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第110話.取引

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「ふふふ。まぁ、そうだろうね」

不気味な笑い声を上げた後、芝植えは言った。

「本題は取引だ」
「取引?」

取引とは何だ。一介の陸軍中尉に対して何の取引ができるというのか。

「そうだ。穂高中尉、君の目が欲しい。目玉が欲しいんだ。眼球だよ」

言いながら身を乗り出して来た。私の眼帯をしていない右の目の、瞳の奥を覗きながら男はそう言ったのだ。
背筋に冷たいモノが流れた。目玉だと、何を言ってるのか、この男は。

「何も、今すぐくり抜こうって言うんじゃあない。君が死んだら、その両目を僕にくれ」
「何を言っている。馬鹿な」

いつも努めて冷静であれと心掛けている私だが、今回ばかりはぞっとした。戦場での死の恐怖とはまた違う、人間のおぞましさ、気持ち悪さを感じる。

「良く考えて返事をしてくれたまえよ。こちらからは破格の条件を提示するのだから」
「条件?」
「日本の国債(こくさい)を大清帝国が買おう。さらに一千万ポンド」

国債?突然のことで、頭が回る前に聞き返していた。

「何?」
「戦費調達に苦労しているだろうな。この世界では日本には信用も、金もない。なにせ日清戦争が無かったんだ、その意味はわかるだろうね」

戦争をするには費用がかかる、それも莫大な金がかかるのだ。あの明治の日露戦争では、じつに国家予算の八倍もの費用がかかった。
ではその金はどこから湧いて出てくるのか?

答えは借金だ。国が国債と言う債券を発行して、それを外国に買ってもらう。期限になったら額面通りの金額でお返ししますよ、また利息はいくらお支払いしますよ。そう言う約束で、国債を売る。
そうだ日本国は売りたいのだが、それを引き受ける国があるかどうかと言うのは別の話だ。
例えば日本から国債を買ったとして、ルシヤに日本が負けたらどうなるのだろう。本当に期日になったらお金を返して貰えるのか?取りっぱぐれは無いだろうと言う信用が無ければ、そんなものを買ってくれる国はないのである。
史実の日露戦争でも資金繰りは苦労したようだ。偉大な先人が、奇跡のような出会いもあり、ようやく国債を発行できたのであった。

ではこの明而の日本はどうか。
当然それには苦戦難航しているのは想像に難くない。金もなければ資源もない、ルシヤに勝つ見込みなんてない。そんな日本の国債を引き受けてやろうという者が、ゴロゴロいるとは思えないからだ。

「芝植え殿にそんな権限がおありですか」
「信用したまえ、僕はそれができる人間だ」

男は乗り出した身体を、戻しながら言った。

「本当はね、生きた両眼が欲しいんだ。それなら二千万ポンド買っても良い。でも君はそれは売らない。だからね、死んだ後。それを僕に譲ると一筆書いてくれ。それで僕は日本皇国の国債を、既に買っている分に上乗せして更に一千万ポンド、大清帝国で引き受ける事にする」

彼は人差し指を一本立てて、私の胸に置いた。

「死んだ後だよ。君は何も痛くも痒くもない。それで御国の資金繰りの手助けになるんだよ。こんな良い話は無いだろう」

こいつ何だ。
取引だと、しかし。荒唐無稽なこの話、一体どう考えれば良いものか。
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