黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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第45話

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 翌日から、昼頃になると史博の運転手が僕の屋敷へと来るようになった。昼食に呼ばれたり、たまにディナーをごちそうしてもらう。誘われるタイミングのほとんどに彰が立ち合わせていて、運転手が同行を促すが、彰は冷たい瞳で見下ろして黙って帰ってしまう。昨日見た後ろ姿の拳は震えていた。
 どういう感情を抱いているのか。僕にはわからなかった。ただ、昔から彰と史博は仲の良い兄弟ではなかったように思える。表では笑顔を貼り付けて並んでいることもあったが、物心ついたころから、そんなツーショットも珍しいものになってしまった。

「依織はフレンチが好きなんだね」

 多忙な史博が時間を割いて、僕と共に昼食を過ごし、帰りの車内で史博がつぶやいた。振り返ると、窓枠に肘をついて、こちらを見て微笑んでいた。光が差し込んで、絵画さながらの美しさがあり、思わず目を細めてしまった。

「和食もいいが、フレンチのコク深い白身魚の好みは私と同じだ」

 今日の史博は機嫌が良さそうだった。いつも、表情に感情を出さない人だが、今日は鼻歌交じりに笑うことが多かった。商談でも成立したのだろうか。

(今が、チャンス、かもしれない…)

「あ、あの…史博さん…、僕…」

 何度も頭の中で考えた。なんと言えば、納得してもらえるか。僕の気持ちが伝わるか。迷惑をかける人が減らせる言い方にできるか。

(婚約を解消してほしい…、史博さんに僕は、ふさわしくない…、僕に好きな人が出来てしまいました…)

 汗ばんだ手のひらを握りしめて、息をつめて口を開く。

(それか、大学に行きたい…、猶予をつくって、それから…)

 幾重にも理由は出てくる。けれど、渇いた唇は、はく、と開いて、閉じて…で固まってしまった。
 じ、と僕を見つめる瞳は光なく、先ほどまでの機嫌の良さ滲むものではなくなっていた。ただただ、僕を貫くように見下ろしていた。
 肌がひりつく。
 これは、アルファの威圧だ。
 絶対的王者である、目の前のアルファが出す、征服の圧だ。
 僕は肩をすくめて、動けなくなってしまう。
 言葉が出せなくなった僕を、史博は、にこり、と顔をゆるめて、頬を撫でてくる。

「明日はロシア料理にしよう。依織の口にあうかな?」

 指先はしっとりと僕の頬を撫でて、唇をかすめて去っていった。

「それから、来週はクルーズでゆっくりしよう」

 彰も誘って。

 目を細める史博がようやく圧を解き、息ができる。細くなった器官に酸素が回り、咳き込んでしまう。

「大丈夫?」

 ふふ、と機嫌よく笑う史博は、僕の背中を撫でる。鼻腔を埋め、香るのは、強いホワイトムスクだ。
 息をつく度に、すっかりこの匂いに脳内を浸食されてしまったことを悟る。
 愛しい香りは、遥か彼方に行ってしまったように感じられることが、何よりも僕を絶望の淵へと追い込んだ。






 ちか、と電子の光が暗闇で主張する。のそりと身体を起し、机の上にある電子端末を手にする。

『オクラが捕れたのでお浸しにしました』

 しゅぽ、と小気味いい音を立てて、写真が送られてくる。青々としたオクラがつややかに光り、鰹節がはらはらと乗っていた。

『おいさいです』

 あの長い指は、丁寧に植物を扱うのに、なぜか急に不器用になる。

『ごめんなさい、おいしいです』

 また送られてくる。わざわざ訂正を送ってくるところが、彼らしくて、ふ、と頬が緩んだ。

「おいしそう」

 オクラを画面越しに撫でる。僕たちが一緒に植えたオクラは、結局、花すらも見そびれてしまった。
 再会してからの僕たちは、ずっと抱きしめ合っていた。ひっそりと戯れる僕たちを、世界から隠すように植物たちが見守ってくれていた。僕は透に夢中だった。

「君にまで気が回らなかったよ…ごめんね」

 生命力たくましく輝くオクラに小さく唱える。

『僕も食べたい』

 たくさんの言葉を悩んで、そう絞り出してメッセージを送る。すぐに既読がついて、『次会えた時に振る舞わせてください』と送られてくる。

「返信、早すぎ…」

 ふふ、と笑えて、とくとく、と身体から生きている音がしてくる。その音のもとに手を置く。

(僕、生きてたんだ…)

 息苦しい毎日に、この感覚を忘れていた。毎日送られてくる透からの数件のメッセージを返信できるのは、多くなかった。毎日会いたいのに、会うのは彰で、最近は史博とも毎日会う。二人のアルファからの圧で、僕はすっかり疲弊していた。
 透とのやりとりが唯一の癒しだったけれど、それすらも、後ろめたくて、自己嫌悪に苦しむ日は開くことすら出来なかった。
 あまりやりとりを増やすと、よくないと本能が訴えている。

(あの二人は、勘がいい…)

 彰も史博も、やはり、日本を代表する大企業の血なのだろうか。二人とも、妙に勘が鋭くて、いつも僕の心を見透かすようにまっすぐと見つめてくる琥珀の瞳が怖い。夏休み中の僕の世界は、大田川の二人のみだった。それ以外をいれてしまうと、その隙を二人に気づかれてしまうような気がして恐ろしかった。

(そう思ってる時点で、もう僕は…)

 踏み出す勇気が足りない。
 それは、透を諦めなくてはならないという決断となる。

(それは、絶対に嫌…)

 スマートフォンを握り、彼を抱きしめるように胸元に寄せる。

(だけど…)

 アルファの威圧を前に、息すらできない僕に、何ができるのだろう。
 挑戦してみればみるほど、自分の無力さに辟易とする。

 透がいないと、息の仕方さえも忘れてしまう。






 大田川の運転手に連れてこられた先は、海岸沿いだった。静かな海に一隻大きな船が沿岸に着けており、緑と青の豊かな世界に紛れ込んだ異質な存在に見える。港に停められた車から降りると、後ろから運転手が僕のキャリーケースを持ってついてくる。その目先にある港から、一人の男が駆けてくる。

「依織!」

 白シャツにハーフパンツとラフな格好をしているのに、背景の海とマッチして、ブランド広告のように見えてしまうのは、彰の持つオーラというやつのためなのか。

「彰…」

 久方に再会できたかのように大喜びで手を握りしめる彰は、満面の笑みだった。高い位置にある整った顔を見上げると、目があっただけでさらに笑みを深める。

「彰も来てくれたんだね」

 史博と二人きりで一泊を考えると気が重かった。彰がいたら、少しは和らぐだろうと考えると、肩の力が少しだけ抜ける。それが表情に出ていたのか、彰は頬を染めて、眦を下げると僕の髪に指をさしこんで、ゆったりと長い指で梳いた。

「依織がいるとこなら、どこへでも」

 柔らかい空気に随分機嫌が良いと感じた。史博と毎日のように会うことになってから、彰の笑顔は減り、じっとりと僕を見つめる日が増えた。こんなに軽やかな表情である彰は、久しぶりに見る気がした。




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