甘雨ふりをり

麻田

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第10話

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 四時間目の終わりのチャイムと同時に、僕は弁当をもって教室を出る。だんだんと駆け足になってしまい、あの空き教室にたどりつくころには、肩で息をしてしまう。教室に入ると、全面ガラス張りで解放感があふれている。埃をかぶり並んでいる椅子や机の影に隠れて、今日も彼はいた。顔の上に別の成人向け雑誌を開いて、どうやら昼寝をしているらしい。身体にまとわる湿度に、じわりと嫌な汗が身体ににじむが、彼を見つけてしまえば、そんなものは一切気にならなくなった。口元が勝手にゆるむ。

「おーい!昼だぞ!起きろ~!」

 本当は触りたくもないが、ほぼ裸体の女性が表紙の雑誌をはぎ取ると、彼は瞼を降ろしたまま、眉間にしわをよせて呻く。横向きに寝返りを打ち、固く瞼を降ろす。見た目は立派な男性なのに、そんな子供みたいな仕草に思わず、笑ってしまう。お構いなしに、いつの間にか彼が用意してくれた、のかはわからないが、そこに置いてあった淡いピンク色のドーナツ型のクッションに腰掛ける。

「今日のおにぎりのおかずは、変わり種だぞ~」

 弁当の包みを解き、別に包んであるおにぎりを出す。むっくりと大きな身体を起こし、僕の隣に座りなおす彼は、僕の手元にあるおにぎりを見つめている。はい、と渡すと、少し目が輝いている気がした。一緒に手をあわせ、いただきますをする。誰かと一緒に食事をとることの幸せをかみしめる。

「カレー…」

 大きなおにぎりを、一口食べると、彼の表情がぱっと明るく、周りにはキラキラとしたエフェクトも見える気がした。今日は寮母が喜んで大きく握った、カレーおむすびだ。昨日のカレーを固めて、中に丸めて入れられている。
 佳純は、見た目は冷静沈着で無表情な大人な空気があるが、食事の好みはわんぱくな小学生と同じようなものなのだ。そうしたギャップにも愛らしさがあふれていると僕は思い、にこりを笑みを浮かべた。

「ちゃんと起きてえらいから、からあげもあげる」

 弁当箱の中から大きいからあげを箸でつまみ、佳純に差し出すと、むぐむぐと食べる。大きな犬に餌付けしているようで、これまた笑えてくる。
 おいしいでしょ?と小首をかしげると、彼はより一層、瞳を輝かせて少しだけうなずいた。ふふ、と笑い声が漏れてしまう。彼との時間は、静かで穏やかで、この上なく心地よい。
 一度、弁当を持ってこようか、と尋ねたことがあったが、彼はいらないと答えた。どうやら、あまり昼は食べないらしい。そしたら、一体いつ、この大きな身体を維持するための食糧を調達しているのだろうかと疑問に思ったが、言葉は飲み込んだ。アルファの寮にも寮母はいる。おそらくどこか、超一流のホテルでシェフを務めていたような素晴らしい料理人だろう。だが、彼はそうした洒落たものよりも、僕の実家のような庶民派染みた食事を好んでいるようだった。そんな気取らないところも、良いやつだな、と思っている。


「わざわざ、見送ってくれなくても良いのに…」

 毎日、昼休み終わりに彼にいう言葉だ。
 あの日以来、彼は僕を見送ってくれるようになった。教室がある棟まで。また、一人で訳のわからないあの転校生に絡まれ、僕を一人ぼっちにさせない優しさ、かなと思っている。都合がよすぎるかもしれないが。静かな、彼と僕の教室を出て、しばらく歩くと、すぐに人のざわめきが近づいてくる。誰かがいる、人目のある渡り廊下まで降りてくると、彼は立ち止まる。

「ありがとう…じゃあ、またあとで」

 振り返り、軽く手をふると、彼は僕にしかわからないくらいの笑顔を見せて、来た道を帰っていった。すらりとした美しい後ろ姿に見惚れてしまう。チャイムの音が聞こえ、僕は急いで教室に帰る。本当は、ずっと、彼を見ていたかった。


 帰りのホームルームが終わると、僕はカバンをもって、足早に教室を出る。昼休みと同じように、彼と僕の教室に向かう。軽音部のちょっとキーの外れた演奏を通り過ぎ、目当ての場所につくと、彼は昼と同じように寝ていた。一日、どれだけ寝ているのだろうかと観察日記をつけてみたくなると前に彼に言ったら、あからさまに嫌そうな顔をされたことを思い出して、つい笑ってしまう。あれだけ、はっきり感情を表すことは珍しいのだ。
 彼の寝ている横で、この前、ぞうきんをかけ、きれいにした机と椅子に座り、今日の授業の復習をする。また、ぱちぱちと雨音がする。アジサイは、どんどん他の花も開き、目線をあげれば、目の前はアジサイで一色だ。紫もあれば、水色もある。この美しい景色を、佳純と並んで二人占めしていることが何よりも幸せだと思った。

 初めて人にぶたれたあの日から、僕と佳純の過ごし方は少し変わった。
 昼休みの終わりには、僕を見送ってくれるようになった。放課後になれば、彼のもとで過ごすようになった。完全下校の時間になる少し前に、彼と肩を並べて帰るようになった。どれも、彼がそうしてくれるのだ。いつも自由気ままな彼が僕に合わせてくれていると思うと申し訳なくて、いつも遠慮するが、彼は僕のそうした声は聞かない。その少しの強引さが、僕の心を熱くさせた。彼の言葉のない優しさが、僕を救ってくれた。
 学校にいる間は、佳純の優しさに支えられて、穏やかに過ごせる。しかし、自室に帰り、布団にむぐると、転校生のセリフが頭の中をずっとぐるぐると回るのだ。
 怖い。他人にまっすぐと悪意を向けられたことが生まれてはじめてだったから。さらに、僕を苦しめているのは、親友二人のことだった。何度も、携帯を手に、彼らに連絡をとろうとした。
 あの子の言ったことは、本当だったの?、それを聞いたところで、僕はどうすればいいのかわからなかった。きっと、優しい二人のことだ、否定して僕がほしい言葉をくれるだろう。だとしたら、それに甘えてしまって良いのだろうか。二人の本音が彼の言っていた通りだとすれば、僕はまた二人に地獄のような日々を強制することになる。今の彼らが自由で、あの子と一緒にいることで豊かで幸せな日々を過ごせているのであれば、それが良い。と結論づけ、瞼を降ろすとあの三人で笑う姿が目に浮かぶ。ずっと気づかないふりをしているが、そこは、僕の場所だったのに、と心の奥底のどろりとした部分で闇に包まれた僕は何度も叫んでいるのだ。そう思うとはっきりさせたいような、このままでいいような、曖昧な気持ちになり、嫌な汗でじっとりで枕が濡れているのだ。
 大好きで、大切だったあの二人は、もう、僕を脅かす存在になってしまっていた。
 それが、悲しくて苦しくて、涙が止まらなくなる。自分が、嫌いでたまらなくなってしまうのだ。

 勉強をしていたが、頭に入ってこないため、やめた。相変わらずの彼の横に寝転ぶ。小さな寝息が聞こえる、寄り添うと彼の体温を感じる。安心して、涙がにじんで、一人で笑った。人は安心しても涙が出るのかと新しい自分に気づく。
 頭の下に両手をまわし枕としている彼の二の腕に、少しだけ頭をのせる。ふんわりと、甘い優しい香りが僕を包むような気がして、僕はその心地よさに任せて、瞼を降ろした。彼の隣では、僕はぐっすりと眠れるのだった。

 雨音が遠くで聞こえる。大きく優しい何かが僕の頭を撫でている。髪の毛をかきあげ、地肌を撫でることもあれば、髪の毛の上から撫でつけるように撫でる。その慈しむような手のひらに僕は頬がゆるむ。そして、前髪をかき分けるように撫でられると、額に熱く柔らいものが吸い付いてきた。前にもこんなことがあったような気がする。気持ちいい。心がいっぱいになる、気持ちいい。ずっと、そうしていて、とすり寄ると、手は遠ざかってしまった。やっぱり、人間、欲をかくといけないんだな、と少し寂しい気持ちになる。また、ぼんやりとした眠気に任せて意識を落とした。


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