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第0.5話
しおりを挟む初めて見た時から、欲しい、と思った。
何もわからないまま、親に連れられていった社交界は大人ばかりでつまらなかった。
五歳上の兄は、持ち前の処世術を使って大人たちとコミュニケーションをとっていた。まだ小学生にもならない俺には、おもしろくないだけだった。
そんな俺を見た母は、ケーキをもらっておいで、と背中を押した。言われた通りに、ビュッフェスタイルで小さく切り分けられたケーキを悩んでいると、ふと、いい匂いがしたんだ。
砂糖やクリーム、バターの匂いじゃない。
もっと甘くて、ずっと食べていたくなるような、けれど胸が痛くなるような、全身が熱くなる心地悪さを掻き立てるような、不思議で特別な香り。振り向いた先にいたのは、小さな子どもだった。
つや、と電飾を受けて光を放つ黒髪。まっさらな肌。頬を桃色に染めて、長い睫毛で囲われた大きな瞳は、きらきらと輝いていて、この前見た天の川のような澄んだ星空のように美しかった。
「どうしようかな…」
小さな手を唇にあてて首を傾げている。ケーキを悩んでいるようだった。
桜貝のような小さいけれど美しい爪先が触れる唇は、赤みを帯びていて柔らかく震え、濡れているようにふるり、としていた。思わず、ごく、と口の中に溜まった生唾を飲み込んだ。
すると、ぱち、と大きな目元が瞬きをした。顔を上げた少年は、軽い毛先をふわりと揺らして、こちらに振り向いた。
すとん。
俺の中で、何かが落ちる音がした。
くり、とした瞳はまっすぐに俺を見つめていて、吸い込まれてしまった。身体が跳ねたように、大きくどくん、と心臓が高鳴る。
目を見開いて夢中で目の前の少年を見つめていると、ふふ、と大輪が花開くようにきらびやかなのに、カスミソウのような小花が綻ぶように愛おしい笑みがこぼれた。
「どれにするか、悩んじゃうよね」
くすくす、と笑う少年は俺にそう同意を求めた。
(俺のものにしたい…)
「んー、僕は…、やっぱりショートケーキにする! 君は?」
「ぼ、くも…」
「じゃあ、この苺が一番おっきいの、あげるね」
力ない俺の手から皿を抜き取ると、少年は器用にトングを使って小さく切られ、真っ赤な苺を乗せたショートケーキをそこに乗せた。
「はい、どうぞ」
少年は両手で皿を抱えて俺に差し出す。けれど、俺は少年の瞳から逃れることが出来ずにいた。動かない僕を不思議そうに見てから、ふんわりと優しく笑う。
「ちゃんと僕のより大きいよ?」
テーブルの上に、自分の皿と俺の皿を並べて、ね? と首を傾いで上目で微笑まれる。ぐう、と喉奥が詰まるようで息をするのがやっとだった。
それが、まさか、長らく付き合いのある会社の息子だと知ったときは世界がひっくり返るくらい驚いた。
嬉しくて飛び跳ねてしまいそうだったけれど、すぐあとに、兄の婚約者なのだと親の会話から知り、絶望の奈落へと落とされる。
俺の初恋。
しかし、それは、兄という存在によって、叶わぬものとなっていた。
俺の運命。
それが、名戸ヶ谷依織だった。
依織だけだった。
とにかく、俺が夢中になれるのは、依織だけだった。
依織以外の人間はみんな同じで、どうでもよかった。
兄の婚約者なんて、どうでも良い。
依織が俺だけを愛して、俺も依織だけを愛す。
そして、そのためには、番になることは絶対条件だった。
番になってしまえば、俺たちは永遠に離れることはなくなる。例え、依織の気持ちがなくなってしまったとしても。
俺から依織を嫌いになることは絶対にありえない。死んでも、俺には依織だけだと断言できる。
依織がオメガで、俺がアルファ。これは、神様からのメッセージだと思う。
俺たちが、運命で結ばれているというメッセージ。
けれど、運命はもっと残酷だった。
「彰、僕はね、僕のオメガにちょっかい出されるのが一番嫌なんだよ」
にったりと気味悪い笑みを浮かべながら、俺に言ったのは、他でもない兄さんだった。
「何のこと?」
じり、と背中にかく汗を見せないように振り返って、兄を睨みつけて返す。
しばらく、じ、と見下ろされて、威圧に負けそうな膝を力を入れて踏ん張る。
アルファとして、兄は非常に優秀だった。
会社経営について、中学生の頃から父の秘書について学んでいた。成績は常に首位で、生徒会長などのリーダー職も必ず推薦されて決まっていた。人付き合いもうまく、誰とでも親しくなり、人の懐に入る。その何でもできる器用さが、気味悪かった。
俺だって、それなりに人から好意を寄せられる。けれど、それ以上に兄は、見た目も中身も優れていた。男としても、アルファとしても圧倒的上位にいるその男は、自分のオメガである依織にちょっかいを出してくれるなと僕に牽制にきたのだ。
それを知らん顔して、笑い飛ばすが、兄も目を細めて、わかっているならいいさ、と言って去っていった。
だから、たとえ、兄さんと依織が結ばれても、俺は親友として、家族として、隣にい続けられることもしあわせだと思った。
依織の力になれるなら。依織の笑顔を、一番近くで見られるのなら。
小学校を終える前に、依織の美しさに周りは気づき、騒ぎ始めていた。
依織の隣には、常に俺がいた。だから、依織に俺以外の友達はいない。そう、依織には、俺だけがいればいいのだ。
しかし、卒業を前にして、告白ラッシュが始まっていた。
私立小学校から内部進学する人も、受験で他校へ進学する人も、はたまた成績を収められずに違う学校へ行かざるを得ない人もそれぞれいる。そのため、別れは必須なのだ。
その前に、こぞってませた子どもたちは思いを遂げようと必死になっていた。
大変面倒くさいが、その渦中に俺も巻き込まれていた。
依織と一緒にいる、何よりも大切な時間なのに、それを遮って声をかけてくるやつらがいる。その度に依織は、少し困ったように、さみしそうな笑みを見せて、いってらっしゃい、と背中を押してくる。
(そんな顔してるくせに)
嫌だという俺に、相手が待ってるから、と押し進めてくる依織に、苦い気持ちになった。依織がそう言うから仕方なしに相手をする。
「ずっと、彰くんのことが好きでした」
顔を真っ赤にして思いを押し付けてくるやつらはみんな、知らないやつらだった。
溜め息をついてから、今後の人間関係を悪くしないように、ありがとう、と笑顔で言ってから、俺はまだ恋愛とかわからないから、と曖昧に答える。
どれもこれも、依織が言うから仕方なく。
ある日、同じ場面を過ごし、依織のもとへ急ぐと、知らない男に話しかけられていた。
ぐつ、と耳の奥で煮えたぎる音がする。依織が社交辞令だとしても、俺以外に笑顔を見せている。相手の男はそんなことも気づかずに顔を赤くして、馴れ馴れしく話しかけている。
「良かったら…これ…」
「え? 僕に…?」
全速力で依織と男の間に身体を滑り込ませる。それから、男が渡そうとしていた封筒を思いきり押し返す。どん、と男の胸元に突きつけると、後ろに数歩下がった。
「あ、彰…?」
「君、大田川の子だとわかって依織に話しかけてるんだよね? その覚悟、ある?」
そう言ってすごめば、必ず男たちは走り去っていった。
第二次性の検査をする直前くらいから、依織はさらに美しさを開花させていた。もとから美しい人だった。
そこに、抱きしめたら消えてしまいそうな儚さがあって、しかしその奥には、潤んだ瞳と濡れた唇がやけに目を引き、白いうなじから甘やかな香りが漂い理性を焦がす色気を持つようになった。
蜜に誘われて、よからぬ虫が湧いてくるようにもなってしまった。
それを蹴散らす度に、依織は、視線を泳がして、頬を染めて、さらりとした黒髪を耳にかけながら、小さくありがとう、とつぶやく。
「依織は、俺が守るから」
つややかに光る髪の毛に指を指し込んで撫でると、上目で見つめ返してから、うん、と小さくうなずいて笑む依織は、俺だけのものだった。
身体が成長するに当たって、俺の欲はどんどん歪んでいく。
昔から自覚はあった。けれど、それは、とめどないものになっていく。
(依織に、嫌われたくない)
だから、俺の欲望は秘めたものにしなければならなかった。
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