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第4話.山ト定ト

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手負いのエゾシカと睨み合う。
奴の創傷はそんなに浅くはない。致命的なダメージを受けてなお、生き延びようとする精神力だけで立っているのであろう。

「ふぅっ、ふぅっ、ふうっ」

心拍数が上がっているのがわかる。槍でとどめを刺そうと、右足に力を込めた。その瞬間エゾシカは頭を下げ、角を構えてこちらに突っ込んできた!

「……っ!」

逃げずに向かって来るとは。槍を保持したまま身を翻(ひるがえ)し、左側に跳んだ。
大きな角を間一髪で回避して、再び奴の方向に向き直る。穂先は真っ直ぐそちらに向けたままだ。
通り過ぎたエゾシカは、その場でステップを踏むようにこちらに向き直ろうとして……姿勢が崩れた!
失血ゆえか、後ろ脚がかくんと折れる。

「うわああああああっ!!」

好機とばかりに大きく踏み込み、その首の付け根に向かって槍を突き立てた。ずるりと皮を裂き肉に食い込む感触が、長い柄を通して手に伝わる。すぐさま刃を引き抜き、二歩下がった。

「はぁっはぁっ……っ!」

どくっどくっと傷口から鮮血が溢れ出す。三秒遅れてエゾシカは横倒しに倒れた。拍動に合わせて命が失われていく、その眼から光が失われ濁った。
私は槍を構えたまま動けず、呆然(ぼうぜん)とそれを見ていた。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。もう動かないシカの、その顔から目が離せなくなっていた。

「よぐやった」
「あっ……」

いつのまにか爺様達が隣まで来ている。
彼らは倒れた獲物の姿を見て、私の肩を叩いて一つ二つ言葉をかけてくれた。
口を開こうとしたが、しかしすぐには言葉を返せなかった、おおっぴらに喜ぶのも何か違う気がしたからだ。

幸運にも獲物が捕れたが、すぐに解体には移らない。狩が成功した時には、お祈りの言葉を奏上(そうじょう)する決まりがあるのだそうだ。
吉五郎にならって顔を下げて目を閉じる。
ひとしきり爺様が聞き取れない言葉で祈りを捧げてから、戦利品を解体することになった。

「せばいぐか」

爺様の言葉で目を開ける。
再び目に飛び込んできた雪の白は、まばゆいばかりに光り輝いて見えた。


……


作業は沢の近くで行う。
脚に縄をかけ、三人で引っ張って降りた。かなり重量がある、これだけでも重労働だ。

水辺に着くやいなや、爺様が慣れた手つきで、胸に小刀(ナイフ)を入れて骨を剥がしていく。力を込めて斬るというよりは、剥がすという表現が適当であるように思う。切り口からは白い蒸気が立ち上がった。

おもむろに切り取った心臓を手渡される。
寸前まで動いていたそれは、溶けた鉄でも触ったかのような熱量を持っていた。鹿は体温が高いとは言うが、それだけではない命の熱さと言うのを感じたのだ。

すぐにそれを沢の水で洗い流しはじめる。
取り出した心臓や肝臓は大量の血を含んでいる。無造作に雪の上に置いてしまうと、体温で溶けた雪に埋まって、血が抜ける前に凍りついてしまう。すると端的に言うと不味くなるのだという。

その間にも、爺様と吉五郎は無言でテキパキと残りの仕事を片付けていく。胸のあとは腹だ、皮と内臓の間に手を入れながらぐぅっと開けていく。手で引き剥がすように手際よく部位に分けてしまった。

一息ついたところで、吉五郎が先ほど処理した心臓を持ってやってきた。それを薄く小刀(ナイフ)でスライスして、私の前に突き出しす。

「け」※1

その一切れを受け取って、眺める。いわゆる心臓(ハツ)の刺身だ。※2少し動揺したものの、今の私は明治の猟師(マタギ)の孫である。

「……ええい」

思い切って、口に入れた。
プリとした食感、想像していたようなクセは無く、淡白な味わいが美味い。

「美味い。 ……でも醤油が欲しいな」

顔を上げてそう言った。
その言葉を聞いた爺様は僅かに目尻を下げて、わさびも合うぞと応えた。その時、私は初めて猟師(マタギ)の一員になれた気がした。

十三歳の春。これが私の初狩猟であった。


……


※1「け」
=「食べろ」

※2肉の生食は食中毒のリスクがあります。
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