黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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第23話

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「なんで貧乏人と?」
「ありえねえんだけど…」
「なんで、姫と貧乏人が一緒なわけ?」

 透がカバンからいつもの教科書とノートを取り出す。その間に、やけに周りがうるさいことにようやく気付いた。
 声の方に視線を送ると、みんながこちらを見ていた。そして、急いで視線をそらすが、またこちらを見てくる。

「は? 姫に取り入ってんの?」
「やば…、下品すぎ」
「姫が汚れる…」
「貧乏人が背伸びして夢見てんのかな」

 姫、とは僕の呼び名だと思う。
 けれど、そうなると、文脈的に、貧乏人とは…。
 透を見上げると、僕に気づいて、困ったように笑っていた。

「もしかして、逆玉の輿ってやつ? 狙ってんのかな?」
「図々しすぎるでしょ、うける」

 どういうことはよくわからない。
 ただ、透が現れてから、おそらく彼への侮蔑だと思わる言葉が相次いで囁かれている。
 透は、出した教科書を整えたが、少し考えてから、カバンに戻した。

「貧乏人が身の程をわきまえろよ」

 がたん、と椅子から大きな音を立てて立ち上がる。こそこそとずっと騒々しい彼らを睨みつける。びく、と肩を震わせてからすぐに視線をそらして、勉強をし始めようとした。
 その卑怯さというか、下品さというか、ひどい行いに腹の奥がぐつぐつと熱を持つ。
 一声かけようとすると、手首を握られた。その温度に目を向けると、透が頬をゆるめて僕を見上げていた。

「僕、先生に呼ばれてるの忘れてました。職員室寄ってから、先に帰りますね」
「と、透…っ」

 透はいつもの笑顔だった。
 カバンを背負って、長い脚でさくさくと歩いて図書室を後にした。僕も急いで、机のものをカバンに放り込んで、椅子も直さずに走り出す。










「待って、透…っ、待ってってば…!」

 一歩が僕の一歩の何倍もある透に追いつく頃には僕の息は切れ切れになっていた。手首を掴むと、ようやく透の足は止まった。
 図書館がある別棟から本棟への渡り廊下で、雨音が辺りに響く。

「透…」

 なんて言えばいいのだろう。
 なんて声をかけるのが正解なのだろうか。

 図書室にいる生徒たちの多くが好奇の目で僕を見ているのは感じていた。でも、それは、この学園に入学してからずっとのことで、僕は慣れていた。
 しかし、それが、透が登場したことにより、一気に違う色を見せ始めた。
 あれは、明らかに、侮蔑だった。
 その矛先は、透だった。
 思えば、購買に行こうと言ったときも、図書室を提案したときも、透は乗り気ではなかった。むしろ、そういう人が多い場所を嫌がっているようだった。しかし、優しい彼は、僕のわがままを聞こうといつも前向きに検討してくれていた。

「僕…」

(最低だ…)

 少し考えれば、透が嫌な理由の予測だって立てられたはずだ。透が、嫌がる理由を考える思いやりが顕著に欠如していた。
 たった一人の大切な人だからこそ、もっと、ちゃんと話をすべきだった。

 自分が情けなくて、透に申し訳なくて、鼻の奥が痛む。誤魔化すように、すすると、ぐず、と音を立ててしまった。

「依織先輩」

 低く、柔らかい声で名前を囁かれる。そ、と優しい親指が僕の頬を撫でた。顔をあげると、透は眉を下げて微笑んでいた。

「泣かないでください」

 また一つ、こぼれた涙を透の親指が払う。

「だ、って…僕、透が…嫌なのに、無理やり…、傷つけて…ほんと、僕…」

 最低だ…
 言い切ると、顔がぐしゃり、と歪んで涙が一気に決壊する。

「ごめん、ごめんね、透…っ、ぼく、僕のこと、しか、考えて、なくって…」
「違いますよ、僕の体調気遣って、提案してくれたのでしょう?」

 だから依織先輩が泣くことなんて一つもないですよ、そう明るく笑って、透は僕の両頬を包んだ。
 透の僕を責めない大きい優しさがあると、なおさら、僕は、自分がちっぽけでみじめで、情けない人間なのだと思い知らされる。

「ごめ…っ、僕が、わがままいって、と、る…透が…っ」
「大丈夫、僕は大丈夫ですよ」

 ぐしゃぐしゃの僕に、何度も透は朗らかに微笑んで、大丈夫だと励ましてくれる。嗚咽まで止まらなくなってくる。透は、一つ息をついて、僕を腕の中に閉じ込めた。
 柔らかな胸元に、たくましい腕で包んでもらって、日向の匂いがする。肩の力がするりと抜けていって、呼吸はしやすくなっていった。けれど、透への申し訳なさと周囲の謎の悪意への憤りに涙は止まらなかった。

「ごめ、ごめんね…、ごめん、ごめっ…」
「もう、いいですってば」

 ふふ、と笑って、僕の頭をぽんぽんと撫でる。

「な、で、透が、あんな、いわ、れ…むかつく…っ!」
「ははっ、怒ってるのか泣いてるのかわからないですね」

 透の背中に腕を回して、めいっぱいの力で抱き着いた。胸元にぐりぐりと顔をこすりつける。

「透、こんな、に、優しいのにぃ…、なんれ…むかうくううっ」

 僕は透のシャツをべしゃべしゃに濡らすことばっかりで、僕の頭上で透がどんな顔で笑っていたのか、どれだけ嬉しそうに笑って僕の頭に頬ずりをしていたのか、わからなかった。
 さらに、渡り廊下の僕たちを雨越しに見ている人影にも気づくはずもなかった。








「落ち着きましたか?」

 鼻はいくらすすっても、もう詰まって使い物にならなかった。
 透が出してくれた、お気に入りのハーブティーを一口飲む。優しい甘さと華やかな夏っぽい香りが疲弊した全身に沁み渡っていった。
 結局、僕たちは、いつもの植物園へと帰ってきてしまった。いつものベンチで並んで、同じ飲み物を口にする。心底、この場所が、二人きりであることが落ち着く。
 また泣き腫らした瞼でむっすりと黙る僕を見て、透はふふ、と笑う。肩にかけた、透が貸してくれたタオルで、髪の毛を拭ってくれる。竹藪を通ってくるときに、僕たちは濡れてしまった。
 重い瞼のまま、僕も透の肩にかかっているタオルで、透の瞳を隠す長い髪の毛を拭う。目が合うと、透は柔らかな笑みで僕を見つめた。
 一度目を伏せ、深呼吸をしてから、透は静かに語り出した。

「僕、この学園を選んだのは、特待制度があるからなんです」

 ぼんやりする頭だけれど、しっかりと透の言葉を聞く。
 桐峰学園には、特待制度がある。しかし、桐峰らしく、その基準は非常に厳しい。座学教科のみなら、技能教科でも優秀な成績を収めなくてはならない。何より、その制度を使うためには、入試で満点近い結果を残さなければならない。

「僕の家は、普通の家なんです。両親は、普通のベータですし…」

 眉を下げて笑う透から、何を言おうとしているのかが見えてきた。
 だから、僕は急いで口を開く。

「無理して話さなくていいよ」

 それはすごくプライベートなことだと思う。ずかずかと他人が踏み込んでいいような部位ではないはずだ。
 しかし、透は、首を横に振った。

「依織先輩には、知っておいてもらいたいです」

 その言葉がさす意味が、よくわからなかった。
 透は、頬を緩めて穏やかに微笑んでいた。その表情をみると、透が僕を特別な存在として認識してくれているように思えた。口をつぐんで、透の次の言葉を待つことにする。





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