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第18話
しおりを挟む彰には、たくさんの居場所がある。
クラス。生徒会。親衛隊。それに、恋人の隣。
その多くの選択の中にあるだろう、ちっぽけな一つが、僕の隣だと思う。
けれど、僕にとっての居場所は、彰の隣しかなかった。
それすらも失ってしまった僕に残された居場所は、たった一つしかなかった。
こんな顔で会いたくなかった。
もう、心配させるような顔はしたくなかった。
いつも彼がそうであるように、僕だって、笑顔で彼に会いたい。
だけど、どうしても、つらいことがあった時、僕の頼れる場所は、心休める場所は、心の傷を癒してくれるのは、彼の隣しかなかった。
何よりも、彼以外のアルファとキスをした後に、会いたくなかった。
ぐし、と唇を拭う。
走り切って、荒い呼吸と汗に驚いていると、口の端から唾液が伝っていたのに気づいた。一瞬で頭が真っ白になって、服の袖でこすった。
何度こすっても、まだ残る感覚が消えなくて、手の甲でも、手のひらでも、指先でも、何度もごしごしと拭った。口の端がひりついているけれど、その痺れすら余韻のようで、気持ち悪かった。
(どうすればいいの…)
親友だと思っていた彰に、無理矢理キスをされた。それも、挨拶でするようなものではなかった。すべてを奪おうとする、強いものだった。
依織だけだ、と簡単に言う彰からは、違うオメガのにおいがした。あれは、間違いなく転校生の香りだった。
すれ違った讃美歌の似合う美少年から同じにおいがした。あの少年が、転校生の素顔なのだろうか。だとしたら、なぜ変装をしているのかわからない。
彼が、彰の婚約者だというのは本当なのだろうか。僕は、今まで何も聞いたことがなかった。
(彰からも…、史博さんからも…)
彰の兄である史博から、何も聞かされていない。
史博の貼り付けた笑顔の奥の色の無い瞳を思い出して、背筋が凍る。
日本を代表する大企業の大田川グループと僕の家は取引相手として良好な関係を築いていた。それをさらに存続するために、僕と史博さんの婚約は、物心ついた頃には取り決まっていたことだった。だから、その弟である彰を僕の傍に置き、何かよからぬことが起きぬよう、警護兼観察をされてきた。
「依織、僕は他のアルファに自分の大切な子が汚されるのが一番嫌いなんだ」
だから、気を付けてね。
毎回会う度に、そう笑って僕の頭を撫でる。呪いのように。
桐峰を卒業したら、僕は大田川の性となる。そして、史博と番い、彼の子を産む。子どもは、大田川が選んだ乳母たちが世話をする。世界随一の教育を施す。そして、その息子たちも大田川のための血肉となる。
妻となり、番となる僕には、勉強も恋愛も、何も必要とされない。
その将来がわかっているからこそ、両親もこの全寮制の学園を希望する僕のわがままを最後のわがままだと思い、叶えてくれたのだろう。
家族も、史博との婚約を望まないなら破談すると言ってくれている。けれど、それを破談にすることによって起こるデメリットが大きすぎることもなんとなくわかっているのだ。両親の心配する顔の瞳の奥には焦燥があった。だから、僕は笑ってうなずくしかなかった。
それでも受け止めて生きて行こうと思えた唯一の救いは、彰と家族になれるということだった。
どんなにつらいことがあっても、彰と一緒にいられるならば大丈夫だと思っていた。
彰と会えれば、楽しい話をして笑ったり、好きなものを共有したり、絶対に救われる。そう信じていた。
けれど、それも、違うのだとわかってしまった。
(友達とは、キスは、しない…)
また唇が気になる。
いくら人間関係にうとい僕だとしても、今日の彰はいきすぎていた。彰がずっという「依織だけ」という言葉は、違う意味を含んでいたのかもしれないと思えてきた。
(でも、彰からは、違うオメガのにおいがする…)
アルファの身体からオメガのにおいが移ることがある。
僕にも匂いがあって、それが彰についたらどうしようかと思ったときもあった。けれど、保健体育の授業で、性交渉によってフェロモンは移るということを学習した。僕の匂いが彰に移ることはないんだと思っていた。
今の彰からは、転校生のにおいがした。
つまり、彰と転校生は、ちゃんとした婚約者なのだ。それも、性的な関係も含めた間柄。
指先から体温が一度に逃げていき、身体が震える。
(彰は…)
僕にキスをした。
依織だけ、といいながら、他のオメガとキスをしたり、さらに他のオメガと身体の関係を持っている。
それなのに、僕にキスをした。
(わからない…もう、何も…)
大粒の涙が零れて、呼吸もうまくできない。落ち着かせたいのに、気持ちはぐちゃぐちゃで、心はぼろぼろだった。
またドアの前で立つ。
僕の居場所はここしかない。
(こんな顔じゃ、会えない…)
心も顔も、めちゃめちゃな状態で、彼に会わせる顔がない。
いつも彼には迷惑ばかりかけている。
出会ってまだ少ししか経っていない。それなのに、もう何度、泣きべそを慰めてもらったことだろう。
優しい瞳。穏やかな声。おひさまの匂い。
「依織先輩」
その声で、甘く微笑まれると、じわあ、と身体の芯から熱があふれて、落ち着かないのに心地よくなってしまう。
透のことを思えば思うほど、苦しくて、涙が止まらなくなる。
(なんで、キスさせちゃったんだろう…)
唇がぴり、と痛んだ。もう一度手の甲でこすると、ぬるりとした。
(僕、透以外と、したくない)
したこともないのに、強くそう思った。
透以外と、深くなるようなことをしたくない。はっきりと意識の中に芽生える。
その思いが強くなればなるほど、何度もキスをされた自分のことがたまらなく嫌になる。
(したくなかった…、したくなかったのに…)
させてしまったのは、自分のせいだ。彰のせいではない。ちゃんとしてない自分のせいなんだ。
(婚約者がいて、その人のことだけを思ってない、僕がいけなかったんだ)
家族のため、会社のために決まっていた相手を裏切るようなことをしているから、罰が当たったんだ。
(だから、この思いも、何もかも)
なかったことにしよう。
やめにしよう。
もう、終わりにしよう。
(望んじゃいけない…求めちゃいけない…)
一人、耐えないといけない。それに、慣れないと。
(もう、会っちゃいけない…)
本当の心に固く目を瞑って、ただ涙が止まらない。
寮の自室に帰るしかない。それなのに、身体は岩のように動かない。
じゃり、と半歩下がるように足をにじる。けれど、それ以上は進まない。
思えば思うほど、知りたくない思いが涙と共に溢れてくる。
そんな風にもたついてるから。
目の前のドアが、がちゃり、と言って、スローモーションのようにゆっくりと開いた。
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