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第19話
しおりを挟むなぜ、透にはわかってしまうのだろう。
「依織先輩…? どうしたんですか? またこんなに泣いて…、あれ、血、出てますね。手? 口? 見せてください」
助けてほしいと思った時に、透は現れてしまう。
「…依織先輩?」
ドアを開けて僕を見つけると、一瞬で笑顔になる。けれど、すぐに僕の様子を見て、眉をひそめて、眦の色を変えた。
見せてください、と言って、僕の手を掬った。ポケットから、柔らかいタオル地のハンカチを出すと、他人の血なのにためらいもなく、拭いていく。そこに出血点は見当たらなくて、口元に目をやった。
透の行動、一つひとつを見てしまう。透の瞳を目で追ってしまう。
傾いた日差しの光を集めた瞳は、透けて、七色にも光っているように見えた。
(きれい…)
無垢で美しい。
汚れを知らない透は、まぶしかった。
「と、る…」
泣き果てた身体はからからで、彼の名前すらまともに呼べなかった。
僕のつぶやきをちゃんと聞いてくれて、透は、頬をゆるめて、目元を細めた。
「はい、依織先輩」
微笑んだ透からは、温かくて甘やかな香りが漂って、涙が盛り上がって、幾重にも伝い落ちていく。
(だめだ…)
透の肩に額を、とん、とつける。瞼を落とすとはらはらと雫が零れていく。出来るだけ困らせないように、嗚咽を押さえようと口元に両手を当てる。けれど、止まらなくて、肩が震えてしまう。
ジャージ越しに緊張で身体が固まり戸惑っているのがわかる。けれど、僕は、もう泣くことしか出来なくて、透を解放してあげることはできなかった。
しばらく、もぞもぞとしていたが、意を決したように、ぎこちない手のひらが背中を優しく撫でてくれて、脳の奥がとろり、と溶け落ちる。
(好き…、透が好き…)
どうしても、傍にいたい。
今だけでもいい。
だからどうか、神様。
透の傍にいさせてください。
首を持ち上げると、透は視線を落として、僕の瞳を覗き込んだ。
つやり、と光る瞳にすべて吸い込まれしまいたかった。
ゆっくりと首を伸ばして、瞳を離さずに、そのまま近づく。
重い睫毛を伏せると、一粒、涙が溢れる。
それは、透と僕の唇に挟まれて、消えてしまった。
僕は、祈るように、誓うように、透と初めて、キスをした。
何も言わずただ泣き続ける僕を、透は何も言わずに抱きしめてくれた。しばらくしてから、肩を抱いて、僕たちの秘密の園に入り、ドアをしめる。
温かな透の身体に触れて、自分の身体が冷えていることがわかる。もう、湿度も強い六月だというのに。
僕をベンチに座らせると透は立ち上がって、どこかへ行こうとした。
僕の唯一の温もりがなくなることに強い恐怖を感じた。急いで袖を掴んで、すがるように見つめた。
「大丈夫です、あの箱を取りに行くだけですから」
それは、数歩先にあるテーブルの下に収納されているものだった。けれど、今の僕はひどくもろくて、ただ、その数歩の距離でさえ透がいなくなることが、怖かった。やっと引いた涙がまた、簡単に湧き上がり、ぼろり、とたまらず零れた。
透は、隣に腰を下ろす。僕はそのまま、彼の胸元に倒れ込んで、またしつこいほど泣いてしまう。
けれど、透は、ずっと肩や頭を撫でて、大丈夫ですよ、と柔らかく深く染み入るその声で僕を安心させてくれる。それでも、今の僕は不安で、怖くて、寂しかった。
「あ」
何かひらめいたように声を漏らした透は、少しかがんで腕を伸ばしていた。重い瞼のまま視線を送ると、ベンチの裏手にある透の畑に向かって手を伸ばしている。そして、ベンチの足元から畑に向かって生えている葉っぱをひっぱった。
「依織先輩」
優しく僕の名前を囁く。それから、頬をそっとかさついた親指が撫でた。とくり、と身体から音がする。
視線をあげると、透は柔らかく微笑んでいた。それから先ほど収穫した葉先が細くわかれた草を数枚、手にして見せる。
「ここのはすべて無農薬なので、大丈夫だと思います」
透が化学肥料などではなく、すべて自然のものを使って、ここの植物や野菜たちを大切に育てているのは、一緒に育てた僕が一番知っている。しかし、彼が手にしている葉は、野菜でも観葉植物の種類でもなく、ただベンチの足元に生えている草でしかないはずだった。
長い指先で葉をこすり合わせる。葉らしい青い匂いがするが、その奥にはかすかな甘みや幾重にも香りが連なり重厚さを持っていた。
それをよくこすり合わせて、汁と葉を揉んだものを指先につけた透は、僕の顔を覗き込んだ。
「依織先輩…、じっとして」
真剣な顔つきに、ぱち、と瞬きをして固まる。やけに心臓がうるさく聞こえて、透の長い指が近づいてくる。何かと期待する心が膨れ上がる。けれど、重い頭ではよく考えることもできず、瞼を閉じて、透のことを信じて待つ。
ぬる、と唇が何か触れる。急いで瞼を持ち上げると、一心に透が僕を見つめていた。
「な、に…っ」
彼の指先が唇を撫でる。そわ、と背筋が落ち着かなくなり、手首に触れる。
次第に、じわ、と唇がひりついてくる。
「いっ…」
「痛いですか?」
「ぃ、いひゃ、い…」
唇を撫でる指先が遠のく。ぴりつくそこが落ち着かなくて、思わず上下で合わせてみたり、無意識のように舌を舐めたりしてしまう。今度は舌先からじわ、と青い味が広がる。
「にゃ、にこれ…」
いきなりの味に鼻のしわを寄せて、むぐむぐと口の中をあわせていると、くすくすと透が笑う。
「よもぎです。天然の万能薬ですから、どんな傷にも効きますよ?」
「んう…」
よもぎ、とは聞いたことがある。昔、食べていいものかわからないほど真緑の団子を思い出す。結局、食わず嫌いで口にしたことはなかったのだが。
どうしても気になって、唇を擦り合わせてしまう。その度に、思い出したかのようにひりついた痛みが現れて、さらによもぎ汁が沁み込んでいくのがわかる。
透が、堪えてくすくす笑っていたものが、ついに吹き出して、声をあげてのびのびと笑った。
「あは、ははっ、依織先輩、すごい、顔してます」
「ぅ、だって…」
不思議な味がする。青いのに、どこか懐かしくて甘い気がする。けどやっぱり、青くてにがい。でも甘い気が…の繰り返しがあった。その間にも唇の痛みが増していくようだった。
「痛いんだもん…」
「こすりすぎです、ふふ、傷は触っちゃダメです」
ね、と頬を柔らかくつままれて、透が笑いかける。頬を紅潮させて、楽しそうに笑う透に身体が体温を取り戻し、こわばっていたものがほどけていく。ふふ、と笑う透がまぶしてく、温かくて、ついに僕の顔も緩んだ。
「そんないじったら、明日はたらこみたいに腫れちゃうかもしれませんよ?」
「たらこ…」
はた、と二人で視線があって、間が生まれる。
おそらく、透は頭の中でたらこみたいに、真っ赤に膨れ上がった唇を二枚つけた僕を想像したのだろう。だって、僕もそうだったから。
それから、ぷ、と一緒に吹き出して笑い合う。
「それは困る」
「キャラクターみたいでかわいいですよ」
そんなこと言うくせに、吹き出してくふくふ笑っている。でも、全然僕は嫌ではなくて、むしろ安心した。
目の前にいる誰かと同じことを想像したり、それを一緒に笑えたり。そうできることはとてもしあわせなことなのだと、今、強く思い知った。
(嬉しいな…)
「依織先輩?」
温かな気持ちに身体が満たされる。それが溢れるように、涙が一粒、零れ落ちた。
ふふ、と笑うと、もう片方の目からまた溢れる。
「依織先輩…」
透は眉根を寄せていつもの心配そうな顔をしたけど、僕が穏やかに笑うから、透も静かに微笑んだ。
それから、ポケットからいつものタオル地のハンカチを出して、僕の頬を拭う。
「僕がいつでも、依織先輩のハンカチになります」
だから、安心してください。
頬を撫でる生地はとても柔らかくて。
目の前の青年から与えられる言葉はあまりにも温かくて。
彼の隣はとびきり落ち着いて。
もう、透がいなければ、僕はいなくなってしまう。
透の優しい言葉に、僕はまた笑う。
(透の前だけでは、僕は僕のままでいいんだ…)
そうわかると、全身から力が抜けて、透の胸元で静かに泣いた。
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