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第28話
しおりを挟む低い声でつぶやかれる。天使の見た目の少年からは想像できない硬い声質にどきり、と肩を固める。
「婚約者がいて、そのおかげで実家は融資を受けてるにも関わらず、僕の男にちょっかいかけて、それでいて、自分には他の男がいるくせに?」
目の前に歩を進めてきた少年の影に僕は半歩下がるが、すぐに追いつかれて、胸元を指先でとん、と押される。軽い力だったのに、ぐらり、と視界が揺れる。
その反動で、溜まっていた涙が、はらり、と頬を滑って、美しい天使が目の前でにたり、と唇を引き上げた。
「僕だって、見ちゃったんだよね」
君が、アルファと抱き合ってるところ。
耳元で甘く、ゆったりと囁かれる。
身体が強張る。時間をかけて首を回すと、見開いた瞳の中に美しく微笑む天使が現れる。
「いい身体してたね。でも、ああいうのがタイプなんだね。彰と真逆」
君って、博愛主義?
くす、と嘲笑されたことに気づくけれど、心臓が低く強く鳴り、喉もつまって声も出せなかった。
「史博さんには黙っていてあげる。その代わり、彰の前から消えて」
「…っ」
彰が以前、香耶は史博の送り込んだ者だと言っていた。そのことがつながって、瞠目する。冷たく鋭く光る瞳に射抜かれ、僕は唾を飲む。
細い指が僕の顎を掴んで持ち上げる。強く甘い砂糖菓子のようなにおいが漂ってくる。
「僕は、あのアルファが特別お気に入りなの。お気に入りのアルファに他のオメガのニオイがつくの、嫌なんだよね」
柔らかな手のひらが僕の頬を伝う涙を塗り込むように顔をこする。
大輪が花開くような魅惑的な笑顔を貼り付けて、最後に香耶は明るく言う。
「そしたら、君の最後の一年の青春、応援してあげるよ」
触っていた手がいなくなると、視界が陰り、頬に柔らかいものがそ、と触れ、ちゅ、という愛らしいリップ音が鳴った。鼻先を、さらり、と絹糸のような細く美しい金の髪の毛がくすぐる。
「王子様のお姫様は、僕一人でいいの」
わかった? と誰もが魅了される笑顔で小首を傾いでから、悪魔は振り返って来た道を帰っていった。
気づいた時には、僕の運命は決まっていた。
高校を卒業したら、大田川史博というアルファの元に嫁ぐこと。そこで、優秀な子どもを一人でも多く出産すること。
それが僕の役目。
両親も兄二人も、使用人たちだって僕のことをすごく大切に愛情持って育ててくれたのは実感している。感謝もしている。
けれど、時節、思ってしまうときがある。
学園内で手をつないで寄り添う恋人たちを見ると、僕にはその相手を選ぶ権利がないのだということ。
クラスメイトが好きな人の話で盛り上がっているのを全く共感できないことは、人間として寂しいことなのではないかということ。
彰にまっすぐ好きだと気持ちを伝える人たちの瞳はいつだって、生命力に満ちていて輝いていて、人としてとても魅力的に見えたこと。
それらすべて、僕から剥奪されたものなのではないか、と。
欲しいものはすぐに買ってもらえた。本、文房具、着心地の良い服…。必要としていなくても、買い与えられた。
それを僕は、送ってくれた相手の気持ちを優先して、笑顔をはりつけて、欲しかったんだ、と言う。その言葉で相手が喜んでくれるなら、それでいい。僕の気持ちよりも、誰かがしあわせになってくれることの方がとても大切なことなのだから。
だから、両親が、家族が、会社の人たちが、しあわせになってくれるのなら、僕の運命だってしあわせなものなのだと思う。
社交界で史博のエスコートを受けているとき、多くのオメガとアルファから羨望と嫉妬の眼差しを受ける。
いくらでもこの席は譲るのに、と思ってしまうけれど、そう言い放つことが残酷なことなのはなんとなしに感じていた。だから、どんな陰口を言われても、僕は聞こえないふりをして、史博の隣で、少しでも彼にふさわしいオメガであるために綺麗に毛繕い、笑顔を貼り付ける。
そうすれば、史博も両親も、大田川の人たちだって、みんな笑顔だったから。
(でも、僕は…?)
ずっと隠してきた疑問は、ある人との出会いによって明確になってしまった。
今までずっと、心の奥底に隠してきた。それなのに、自我が芽生え、はじめて誰かの隣にいたいと強く願った。
手にいれられるなら、彼との未来が欲しい。
(だけど、僕は、そのために家族を、親の会社を、見捨てるの…?)
「うっ…、く…」
声が溢れて口元を覆う。大粒の涙はワイシャツをびしょびしょに濡らしていた。
自分ではどうにもできない、非力さが空しくて、悲しくて、悔しかった。
さらに、僕を苦しめているのは、もう一人のアルファの存在だった。
史博との未来が決まっているのと同時に、彰が隣にいることは僕にとっての当たり前だった。
勉強がわからないことがあれば一緒に考えてくれた。二人で唸りながらペンを動かして、ようやく答えがわかると、一緒に大はしゃぎして喜んだ。
どんくさい僕はよく転んでいて、その度に彰が常備するようになった絆創膏を貼ってくれた。彰に貼ってもらうと、治りが早く感じられた。
はじめての発情期を経験して、自分の身体が知らないものになってしまった恐怖と気持ち悪さに発情期明けの鬱々とした僕を何も聞かずに、笑い話を一生懸命したり、気分転換に外に連れ出したりしてくれたのは、彰だった。
(どこで、間違ったんだろう…)
その彰が、僕を見ても笑いかけてくれなくなった。
今や、彰が恐怖の対象となっている。
数か月前の自分からは想像できないことだった。
(キスくらい、我慢すれば良かったのかな…)
昇降口で見た、彰のキス。
食堂で見せつけられた、彰のキス。
無理やりされた、彰とのキス。
(そのくらい、挨拶だと思って、笑って流せば良かったのかな)
そうすれば、彰とはずっと、良き友達として、隣にいられたのかな。
でも、それは無理なことだった。
僕には、好きな人が出来てしまったから。
(彰には、彰の好きな人がいる…だけど…)
彰の恋人は、他のアルファとも関係を持っている。
僕を脅すくらい、彰のことが好きなのに、あのオメガは、他のアルファとも同じ行為をしている。
それは、彰を裏切る行為ではないのか。
香耶に対して苛立ちが募る。けれど、それを言い返せない自分が、憎い。
(きっと、もう、彰とはこのまま壁をつくった状態で別れてしまうのだろう…)
それは寂しいことだと思う。
大切な、唯一無二の存在を失うことだからだ。
最近の彰の考えていることは、僕には全くわからなくなってしまった。
じっと僕を見つめる瞳は、今までの柔らかいものではなく、強い意思を持つものだった。ただ、その意思がどのようなものかはわからない。けれど、温かく柔らかいものではない。それはもっと、憎悪のような、強い感情。
きっと、僕がなにかをしてしまったのだ。
だから、彰は変わってしまった。僕と、距離を置こうとした。
(僕よりも、恋人を優先したのだと思っていた…)
その恋人は、他にも…。
これを、彰に知らせなくて良いのだろうか。
(でも、そうしたら…)
香耶は、何をするかわからない。
史博に、僕のことを言うのだろうか。
もし、史博が、僕が他のアルファのことが好きだと知ったら、どうするだろう。
きっと、この縁談の話はなかったことになる。それは、家族の期待を裏切ること、会社の社員の生活を脅かすこととなるだろう。
(それは、絶対にできない…)
香耶は、彰に近づくなと言った。
そうすれば、僕の恋愛を黙認する、と。
(けど、それは、彰を見捨てること、じゃないのかな…)
最近の彰は怖い。だけど、彰が僕を大切にしてくれていた過去は変わらないし、友達でありたい、と今でも思う。
大切な友達が、知らずの内に裏切られ、傷つくことになるのであれば、それは、僕にとってもつらいことだ、とも思う。
いつも僕を救ってくれた彰を、僕はこのまま見て見ぬふりをしていいのだろうか。
(彰には、彰を一番に大切にしてくれる人と、好き合ってほしい…)
だけど、それを解決するためには、僕も大きな何かを失うことになる。
(それは、家族か、会社か…、僕の一番大切な存在の…)
無理だ。
今の僕では、選ぶ勇気がない。
僕は、竹藪の中一人で泣き、暗くなったのを機に、ふらふらと寮へと向かう。
僕たちの秘密の園には、行けなかった。
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