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第109話.芝

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我々が、前線観測施設に帰還して三日経った。
私の負傷に関しては、回って来ていた軍医がおり、治療を受ける事ができた。左目は視力に影響を受ける程の傷ではないとして、その他の負傷も安静にしておれば、致命的な物は無いとのである。これは良かった。

しかし、問題が一つ。
帰還を果たした同日未明より熱発。三十九度を上回る高熱が続き、いかにも曖昧な状態で二日間を過ごす事となった。
解熱する頃には、ルフィナ・ソコロワは重要な敵国情報を持つ捕虜として、別の場所へ連行されていた。
また、そうこうしているうちにもルシヤとの戦闘は続いており、吉報も凶報も次々と届いた。
私も飛び出して行きたかったが、安静にせよと、医者も兵も寄ってたかって言うので病床の上で刻一刻と変化する戦況に気を揉んでいた。
それで、布団の上で養生しているのだが。

「それで、お前は何をやっているんだ」
「首飾り作ってる」

ウナは寝ている私の枕元で、ずっと何か手作業をしている。かりかりと何かを削ったり、紐を編んだり、器用な事だが。
しかし広い場所でやれば良いのにな。

「それは良いんだが、なぜ今ここでやるんだ」
「クマの骨で首飾り。暇だから?」
「それは良い、余暇で好きにすれば良い。だが見れば分かると思うが、私はこの通りだ。向こうでやれよ、ここは狭いだろう?」
「んー?」

ウナは骨の穴を開けた場所に紐を通しながら、こちらを見ずに言った。

「心配だから、目の届く場所にいる」

彼なりの心遣いだったのだろう。
枕元で新聞紙を広げて、その上で内職するのも、削り粉が飛んでくるのも。その産物だ。
好きにしろ。と声をかけて、背を向けた。

しばらくすると、遠慮がちに部屋の扉がノックされた。入るように促すと、見たことのない制服の男が一人立っている。
軍人らしいが、その割にはやけにほっそりしている。黒縁の眼鏡に、糸のような目。そして特徴的なのはその髪型。いわゆる辮髪(べんぱつ)であった。

「誰か?」

そう誰何すると、男は口を開いた。目は開いているのか閉じているのか分からん。
清国人だな。

「大清帝国の司馬伟(スーマーウェイ)です。清国から観戦武官(かんせんぶかん)として来ています」

司馬伟ねぇ……しばうえ。芝植えか。
この時代は、観戦武官というのがまだ残っていた。観戦武官というのは、第三国から戦争を観戦するために派遣された士官の事である。日露以外の国から日本とルシヤにそれぞれ送り込まれているのだ。今回の場合、この男は清国から我が国に来た、という事だろう。
前世、かの日露戦争では十カ国を超える国々から多数の武官が送りこまれている。近代戦争において情報を本国に持ち帰るという、重要な役割を果たしていたのだ。

「ああ、どうも。私は皇国陸軍中尉、穂高進一です。こんな格好で申し訳ない」

頭の中で、こいつと接点があったかなと思い返すが見たことのない顔だ。一呼吸置いて続ける。

「それで、芝植え殿。私に何かご用ですか」
「そうです。穂高さんに直々にお話したい事がありまして。あぁ、内密なお話ですから、人払いをお願いしても良いですか」

そう言って司馬伟は目線をウナに向けた。

「なんだ?お前イキナリ出てきて……」
「やめろウナ。良いから少し外に出ていてくれ」

噛み付きかけたウナに、そう言って聞かせる。彼はいかにも「渋々だ」というのを隠そうともせず扉の外へ出て行った。
さすがにこのまま話を聞くわけにはいかんので、私も布団から抜け出してその場に座る。

「それで何か」
「穂高中尉、貴方は識者ですね」
「識者、有識者という事ですか?はぁ。何事かわかりませんが、そんな大(だい)それたものではありませんよ」

表情を崩さないように、シラを切った。いきなりなんだ、この男。どこまで知っている。

「中尉、嘘ですね?」

蛇が笑うような表情を貼り付けて、男は言った。糸のような目を更に細めて、薄い唇を半月に歪ませて、言った。

「なんの事か」
「やめましょう中尉。僕にはね、分かるんです」

観戦武官を受け入れた国は、なるべくそれを保護する義務がある。しかしどうする、この男は。
第三国と言えども、簡単に機密を嗅ぎまわるような輩と付き合って良いとは思えん。芝を植えるかわりに刈ってやろうか。ちょうど手近なところに銃剣がある事だしな。
どれ、と思ったところでさらに男は言った。

「僕をどうこうしてどうなります。日清両国の友好関係にヒビが入りますよ、しかもそれだけだ」

ふん、と鼻から息が抜けた。こいつは何だ、何が目的だ。気持ちの悪い男だ。

「実はね、僕も識者です。穂高中尉殿、単刀直入に言いましょう」
「何だ」
「清国に来て下さい」
「断る」

やはり我が国にとって害になる存在じゃないのか、この芝植えは。

「だめですか?残念だなぁ」
「今この状況で、良くもそんな事が言えるな」
「アジアを救う為に、中尉の力は清国でこそ発揮されるべきだ。たとえルシヤに日本が勝ったとして、その後どうするんですか?」
「どうする?どうするも何もない、戦争はやるからには勝たなきゃいかん。それしか道はない」

暫しの沈黙。
何が言いたい、そう言うと男は再び口を開いた。

「さあ、君は知っているんじゃないのかな。日露戦争に勝ってどうなる?日本はその後の大戦に疲弊して、合衆国に何をされた?僕の見た未来と君の見た未来は同じかはわからないが、それが大きく外れているとも思わない」
「何をされたと言うのか」
「犬にされたのさ!日本はね、合衆国の犬に成り下がったんだ!」

この男。
苛烈だ、だが同意はしない。

「アングロサクソンの支配から、我々アジア諸国は団結して抜け出さねばならない。それが成せるのは、この大清帝国を宗主としてアジアが一つにまとまり、列強を跳ね除ける力を持った時のみだ」

彼の目が少し開いた。真っ黒な瞳が覗く。

「僕の前世はね、日本人なんだ。それが今は清国(このくに)に生まれてきた!」

両の手を大きく広げながら続ける。

「生まれに感謝したよ。白人の支配を終わらせるのは日本では力不足だった!だから大陸、そう大清帝国を中心にアジアは力を集結して立ち上がる必要がある。そのために……」
「それで、わざわざその演説を私に聞かせるために来たのですか。そのためだけに?」

話の腰を折るように、ワザと途中で口を挟む。ムッと口を閉ざしたので、畳み掛ける。

「よしその通りだ。一緒に立ち上がりましょう、今すぐ清国へ連れて行ってください、とでも言うと?私が?まさか」

まさか、そんな筈が無いだろう。芝を植えるどころか草が生えるわ。
しかし、この男の真意は何か。何を求めてここに来た。それを探らねばならない。
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