黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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第40話

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 睫毛が、涙を吸って重い。
 ふ、と息をつきながら、重力に沿って視線を下げると、ちら、と何かが一瞬光った。
 見間違いかと思って、指先で涙を払う。目を疑う。ガラスに手を当てて凝視するが、それが現実なのだとありありとわかる。
 小さい四角は光っていて、左右に揺れる。それはスマートフォンの持ち主が左右に振っているからだ。長い手をぶんぶん、と振り回す姿は普段の落ち着いた姿からは想像できない。けれど、そうした無邪気さがあることを僕は知っている。
 隣で、彼の一挙手一投足にいつも、心臓を鷲掴みにされていたから。
 目が合うと、思い切り顔を緩めて破顔する。
 ぶわ、と全身に熱い血液が巡り、居てもたってもいられなくて、気づいたら鍵も閉めずに部屋を飛び出していた。







 学園の寮には、ちゃんと閉門時間がある。もうそれをとっくに過ぎている。
 それなのに、彼がオメガ寮の目の前にいるのだ。
 閉門時間を過ぎると表の入口は閉ざされる。寮番が受付にいて監視をしている。だから、非常口をこっそりと開けて、その階段を走りおり、寮の目の前にある噴水広場へ向かって走る。
 遠くに月明かりを受けて、水しぶきを輝かす噴水が見える。その目の前に大きな影を見つける。僕に気づいた影は、大きく手を振った。

「依織先輩っ!」

 長い脚で相手も走り出して、僕とぶつかる。足に見合った長い腕は開かれて、僕はその胸元に飛び込む。相手もそれを受け止めて、ぎゅう、と抱きしめる。飛び込んだ先は熱くて、甘い香りが詰まっている。

「なんで、なんで…っ」

 頬を擦り寄せて、何度も抱き直す。もっと強く、もっと密着したくて、一つになってしまいたくて。耳元から温かな心音が少し早くなって聞こえる。ゆったりと息を吸う音もする。心地よくて、涙が溢れた。

(会っちゃいけないのに…)

 結局強くなれなかった僕は、大好きな透に会う資格なんかないのに。

(なんで、いるの…)

「依織先輩に会いたくて…」

 そ、と頬を包まれると、優しい指が涙をさらう。見上げると眉を下げた透がゆるやかに微笑んでいた。

「迷惑でしたか?」

 ごめんなさい、と答えていないのに、透は謝った。

(迷惑じゃない…)

 けれど、声に出来なくて、唇を噛み締める。
 後ろめたい僕が、透に何かを言うのは随分失礼なことだ。

(僕なんか、透に会ってもらえるような人間じゃない…)

 思えば思うほど、自分が醜くて、嫌になる。そ、と距離をとろうと胸元に手を当てて離れようとする。すぐに透がその腕ごと抱き込んでしまう。

「会いたかった…」

 頬ずりをされると、透の毛先が鼻先をくすぐる。熱い吐息と共に耳元で囁かれた言葉は、思わず溢れた、透の思いそのもののようだった。

「っ、僕も…」

 かすれた声が出ると同時に、ばらばらと涙が溢れた。

(苦しい)

 大好きな人と会えることは、こんなにも苦しいんだ。

(僕も会いたかった)

「ごめ、…っ、ごめん…ごめんなさ…」
「いいんです…、謝らないでください…」

 透は理由は聞かなかった。だから、きっと、賢い透はすべてを見透かしているのだ。
 そう気づくと、全てがさらに情けなくてたまらない。だけど、透は、優しく頭を撫で、背中をさすってくれる。僕が少しでも楽になるように。泣き止むように。

「なんだっていいんです…、僕が、依織先輩の傍にいるって決めたので」

 こうやって、僕のもとに帰ってきれくれれば、それでいいんです。

 囁いて微笑む透は、静かだった。穏やかで、ただただ僕を思う瞳は優しく揺らいでいた。

(よくない、よくないよ…)

 それなのに、僕は透の手を離すことも、あのアルファを突き飛ばすこともできなかった。
 無力な自分が嫌で仕方なくなる。

「夏休み前に、依織先輩に会えてよかった」

 幾重にも涙を零す僕の涙をさらいながら、透はふふ、と楽しそうに笑う。ゆるやかにほどけた頬を桃色に染めて、垂れた眦をさらに甘く下げる。

「ぼ、僕も…会いたかった…」

 精悍な輪郭を確かめるようにおそるおそる触れると、透はさらに笑みを深めた。僕の左手を、透の右手がそ、と包んだ。大型犬のように頬ずりをして、くすくすと笑う。

「嬉しいです」

 とっても、と溶けたように笑む透は、愛おしかった。身体の奥底から熱が湧き上がってきて、血が通っていることを思い出す。
 透が優しければ優しいほど、透のことを好きだと心の奥底から感じる。その分、後ろめたさも強く表れる。そうした心の叫びを誰にも零せない。なぜなら、全部、自分が蒔いた種だからだ。
 何をするでもなくのうのうと過ごしていたから、取り返しのつかないところまで来てしまった。嫌なことから曖昧と逃げてきたから。

「透…」

 尖った顎先に口づける。
 本当は唇にしたかった。今の自分では、許されないと思った。

「透…、んっ…」

 ごめんね、とまた零れそうになった。その前に、唇が触れ合った。

「あ…、ん…、っ、ん…」

 驚いて瞬きを忘れていると、焦れた瞳がつやり、と光って、何度も追いかけるように吸い付いてくる。思わず、鼻から声が漏れて、顔に熱が集まる。きゅ、と瞼を降ろして、うなじに添えられた手のひらに誘われて、上を見上げるように首を傾いで、透からの甘い雨に酔いしれる。

「と、る…ん、んぅ…ぁっ」

 唇を合わせようと開いたタイミングが合わずに、透の唇と、僕の舌先が触れる。びり、と背筋が震える。瞼をあげると、翡翠の宝石と混じる。じわあ、と氷が溶けるように欲が滲み、眉間に皺が寄る。

「依織先輩…っ」
「ぁ、んう、ん、あ、っく…ん」

 くちゅ、と舌が合わさる。ぞわ、と快楽の痺れが全身に周り、指先が震える。それを、強く握りしめられる。目の前の身体から、強いフェロモンが溢れ、鼻腔を通って、身体を内側から溶かしていくようだった。

「ん、好き…好き、です…」
「と、んう、んん…、ぁ、ん…っ」

 ざり、と表面が合わさると、透の甘い唾液がとろりと流れ込んできて、側面をなぞって奥へと入ってくる。奥歯の裏側を撫でられて力が抜けていくと、歯茎を辿って反対側へ行って、上顎を味わいつくすように、執拗に舐められる。
 内腿が痙攣しているかのように震え、かくん、と膝から力が抜ける。たくましい透の腕が軽々と僕を抱き支えて、唇を塞ぐ。驚きで奥へ逃げた舌を絡めとって、大きい口へと誘うように吸い出される。熱い透の口内に舌を差し込むと、ぬるり、とはちみつのように甘い唾液に舌がひりつく。茫然としている舌を慰めるように、くちゅくちゅ、と混じりあうように絡め合う。
 ふ、ふ、と鼻で息をすることに必死で、僕はただただ、透から与えられる、想像できないほど強い欲に混沌と意識を濁すばかりだった。透のシャツを握りしめて、ひたすらに身体は悦楽の渦に落とされる。

「依織先輩…、依織先輩…っ」

 睫毛は雫をつけて重い。うっすらと涙で滲む視界を開けると、眉間に皺を寄せた透が顔を赤くして、必死に僕の名前を呼んでいた。それから、すべてを奪うように唇を、舌を交じり合わせて、好きだと唱える。

(重い…)

 透の愛は、僕が思っているよりも重いのかもしれない。

(それが、魂が揺さぶられるほど…嬉しい)

 短くした前髪が振り乱れている。舌を舐め、吸う透の懸命に動く頬を撫でて、前髪をこめかみに沿うようになぞる。くちゅ、と舌が合わさって離れていく。長い睫毛が開けると潤んだ翡翠が見えた。

「透…」

 かすれて、甘い吐息が透の唇にかかって、僕に返ってくる。瞳はまっすぐと僕を見つめていて、透の瞳に映った僕は、蕩けた顔をしていた。
 両頬を包むと、簡単に覆い隠されてしまう大きさの違う手のひらが捕まえて、手のひらにキスをする。瞼を降ろして、誓うようにつぶやく。

「好きです…、ずっと…、僕はずっと、依織先輩だけが…」
「…んぅ、…」

 薄い皮膚の手首の内側に、透が強く吸い付いた。その際に、犬歯がかすめて、ひくん、と肩がすくんでしまう。ちらりと見えた犬歯は、アルファらしく発達した白く立派なものだった。




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