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本編
第四話 なお、通常業務については遅延なく進んでおります。
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タタッタタッタタッ……
隣の席からリズミカルなタイプ音が聞こえる。
押し込み切らず、接触の瞬間に少し優しめにタッチするこの音はユカのタイピング音だ。特徴的なタイプだから見なくても分かる。
決して早いものではないが、淀みなく流れるため音楽のようにも聞こえる。
グローバルシステムズの社員にはそれぞれノートパソコンが支給されている。
この業界では広く使われている業務用のマシンで、特に珍しいものではない。
キーボードにこだわりのあるメンバーは一万円以上するメカニカルのキーボードを接続して利用しているが、ほとんどのメンバーは机の上が狭くなることを嫌って、本体のキーボードを利用している。
サトシもユカも本体のキーボード派だ。
デスクワークの人間にとって机の上は自分のテリトリだ。一日の大半を過ごす職場でいかにストレスなく過ごすことができるかは机の上の環境に大いに左右される。
サトシは机の上はシンプルが好きな方なので、極力物を置かないようにしている。
筆記具や名刺類は引き出しに仕舞い、プロジェクトの紙資料は使用するものだけを机の左手前側に置いている。
マウスは使わない。手を大きく移動する分、作業の時間が間延びするからだ。
ユカはホイール付きのマウスを使う。調べものをしているときなどは時折ホイールを遠慮がちに回す。
ユカは音に関して隣席のサトシに対し気を使っている。
「……新田さん」
「はい」タタッタタッ……タ
ユカが手を止め、サトシの方に体ごと向く。
「今日の進捗はどんな感じ?」
「私の分のモジュールについてはほぼ完了してます。ただ……」
ユカは言葉を選ぼうとしているようだった。そして恐る恐る言った。
「片山さんのモジュールで今エラーが出てます……」
「おー、そっかそっか、悪い。で、どこでエラってる?」
結果はどうあれ、どうやらタケルはなんとかサトシの仕事をやろうとしたようだ。
サトシは自分担当分のファイルのうち、更新日付が今日になっている一ファイルを開いた。
「やってくれたな……」心の中でつぶやく。
そこには見様見真似で書いたであろうプログラムがあった。
何を参考にしたのかは分からないが、構文のミスが至るところにある。どこかのサイトからコピーしてきて、コピーライツのそのまま残っている記述もある。
これを動く状態まで持っていくには骨が折れそうだ。
今日のサトシのノルマは三モジュール。ユカとの二人プロジェクトなので、工数的問題からマネージャーであるサトシも手を動かしているのだ。
動作確認次第朝までに納品しなけりゃならない。
タケルには悪いがこのプログラムは破棄して一から作り直したほうが早そうだ。とサトシは思った。
「我ながらひどいミスだったな」
作り笑いをユカに向けながら、サトシは徹夜を覚悟した。
今サトシ達が手掛けているのは、大手携帯キャリア向けの社内備品配備を管理するウェブアプリケーションの実装と動作確認だ。
外資のコンサルティングファーム大手のアクセスフューチャー株式会社が案件を受注し、グローバルシステムズはアクセスフューチャーから、開発部分を受注した。
今回の開発では、ウエーブという複数のモジュールで構成される単位ごとにテストを行いながら開発を進めてゆく。
明日はウエーブ1のテストの開始日なので、何が何でも今夜中に対象となるモジュールを納品しないといけないのだ。
「さて、やり直しするかぁー…… ちと、一服してくるわ」
スーツの内ポケットからタバコを取り出しながら喫煙ブースに向かって少し早足で歩く。
くわえタバコで喫煙ブースのドアを開けると先客がいた。同期の唐澤アキラだ。
「おー、片山お疲れー」
白地に紫ストライプのワイシャツを腕まくりしている唐澤は、プロ野球の投手のように右手でキツネを作って挨拶してきた。
アウトドア派の彼のパンパンに張った赤い額は汗がにじみ、蛍光灯の光できらめく。
「ユカッペと残業楽しそうじゃん」
悪戯な表情でからかってくる。唐澤に悪意が無いのは分かるので別に嫌な気持ちにはならない。
この男はノリは軽いができるやつだ。サトシと同じ歳だが、もう二人の子供がいる。
「新田さんは飲み込み早いよ。ほんとに助かるわ。そっちのプロジェクトの方はどうよ?」
サトシは唐澤に仕事の調子を聞いてみた。
唐澤は会社が直接受注した放送会社向けのイベントサイト制作を担当している。
「いやー、やっぱシステムのこと知らない担当者はキッツいわ。毎日仕様が変わるからなぁ……」
唐澤の担当している案件のクライアント側担当者は、システムに関してズブの素人だという話は、マネージャーミーティングでも度々話題にはなっていた。
システム関連の知識がない人間からしてみたら些細な変更であっても、開発する人間からしてみたら機能的に見て全く違うということはよくある。
その影響度の認識の差異がお互いの不信感を生んでしまうので、システム知識のない担当者との仕事は難しいのだ。
「そりゃキツイなぁ。うちは人数二人だからキツイけど、仕様については責任持たないで済んでるからなぁ。そっちは今日も遅いのか?」
「いや、今日は帰るわ。今手がけてる所、仕様がフワフワだから、頑張ってもしゃーないんでね。そっちはまだやってくのか?」
唐澤の表情がこれからちょっと飲みに行かないか? と言っているように見える。
「あぁ。今日は俺がやらかしちゃったからね。徹夜ですよハハハ……」
サトシは少しふざけた風に返した。
「そっか、頑張れよ!」
そう言うと唐澤は吸い終わった電子タバコのカートリッジを灰皿に捨てて、サトシの肩を軽く叩いた。
喫煙ブースのドアを開けながら「じゃぁお疲れ」と、唐澤は去っていった。
一人になる。もう一本、タバコに火をつける。メンソールの香りが鼻に抜ける。
換気扇の音が耳につく。
頭の中には今日の出来事が浮かぶ。今更ながら人を斬ったことを思い出した。あの場面では仕方のない正当防衛だったと思うが……サトシは軽く自己嫌悪した。
考えることをやめよう。サトシはタバコを灰皿に押し付けた。
ひどく疲れを感じたので、喫煙ブース入り口にある冷蔵庫からエナジードリンクを取り出し、冷蔵庫の上にある集金ボックスに百円玉を投入する。
左手だけで缶を開け、席に戻るとオフィスはサトシとユカの二人だけになっていた。
「新田さん、今日は自分のモジュール終わったら帰っちゃっていいよ」
エナジードリンクを一口飲み、ユカに帰るように促す。ここからはサトシの戦場だ。
「片山さん、多分この量では片山さんでも朝までに終わらせるのは無理そうな気がします……」
ユカが若干遠慮がちに言う。確かに。強がってはみたものの、正直量的に一人で朝までに完成させるのは現実的ではなかった。
申し訳ない気持ちでユカに協力をお願いする。
「そうだなぁ。新田さん、今日俺に付き合ってもらってもいいかな?」
「はい! 頑張りましょう!」
夜遅くまでかかる仕事なので、女子社員と二人きりという場面はちょくちょくある。
もしタケルならこの時間を使って、ユカとの親密度を上げるのだろうが、サトシにはそんな勇気はない。ただ日々を淡々とこなすだけだ。
唐澤がさっきからかってきたが、あながち的外れでもなかった。
サトシは新田ユカの事を密かに好いている。仕事に対する真っすぐな態度であったり、丁寧な物腰であったり。なにより顔が好みだったりする。
職場内恋愛からの結婚というのは珍しい話でもない。もし、ユカが俺の嫁になったら……とか考える時はある。
というか、毎日ひっそりと告白されるのではないかという無駄な期待をしている。
ともあれ、今は目の前の仕事に集中しなくちゃいけない。いつまた入れ替わりが発生するかもしれないと考えると、できることはできる時にやってしまわないと。という思いが強くなった。
午前四時半。サトシの担当分のモジュールがやっと完成した。
「よし……動作検証オッケィ……これで終わりだぁぁっと」
椅子の背もたれの可動域ギリギリまで体重をかけて伸びをする。全身の血流を感じる。
「んん~、疲れましたね」
ユカも背伸びをする。胸のふくらみ、腰のラインが強調されるのを横目で凝視してしまう。
湧き上がる劣情をクールに抑え、サトシは紳士的に言った。
「新田さん、ありがとう。新田さんのおかげで何とか間に合ったよ。俺一人じゃやっぱ無理だったと思う」
「いいえ~、とんでもないです」
ユカは緊張感からの解放感からか、少しくだけた印象で体ごとサトシの方を向いて返事した。
普段から話す人に対して体を正対させてくるこの子だが、今はやめてほしいタイミングだ。なぜか? サトシの股間は絶賛ふっくらしているからだ。
股間の張りを分かりにくくするためにサトシはスラックスのポケットに手を突っ込んで立ち上がった。
「ちょっと一服してくるから、適当に休んでて。帰ってもいいよ」
火のついていないタバコを咥えて喫煙ブースへ歩く。メンソールの香りが爽快だ。サトシは頭の中でユカの体のラインを思い出していた。
巨乳ではないが存在感のある胸、女性らしさを感じる滑らかな曲線を描く腰回り。一人残業だったら、この後トイレで抜いているところだった。
喫煙ブースに入る。一人でいると古い換気扇の音がうるさい。
一日の出来事を振り返りつつ、ユカを抱くことを妄想しつつ、タバコに火をつける。席の方ではデスクの引き出しを開け閉めする音がしている。ユカが帰り支度をしているのだろう。
不意に喫煙ブースの扉が開いた。予想外の事だったので体がビクッとする。
「片山さーん……」
遠慮がちにユカがドアから顔をのぞかせた。子猫のようで可愛らしい。
「あぁ、もしかして待ってた? 帰ってもいいよ」
「いや、そうじゃなくて……少しお話してもいいですか?」
そう言うとユカはベンチの右、サトシから十数センチの位置に腰かけた。
数秒間、沈黙が流れる。どんな話をされるのだろうか。緊張する。
「なんの話かな?」
「あの、変な事聞いてもいいですか?」
「いいよ」
「この前、唐澤さんからですね、も少し片山さんの相手してやってよって言われたんですけど…… 相手って言われても、仕事以外に何話したらいいかわかんなくて…… 片山さんってどんな話したいんですか?」
本当に変な話だった。
唐澤もそうだが、他のマネージャーたちもサトシに彼女を作らせようと色々画策している。
サトシはひっそりと関係を深めたいと願っているが、お節介な仲間はそれを許さない。
「あー……、それねぇ……。あいつ若い女の子が入社するたびにそれ言うんだよ」
後頭部を掻きながら答えた。正直に答えたが、こういう時にどう答えるのが賢い選択なんだろう。
「あー…… そうなんですね……」
ユカは拍子抜けしたような表情を見せた。
「迷惑だったでしょ?」
「いえ、私は全然」
ユカの返事にサトシ思わず真顔になった。ユカは少し驚いたような顔をしている。
再び沈黙。気まずい。答えに間違った可能性がある……。サトシは焦った。
「あのさ、新田さんは付き合ってる人とかいないの?」
意を決して質問する。この質問は非常に難度が高い。
「いえ……、今までそういうの無かったんで……」
――聞き間違いか? 「今までそういうの無かった」って?
――奇遇! なんてことだ。これまで生きてきて三十年、交際経験のない俺にピッタリじゃないか!
念のため、サトシは恐る恐る聞いた。
「え……? それは今まで交際経験がないってことであっている?」
失礼のないように……ここでぶち壊しにならないように……細心の注意を払って表情を作る。
「奇遇だね、俺もなんだよ。なんか今まで交際したことなくてさ」
「えっ! 片山さんもなんですか? 嘘!」
ユカはわざとらしいくらい大きなリアクションで驚いている。
「いや、ホントホント。俺、奥手でさ。今までそういうの全くなかったんだよね」
事実だ。もっとも、タケルとの入れ替わりで、タケルが女性と行為をしている最中に入れ替わりを経験したことはあるのだが、この際それはノーカンということにしておこう。
「そうなんだー、じゃぁ私たち似てますね」
ユカは無理やり作ったような笑顔で言った。彼女も緊張しているのだろう。
サトシは気まずさを誤魔化すように話した。
学生時代の事、毎年のクリスマスは職場で過ごすこと、双子の兄がいること、歴史物の小説が好きな事、家にテレビがないことなど、無理やり話をした。
どうにかして彼女との時間をつなぎたかった。
ユカも少しずつではあるが固さがほぐれ、クリスマスには一人でイラストを描くこと、一人暮らしの寂しさを誤魔化すために猫を飼っている事などを話した。
しかし、三度目の沈黙がやってきた。
どうすれば良いのか、頭をフル回転させる。が、答えは出ない。
「……あのさ、セクハラならやめとくんだけどさ……」
「……はい……」
「手とか……握ってもいいかな……」
言った直後にサトシは激しく後悔した。
これ、相手の感じ方次第では質問自体がセクハラに当たるではないか。しかし、ユカの返事は……
「……はい、是非お願いします……」
彼女は白い小さな手を二人の間の隙間に置いた。サトシはそこに自分の手を重ねた。
滑らかな肌。柔らかい感触。温もり。触れた部分にすべての神経が集中する。
動悸。隠し切れないほどに激しい鼓動だ。ユカにもこの音が聞こえているかもしれない。そんな錯覚にすら陥る。
言葉はない。何も言えない。次の動作を考えられなかった。
先に動いたのはユカだ。体を傾け、サトシの右腕にもたれかかった。
サトシは左手で覆うように彼女の体を包んだ。
額と額がくっつく。息遣いが、二人の吐息が混ざるほどに顔と顔は近づいている。
ユカは少し微笑みながら言った。
「このままだと……キス……しちゃいますね」
「あ……、そうだね……」
それはどれくらいの時間だったのかはよく覚えていない。
夢のような時間だった。
リリリリリリィ……リリリリリリィ……
夢のような時間を終わらせたのは、サトシのスマホの午前六時を知らせるアラーム音だった。
額が離れる。
「……朝ですね」
「そうだね」
「一度帰らないと、です。うちの子にご飯をあげなくちゃなので」
「あぁ、さっき言ってた猫ね。了解」
「ホントはもっと一緒にいたいのですけど……」
そう言うとユカはいそいそと喫煙ブースから出て行った。
取り残されたサトシはもう一本タバコを吸った。
隣の席からリズミカルなタイプ音が聞こえる。
押し込み切らず、接触の瞬間に少し優しめにタッチするこの音はユカのタイピング音だ。特徴的なタイプだから見なくても分かる。
決して早いものではないが、淀みなく流れるため音楽のようにも聞こえる。
グローバルシステムズの社員にはそれぞれノートパソコンが支給されている。
この業界では広く使われている業務用のマシンで、特に珍しいものではない。
キーボードにこだわりのあるメンバーは一万円以上するメカニカルのキーボードを接続して利用しているが、ほとんどのメンバーは机の上が狭くなることを嫌って、本体のキーボードを利用している。
サトシもユカも本体のキーボード派だ。
デスクワークの人間にとって机の上は自分のテリトリだ。一日の大半を過ごす職場でいかにストレスなく過ごすことができるかは机の上の環境に大いに左右される。
サトシは机の上はシンプルが好きな方なので、極力物を置かないようにしている。
筆記具や名刺類は引き出しに仕舞い、プロジェクトの紙資料は使用するものだけを机の左手前側に置いている。
マウスは使わない。手を大きく移動する分、作業の時間が間延びするからだ。
ユカはホイール付きのマウスを使う。調べものをしているときなどは時折ホイールを遠慮がちに回す。
ユカは音に関して隣席のサトシに対し気を使っている。
「……新田さん」
「はい」タタッタタッ……タ
ユカが手を止め、サトシの方に体ごと向く。
「今日の進捗はどんな感じ?」
「私の分のモジュールについてはほぼ完了してます。ただ……」
ユカは言葉を選ぼうとしているようだった。そして恐る恐る言った。
「片山さんのモジュールで今エラーが出てます……」
「おー、そっかそっか、悪い。で、どこでエラってる?」
結果はどうあれ、どうやらタケルはなんとかサトシの仕事をやろうとしたようだ。
サトシは自分担当分のファイルのうち、更新日付が今日になっている一ファイルを開いた。
「やってくれたな……」心の中でつぶやく。
そこには見様見真似で書いたであろうプログラムがあった。
何を参考にしたのかは分からないが、構文のミスが至るところにある。どこかのサイトからコピーしてきて、コピーライツのそのまま残っている記述もある。
これを動く状態まで持っていくには骨が折れそうだ。
今日のサトシのノルマは三モジュール。ユカとの二人プロジェクトなので、工数的問題からマネージャーであるサトシも手を動かしているのだ。
動作確認次第朝までに納品しなけりゃならない。
タケルには悪いがこのプログラムは破棄して一から作り直したほうが早そうだ。とサトシは思った。
「我ながらひどいミスだったな」
作り笑いをユカに向けながら、サトシは徹夜を覚悟した。
今サトシ達が手掛けているのは、大手携帯キャリア向けの社内備品配備を管理するウェブアプリケーションの実装と動作確認だ。
外資のコンサルティングファーム大手のアクセスフューチャー株式会社が案件を受注し、グローバルシステムズはアクセスフューチャーから、開発部分を受注した。
今回の開発では、ウエーブという複数のモジュールで構成される単位ごとにテストを行いながら開発を進めてゆく。
明日はウエーブ1のテストの開始日なので、何が何でも今夜中に対象となるモジュールを納品しないといけないのだ。
「さて、やり直しするかぁー…… ちと、一服してくるわ」
スーツの内ポケットからタバコを取り出しながら喫煙ブースに向かって少し早足で歩く。
くわえタバコで喫煙ブースのドアを開けると先客がいた。同期の唐澤アキラだ。
「おー、片山お疲れー」
白地に紫ストライプのワイシャツを腕まくりしている唐澤は、プロ野球の投手のように右手でキツネを作って挨拶してきた。
アウトドア派の彼のパンパンに張った赤い額は汗がにじみ、蛍光灯の光できらめく。
「ユカッペと残業楽しそうじゃん」
悪戯な表情でからかってくる。唐澤に悪意が無いのは分かるので別に嫌な気持ちにはならない。
この男はノリは軽いができるやつだ。サトシと同じ歳だが、もう二人の子供がいる。
「新田さんは飲み込み早いよ。ほんとに助かるわ。そっちのプロジェクトの方はどうよ?」
サトシは唐澤に仕事の調子を聞いてみた。
唐澤は会社が直接受注した放送会社向けのイベントサイト制作を担当している。
「いやー、やっぱシステムのこと知らない担当者はキッツいわ。毎日仕様が変わるからなぁ……」
唐澤の担当している案件のクライアント側担当者は、システムに関してズブの素人だという話は、マネージャーミーティングでも度々話題にはなっていた。
システム関連の知識がない人間からしてみたら些細な変更であっても、開発する人間からしてみたら機能的に見て全く違うということはよくある。
その影響度の認識の差異がお互いの不信感を生んでしまうので、システム知識のない担当者との仕事は難しいのだ。
「そりゃキツイなぁ。うちは人数二人だからキツイけど、仕様については責任持たないで済んでるからなぁ。そっちは今日も遅いのか?」
「いや、今日は帰るわ。今手がけてる所、仕様がフワフワだから、頑張ってもしゃーないんでね。そっちはまだやってくのか?」
唐澤の表情がこれからちょっと飲みに行かないか? と言っているように見える。
「あぁ。今日は俺がやらかしちゃったからね。徹夜ですよハハハ……」
サトシは少しふざけた風に返した。
「そっか、頑張れよ!」
そう言うと唐澤は吸い終わった電子タバコのカートリッジを灰皿に捨てて、サトシの肩を軽く叩いた。
喫煙ブースのドアを開けながら「じゃぁお疲れ」と、唐澤は去っていった。
一人になる。もう一本、タバコに火をつける。メンソールの香りが鼻に抜ける。
換気扇の音が耳につく。
頭の中には今日の出来事が浮かぶ。今更ながら人を斬ったことを思い出した。あの場面では仕方のない正当防衛だったと思うが……サトシは軽く自己嫌悪した。
考えることをやめよう。サトシはタバコを灰皿に押し付けた。
ひどく疲れを感じたので、喫煙ブース入り口にある冷蔵庫からエナジードリンクを取り出し、冷蔵庫の上にある集金ボックスに百円玉を投入する。
左手だけで缶を開け、席に戻るとオフィスはサトシとユカの二人だけになっていた。
「新田さん、今日は自分のモジュール終わったら帰っちゃっていいよ」
エナジードリンクを一口飲み、ユカに帰るように促す。ここからはサトシの戦場だ。
「片山さん、多分この量では片山さんでも朝までに終わらせるのは無理そうな気がします……」
ユカが若干遠慮がちに言う。確かに。強がってはみたものの、正直量的に一人で朝までに完成させるのは現実的ではなかった。
申し訳ない気持ちでユカに協力をお願いする。
「そうだなぁ。新田さん、今日俺に付き合ってもらってもいいかな?」
「はい! 頑張りましょう!」
夜遅くまでかかる仕事なので、女子社員と二人きりという場面はちょくちょくある。
もしタケルならこの時間を使って、ユカとの親密度を上げるのだろうが、サトシにはそんな勇気はない。ただ日々を淡々とこなすだけだ。
唐澤がさっきからかってきたが、あながち的外れでもなかった。
サトシは新田ユカの事を密かに好いている。仕事に対する真っすぐな態度であったり、丁寧な物腰であったり。なにより顔が好みだったりする。
職場内恋愛からの結婚というのは珍しい話でもない。もし、ユカが俺の嫁になったら……とか考える時はある。
というか、毎日ひっそりと告白されるのではないかという無駄な期待をしている。
ともあれ、今は目の前の仕事に集中しなくちゃいけない。いつまた入れ替わりが発生するかもしれないと考えると、できることはできる時にやってしまわないと。という思いが強くなった。
午前四時半。サトシの担当分のモジュールがやっと完成した。
「よし……動作検証オッケィ……これで終わりだぁぁっと」
椅子の背もたれの可動域ギリギリまで体重をかけて伸びをする。全身の血流を感じる。
「んん~、疲れましたね」
ユカも背伸びをする。胸のふくらみ、腰のラインが強調されるのを横目で凝視してしまう。
湧き上がる劣情をクールに抑え、サトシは紳士的に言った。
「新田さん、ありがとう。新田さんのおかげで何とか間に合ったよ。俺一人じゃやっぱ無理だったと思う」
「いいえ~、とんでもないです」
ユカは緊張感からの解放感からか、少しくだけた印象で体ごとサトシの方を向いて返事した。
普段から話す人に対して体を正対させてくるこの子だが、今はやめてほしいタイミングだ。なぜか? サトシの股間は絶賛ふっくらしているからだ。
股間の張りを分かりにくくするためにサトシはスラックスのポケットに手を突っ込んで立ち上がった。
「ちょっと一服してくるから、適当に休んでて。帰ってもいいよ」
火のついていないタバコを咥えて喫煙ブースへ歩く。メンソールの香りが爽快だ。サトシは頭の中でユカの体のラインを思い出していた。
巨乳ではないが存在感のある胸、女性らしさを感じる滑らかな曲線を描く腰回り。一人残業だったら、この後トイレで抜いているところだった。
喫煙ブースに入る。一人でいると古い換気扇の音がうるさい。
一日の出来事を振り返りつつ、ユカを抱くことを妄想しつつ、タバコに火をつける。席の方ではデスクの引き出しを開け閉めする音がしている。ユカが帰り支度をしているのだろう。
不意に喫煙ブースの扉が開いた。予想外の事だったので体がビクッとする。
「片山さーん……」
遠慮がちにユカがドアから顔をのぞかせた。子猫のようで可愛らしい。
「あぁ、もしかして待ってた? 帰ってもいいよ」
「いや、そうじゃなくて……少しお話してもいいですか?」
そう言うとユカはベンチの右、サトシから十数センチの位置に腰かけた。
数秒間、沈黙が流れる。どんな話をされるのだろうか。緊張する。
「なんの話かな?」
「あの、変な事聞いてもいいですか?」
「いいよ」
「この前、唐澤さんからですね、も少し片山さんの相手してやってよって言われたんですけど…… 相手って言われても、仕事以外に何話したらいいかわかんなくて…… 片山さんってどんな話したいんですか?」
本当に変な話だった。
唐澤もそうだが、他のマネージャーたちもサトシに彼女を作らせようと色々画策している。
サトシはひっそりと関係を深めたいと願っているが、お節介な仲間はそれを許さない。
「あー……、それねぇ……。あいつ若い女の子が入社するたびにそれ言うんだよ」
後頭部を掻きながら答えた。正直に答えたが、こういう時にどう答えるのが賢い選択なんだろう。
「あー…… そうなんですね……」
ユカは拍子抜けしたような表情を見せた。
「迷惑だったでしょ?」
「いえ、私は全然」
ユカの返事にサトシ思わず真顔になった。ユカは少し驚いたような顔をしている。
再び沈黙。気まずい。答えに間違った可能性がある……。サトシは焦った。
「あのさ、新田さんは付き合ってる人とかいないの?」
意を決して質問する。この質問は非常に難度が高い。
「いえ……、今までそういうの無かったんで……」
――聞き間違いか? 「今までそういうの無かった」って?
――奇遇! なんてことだ。これまで生きてきて三十年、交際経験のない俺にピッタリじゃないか!
念のため、サトシは恐る恐る聞いた。
「え……? それは今まで交際経験がないってことであっている?」
失礼のないように……ここでぶち壊しにならないように……細心の注意を払って表情を作る。
「奇遇だね、俺もなんだよ。なんか今まで交際したことなくてさ」
「えっ! 片山さんもなんですか? 嘘!」
ユカはわざとらしいくらい大きなリアクションで驚いている。
「いや、ホントホント。俺、奥手でさ。今までそういうの全くなかったんだよね」
事実だ。もっとも、タケルとの入れ替わりで、タケルが女性と行為をしている最中に入れ替わりを経験したことはあるのだが、この際それはノーカンということにしておこう。
「そうなんだー、じゃぁ私たち似てますね」
ユカは無理やり作ったような笑顔で言った。彼女も緊張しているのだろう。
サトシは気まずさを誤魔化すように話した。
学生時代の事、毎年のクリスマスは職場で過ごすこと、双子の兄がいること、歴史物の小説が好きな事、家にテレビがないことなど、無理やり話をした。
どうにかして彼女との時間をつなぎたかった。
ユカも少しずつではあるが固さがほぐれ、クリスマスには一人でイラストを描くこと、一人暮らしの寂しさを誤魔化すために猫を飼っている事などを話した。
しかし、三度目の沈黙がやってきた。
どうすれば良いのか、頭をフル回転させる。が、答えは出ない。
「……あのさ、セクハラならやめとくんだけどさ……」
「……はい……」
「手とか……握ってもいいかな……」
言った直後にサトシは激しく後悔した。
これ、相手の感じ方次第では質問自体がセクハラに当たるではないか。しかし、ユカの返事は……
「……はい、是非お願いします……」
彼女は白い小さな手を二人の間の隙間に置いた。サトシはそこに自分の手を重ねた。
滑らかな肌。柔らかい感触。温もり。触れた部分にすべての神経が集中する。
動悸。隠し切れないほどに激しい鼓動だ。ユカにもこの音が聞こえているかもしれない。そんな錯覚にすら陥る。
言葉はない。何も言えない。次の動作を考えられなかった。
先に動いたのはユカだ。体を傾け、サトシの右腕にもたれかかった。
サトシは左手で覆うように彼女の体を包んだ。
額と額がくっつく。息遣いが、二人の吐息が混ざるほどに顔と顔は近づいている。
ユカは少し微笑みながら言った。
「このままだと……キス……しちゃいますね」
「あ……、そうだね……」
それはどれくらいの時間だったのかはよく覚えていない。
夢のような時間だった。
リリリリリリィ……リリリリリリィ……
夢のような時間を終わらせたのは、サトシのスマホの午前六時を知らせるアラーム音だった。
額が離れる。
「……朝ですね」
「そうだね」
「一度帰らないと、です。うちの子にご飯をあげなくちゃなので」
「あぁ、さっき言ってた猫ね。了解」
「ホントはもっと一緒にいたいのですけど……」
そう言うとユカはいそいそと喫煙ブースから出て行った。
取り残されたサトシはもう一本タバコを吸った。
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