甘雨ふりをり

麻田

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第41話

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 それから、一週間ほど佳純は毎日、夕飯時には帰ってきて、一緒に食事をして、少し触れ合った。今では、二人掛けのソファに並んで座って食事をとれるようになった。意識せずに手を握っていても、拒否反応は一切現れない。日々そうしたことに着実に気づけるようになっていて、嬉しさで僕たちは前のように、たまに冗談も言い合い笑いあえるようになっていった。
 今日も食事を終えると、すぐに佳純は風呂に立ち、僕はライトを小さくし、ベッドに入った。風呂上がりの佳純はいつも通り、ソファに毛布を準備しだす。

「佳純…」

 寝返りを打ち、小さく名前を呼ぶと、彼が手をとめて、僕を見つめた。その仕草にも心が満足し、くすぐったくなり足先をすり合わせた。

「このベッド、一人だと、広すぎるんだけど…」

 掛け布団の端をいじりながら、つぶやくと佳純は目線をかすかに外した。まだ早かったかな、と思い直し、弁明しようと声を出そうとしたが、佳純が先に答えた。

「そうだな…」

 毛布を片付けてから、佳純は近づいてきた。本当に、同じベッドで眠りにつけるのかと思うと、全身が心臓になってしまったかのように、どくどくとうるさいほど脈打っていた。ぎ、とベッドが鳴ると、いよいよ現実味が増して、紅潮する。

「もう少し、奥に…」
「え、あ、ごめん…」

 佳純に言われて、奥に詰める。それでもベッドはまだ広い。もう一人入れそうなほど間を開けているのに、大きな身体の佳純が布団に入ってくると、熱を感じて、より体温が上昇する。じり、と手汗を握る。
 じ、と彼を見つめるが、佳純は仰向けになり、早々に目を閉じてしまう。物足りなさに、少し寂しさを感じるが、それよりも、同じベッドに彼がいることへの喜びが僕の身体を埋め尽くしていた。

「…佳純」

 本当に小さく名前をつぶやく。かすかに伏せた睫毛が揺れた気がして、言葉を続けた。

「こっち向いて…」

 枕に頬を押し付けながら、独り言のようにつぶやき、祈る。しばらくしても、反応がなく、もう寝てしまったのだろうか、と寂しさを募らせると、佳純がゆっくりと寝返りを打ち、瞼を持ち上げた。淡いベッドライトに照らされた顔は、少し硬いものだった。

「手、つないでも、いい…?」

 佳純は少し考えてから、微笑み、僕らの顔の丁度真ん中に右手のひらを天井に向けて置いた。温かい布団の中から、空調は効いているが少し寒い外に手を出し、かさついた手のひらに右手の指を這わせる。長い指の間に、自分のそれを差し込むと、優しく包みこまれる。頭の先から爪先まで、甘い熱がじりじりと巡り、つい頬が緩んでしまう。
 やっと、戻ってきたんだ…前の僕たちに戻れるんだ…。そう確信して、名前を囁いて、僕はとろけるように眠りについた。



 朝焼けのような白い靄がかった視界の先で、大きな背中が見える。左手の袖を捲り、何かをしている。彼の名前を囁くと、急いで袖を戻し、振り返る彼は微笑んでいた。

「まだ、寝てろ」

 優しく頭と頬を撫でられて、その心地よさに瞼を降ろす。

 


 目を覚ますと、いつも通りの風景だった。昼の淡い光が降り注ぎ、広い部屋には誰もいない。なんだか夢を見ていた気がするが、頭は曇天のように雲がかってはっきりとはわからない。しばらく、ベッドの上で風景を眺めてから、いつものルーティーンへと行動を移す。
 軽く昼食をすますと、ソファでうたた寝をしてしまった。佳純と触れ合うことが出来てから、やけに眠気が強くなった。昼間、凛太郎が来る日以外は、基本的に眠っていることが増えた。なんだか堕落していて嫌なのだが、無性に強い眠気にあらがうことが出来なかった。ここ最近の通り、うたた寝と起床を繰り返していると、あっという間に夕方になり、佳純が帰ってくる。タイムワープしているようで佳純にすぐに会える感覚はすごく贅沢だと思っていたので、特に問題視はしていなかった。

「七海」

 名前を呼ばれて、微睡みの中から意識を戻す。ソファに横たわるように眠っていたようで、温かい毛布が掛けられていた。夕飯の支度が完成しており、佳純はソファの前に膝をつき、僕を見つめていた。どうやら、今日は、昼食からずっと眠っていたらしかった。

「ごめ…、最近、眠くて…」

 さらり、と前髪を撫でられる。こうした戯れも少しずつできるようになってきたことが嬉しい。勝手に頬が緩み、ゆっくり身体を起こすと、佳純が隣に座る。

「今日も、お疲れ様…」

 佳純のとがった顎にかけて、輪郭を指先でなぞると、緩い笑顔が返ってきて、じわりと幸せがにじむ。
 並んで手を合わせて、食事をして、穏やかな時間を過ごす。今日は、いつもより帰宅時間が早いようなので、食後はお互いゆっくりと読書をすることにした。僕は料理雑誌を膝に開いて眺めていたが、やがて瞼が重くなり、うつらうつらと頭が船をこぎだす。そして、倒れるように隣にいた佳純の肩に身体を預けてしまう。
 は、と目を開き、急いで身体を起こす。佳純もこちらを見ていて、じ、と見つめあうことになってしまう。

「…大丈夫か?」

 その一言には、様々なことを気遣う気持ちが混じっていることに気づいていたので、うなずく。
 やはり、そろそろもうワンステップ、上がってもいいのかもしれない。
 上質なセーター越しに佳純の腕に手をかける。きゅ、と握りしめて、潤んだ瞳で意を決して、小さくつぶやく。

「そろそろ…抱き、しめても、いい、か、も…」

 佳純は、少し目線を外してから、また僕に向き直り、淡く微笑んだ。そして、上半身をひねり、僕に向けて両腕を開いて見せた。瞳の奥では、心配の色がどうしてもにじんでいるが、それでも僕のことを受け入れようと待ってくれている彼の優しさが身体にしみわたり、漏れる吐息に熱がこもる。
 差し出された手に触れ、腕を辿り、肩に手を当てる。あまりにも心臓がうるさくて、視界が揺れている気がする。恥ずかしくて、彼の瞳と鎖骨できらめくシルバーのネックレスとを視線を行き来させる。彼の体温を、より強く感じはじめ、じわじわと身体の奥から熱があふれるのがわかる。
 彼の厚い胸板に手をあわせ、頬を肩口に当てる。

「かす、み…」

 できた。
 やっと、彼に抱きつくことができた。
 嬉しくて、背中に手を回り、より強く佳純を抱きしめる。

「…っ、七海」

 佳純が耳元で、息をつめ、優しく僕を腕の中に包み込んだ。
 彼に与えられる熱がどんどん脳髄を溶かし、背筋や腰の奥、指先に甘い痺れが走り続けている。多幸感に震え、涙がこぼれそうになった。
 顔を動かし、彼の首元にすり寄る。ふ、と呼吸をしてみるが、嫌悪感はない。しかし、彼の甘い匂いが薄い、というか、匂わないような気がする。そういえば、前に抱きしめられた身体は、こんなにも骨ばっていたか、薄かったか…と遥か昔のような記憶に疑問を持ち始めてしまう。見上げる彼の頬は、シャープだったが、もう少し肉がつき、色がよかったのではないか。目元のクマはひどく濃くなっている。
 日々、そうした彼の不調には気づいていたが、多忙のせいだと思っていた。日頃、無表情の彼がよく笑顔を見せてくれていたから、大きく気にしなかった。

「…佳純、何かしてるの?」

 記憶よりもこけた頬に指を這わすが、抱き込まれてしまって顔が見られなくなる。

「食欲が落ちてるだけだ」

 つむじに鼻をあて、大きく深呼吸している。その呼吸に合わせて、以前より薄くなった胸が膨らんだ。そこに手を差し込み、押しやった。佳純は少し、不服そうな顔つきで僕を見つめた。

「佳純、何、してるの…?」
「別に…」
「嘘」

 眉間に皺をよせ、冷たく言い放つ彼の態度に確信めいたものを抱いてしまう。は、と記憶が鮮明に思い出され、急いで彼の左腕を握りしめ、セーターをまくり上げた。



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