってきたと見たわ。王宮ら辺かな。あっ、そういえば自己紹介を忘れていたわ。私はリズベリー。気軽にリゼって、呼んでちょうだい。こっちの二人はマリーとアンね。あなたは?」

「キャ、キャンドルと申します」

キャメルは自分の立場に合わせるために、嘘をひとつまみした。

「キャンドルね。いい名前ね!」

リゼと名乗った少女は興奮した面持ちで、興味津々そうにキャメルの髪を観察していた。
聞けば、エセルター領には髪染めというファッションが流行っているらしい。どうやら『平民貴族』という、平民である女性が公爵に気に入られ、妃となる恋愛小説が流行ったのを皮切りにその髪染めというファッションが生まれたらしい。

「それにしても、『平民貴族』を知らずに髪染めをするなんて、随分と踏み切った行動をしたわね。今じゃ、髪染めを禁止する領地は多いし、髪染めしている人たちへの私刑も多いって聞いたわ」

「確かに紛らわしいんだけど」と、リゼは呟きながら、自身の髪を弄った。彼女の髪は平民だと言うのに、キラキラと輝いていて、平民の服を着ていなければ、貴族と見間違える程に遜色がなかった。エセルター領のファッション文化は想像を超えるほどのものらしい。

「エセルター領に行く、っていうことを伝えたら、してくれましたね」

キャメルは、今度は彼女たちの話に合わせるために、嘘をひとつまみした。

「それじゃあやっぱり、王都なのね。王都は結構そういう変なサービスをしてくれるから。そういうところは良いんだけど、物価がインチキすぎるのよね。コーヒー一杯に銀貨1枚はふざけてるわ」

リゼは髪を弄るのをやめ、王都への愚痴を吐露した。ジェレマイア領ではコーヒー一杯を銅貨1枚で飲めたので、確かにその物価の高さは異様だ。

「それで、あなたはどうしてエセルター領に来たの?」

「ちょっと、リゼ。興奮しすぎだよ。初対面の人をあまり、質問攻めにしないであげて」

興味津々そうに話すリゼにアンが止めにかかった。ちょうど、キャメルが話し疲れていたところだからタイミングが良い。
やはり、キャメルにとって彼女たちが金髪であることが重荷になっていたらしく、短い時間話しただけだと言うのに、酷く疲労感が押し寄せてきていた。キャメルが貴族という身分を捨てた今、貴族を象徴するものは、身近にあるだけで心を縛り上げる重い枷となっていた。

「しょうがないじゃない、昔から一緒の私たちだけで話したって新鮮さが足りないんだもの」

「そうだけどさ、もっとこう...、あるじゃん!」

「何がよ」

「配慮だよ、配慮!リゼはプライベートなとこにすぐ突っ込むんだから」

「・・・確かにそれもそうね。それじゃあ、アンが十歳のころにおねしょをした話でもしようかしら」

「それは話しちゃダメ!」

「・・・騒がしくてごめんなさいね?」

リゼとアンが騒がしく、そして絶え間なく会話を続けるのを他所に、マリーがキャメルに少し困ったような表情で話しかけてきた。それにキャメルは愛想笑いを浮かべながら、「仲良しですね」と返した。

「ふふ、そうなんですよ。小さい頃から皆一緒にいて仲良しなんです。けれど、たまにこうして喧嘩紛いのことをしてしまうから、私が止めに行かないといけないんです」

マリーがそう言うと、ギャーギャーと騒ぐアンの襟を正すように服を掴み、思いっ切り手を振り上げた。アンがそれに気付いた瞬間にはもうそれは振り下ろされていて、パンッと乾いた音がキャビンに響く。

「えっ...」

リゼが困惑の声を出したのも束の間、彼女もまたアンと同じように服を掴まれ、頬に赤い手形を付けさせられた。

「2人ともあまり騒がないで。御者にも、キャンドルさんにも迷惑がかかるでしょう」

マリーが言うと、リゼたちは先程までの元気が嘘みたいにしゅんとして、「ごめんなさい」と弱々しく呟いた。その瞬間、キャンドルは悟った。マリーに反抗してはならない、と。

「中央区に着くまではまだたっぷり時間があるから、お互いのこと色々話し合いましょう?」

マリーはそうキャメルに笑いかけた。彼女にとっては普通に笑いかけたつもりだったが、キャメルにとってはマリーの怖さを見せられた後だ。その表情も、その言葉さえもどこか含みがあるかのよう感じてしまい、体を強張こわばらせながら、「はい」とお行儀よく返事するしかなかった。

「大丈夫よ、キャンドル。あのマリーでさえも小さいころにおねしょをしたことがあるから。だから、怖がる必要はないわ」

リゼはキャメルにそう耳打ちをした。キャメルはリゼがどれだけおねしょを信頼しているのかは分からなかったが、場を和ませようとしていることだけは理解できた。それならばと、キャメルは口をニヤリとさせて、いたずらっ子のような表情を見せた。

「ところで、リゼさんはしたことがあるんですか?」

「わ、私のことはどうだっていいのよ!それよりも、少し休憩をしましょう?喉が乾いて話すどころじゃないわ」

リゼは驚いたように顔を赤らめて、それを取り繕うようにお茶の準備をしだした。
からかいがいのあるリゼの反応にキャメルは思わず、クスッと笑ってしまった。それは貴族からすればはしたないと思うほどに綻んだ顔であり、自分はこんなにも清々しく笑えたのか、とキャメルは自問した。そして、いや彼女たちがそうさせたんだと自答する。
キャメルにとって、自分の本当をさらけ出すことは長年の夢であったが、それは貴族であった頃では容易にできるものではなかった。ましてや、民衆に対して打ち明けて会話をすることもできなかっただろう。それが貴族の模範であり、責任であったからだ。
もしキャメルを見るリゼたちの目が、最初から貴族に向けるような眼差しであったら、それこそ地獄が待っていただろう。今こうして、心の底から笑えているのも、優しい彼女たちのおかげかもしれないと、キャメルは結論づけた。

「はい、これ紅茶ね。安いものだけれど、香り高くて良いのよ」

キャメルはリゼから差し出されたお茶を一口、口に含んだ。
エセルター領の中央区まではまだまだ時間がかかる。しばしの休憩としようか。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:49pt お気に入り:407

どうぞクズな側室とクズ同士仲良くしてください。陛下。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:2

もう終わりにしましょう、その愛は永遠ですから…

恋愛 / 完結 24h.ポイント:355pt お気に入り:4,048

フランチェスカ王女の婿取り

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,725pt お気に入り:5,430

人の顔色ばかり気にしていた私はもういません

恋愛 / 完結 24h.ポイント:717pt お気に入り:4,592

悪役令嬢は、友の多幸を望むのか

恋愛 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:38

従兄弟が可愛すぎてクールになり切れない

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:33

処理中です...