黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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第9話

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 その日は、朝から学校が妙に騒がしかった。

「昨日来た転校生、やばいらしいよ」

 こそこそと耳打ちあう会話がいくらか聞こえてくるが、そのすべてが転校生についてだった。それも、やばい、という言葉が使われている。良い意味なのか悪い意味なのかは、学校の奇妙な空気から察するに、良くない方なのだと思う。
 ここ連日、彰が生徒会の仕事で忙しいと言っていたのは、転校生の相手をしていることが多分にあったと先日聞いたな、とぼんやり思い出す。

(でも…そのおかげで…)

 僕は、毎日、透と会える。

 それをただただ、嬉しい、と噛み締めるだけだった。
 なぜ、彰に嘘をついているのかもよく考えずに。






「腹減った~っ」

 四時間目の終了のチャイムと同時にいつものように、彰が後ろから抱き着いてくる。
 少しだけ身体がぎくり、と硬くなるが、笑顔の彰には伝わっていないようで、僕も笑顔を貼り付けた。

「今日のA定食、何かな~? 早くいこ~」
「好きなものだといいね」
「三年間でA定食が好きじゃないものだったことなんて一度もないけどね!」

 そうだね、とお互い笑い合う。いつも通りの、僕と彰。友達としての朗らかな空気がちゃんとあった。

「昨日、ようやくひと段落して一緒に帰れると思ったのに、残念だったな~」

 昨日、という言葉に眉が少しだけ反応してしまった。

「ご、ごめんね。辞書、部屋に忘れちゃったからさ…」

 そう言ってから、図書室にだって辞書があることに気づいて、あ、と声が漏れそうになる。それをなんとか飲み込む。
 彰は、何も疑問は持たずに、そっか、と明るくうなずいていた。

「そ、それより、彰は転入生に会ったの?」

 廊下を並んで歩きながら、話題を替える。すれ違う生徒たちは、全員ちらり、と彰を盗み見ている。それに慣れているのか、全く興味を持たずに彰は僕に笑顔を向けながら答える。

「ああ、会ったよ? どうして?」
「なんだか、みんな、噂、してるから、どんな子なのかな、と思って…」

 どうして、と言って振り返った彰の瞳は細められていた。しかし、その奥には鈍く光る瞳が見えて、既視感を覚えてそらしてしまった。
 彰が足を止めたので、仕方なしに顔を見上げると彰は、にっこりと微笑んでいた。

「依織が心配するようなことはないよ」

 何を示唆しているのか読めずに、眉が下がる。長い脚で僕の隣に近寄ると、垂らしていた左手をそ、と握りしめられる。指をすくわれて、彰の長い指が、うっとりと僕の爪先を撫でる。

「俺は、依織のアルファなんだから」

 たったこの前も、このセリフを聞いた。
 逆光となり、表情はよく見えなかった。僕に影をつくりながら、彰は低く囁いた。ただ、彰のバニラの匂いが、重く僕を包みこんで、押し倒してくるようだった。口の中に溜まった唾を飲み下すと、彰はぱ、と離れて、もういつもの人好きする甘い笑みに戻っていた。

「さ! 早くいこ!」

 お腹すいた~! と彰は無邪気に騒いで、食堂へと歩み出す。僕は、握りしめられた指先が妙に冷えていることに気づいた。




「キャーーーッ!!!」

 ようやくA定食が食べられると鼻歌交じりの彰と共に食堂へと足を踏み入れようとした瞬間、室内から悲鳴が轟いた。椅子が幾重にも倒れる音や食器が割れる音も耳をつんざく。その音に驚いて僕は肩をすくめて、耳を塞ぐ。彰は、僕を広い背中に隠すように一歩前に出た。
 彰越しに事の中心に目を向ける。食堂にいる生徒たちの注目を集めていたのは、二人の生徒だった。
 スタイルの良い生徒と頭一つ以上小さい生徒が抱き合っているようだった。ただそれだけなのに、ここまでの騒ぎになっているが不思議に思えた。周りのざわめきから、僕は目を凝らして二人を見る。

「れ、怜雅…」

 それは、よく知った友人が小柄な男子生徒を抱き寄せて、キスをしていた。近くに怜雅の親衛隊の所属している人たちが何人もばたばた倒れ始める。

「んー…っ! 何、すんだよっ!!」

 高い声が辺りに響いて、怜雅が小さな子に突き飛ばされた。そうはいっても体格差が明らかで、怜雅は後ろに半歩下がったくらいで、もう一人の子が後退って肩を震わせていた。怜雅はいつも片目を隠しているほど長い前髪をかき上げて、目の前の少年を見下ろしていた。その表情からは怜雅の考えは読み取れなかった。

「お前っ! ふざけるな!!」
「ふざけてねえよ」

 少年はおそらく天然のパーマのかかったもじゃもじゃの黒髪と、ビン底のような眼鏡をした冴えない生徒だった。見たことのない人だった。けれど、マンモス校だから、こういう人もいたのかな…と他人事として見ていると、頭上から声がした。

「香耶…」

 声の主の顔を見上げると、彰はぽつりと誰かの名前をつぶやいて、無表情で見つめていた。その名前が、おそらく、今、怜雅の目の前にいる少年の名前なのだろうと推測する。視線を戻すと、ビン底眼鏡がこちらに気づいた瞬間だった。

「彰っ!」

 その少年は、こちらを見ると嬉しそうに名前を呼んで走ってきた。咄嗟に、彰の後ろに引っ込んで、息を飲む。何か得たいの知らない違和感が全身を駆け巡っている。すると、彰の背中に細い腕が絡みついた。

「彰、待ってたぞ!」

 まるで恋しい人に会えた喜びを訴える声が聞こえる。彰の背中が大きく膨らんで、息を長く吐き出した。その溜め息を聞き取る前に、少年が大きな声で怜雅に向かって言い放つ。

「俺の彼氏は彰だから、お前とは付き合えないっつーの!」

(え…?)

 また食堂の中はどよめきと奇声が溢れる。僕も驚きが呼吸を忘れてしまう。耳の奥で鈍く、地響きのような動悸の音が響き渡る。

「ね、彰?」

 少年が振り返った瞬間に、眼鏡の隙間から目があった気がした。
 夏の青空のように透き通った青の瞳だった。それが、にたり、と細められたように見えたが、確信はなかった。思わず一歩、後ろに下がってしまうと、ピンク色でつやめいている美しい爪のついた細い指先が彰の首に周り、目の前のもじゃもじゃの少年は背伸びをした。
 はっきりとは見えなかったけれど、金色の長い睫毛が伏せられた瞬間は眼鏡の隙間から僕には見えて、彼らの顔はそれこそ触れ合う距離にあった。ガシャーン、と食器が落ちる音とさらなる悲鳴が部屋を揺らす。
 物音のした方を見ると、そこには以前、昇降口で彰と口づけを交わしていた、彰の親衛隊隊長の可愛らしいオメガが、鬼の形相をして、こちらを睨みつけていた。目の前の机には何もなく、よく見ると、トレーごと通り道に払い落とされてしまったようだ。おいしそうなオムライスが床の上でひしゃげていた。

「わかったか?! 俺と彰は結婚も約束してるんだから、邪魔するなよ!」

 もじゃもじゃの少年は、怜雅に向きつつも周辺の生徒たちに言い聞かせるように大きな声で叫んだ。

「な、彰」

 彰のまっすぐ落とされた腕に絡みついて、頬を可憐に染めながら擦り寄っていた。ちらり、とやっぱりあの碧眼が僕を見やった。それから、口角を上げて、唇が音を出さずに動いた。

(き、え、ろ…)

 辺りは騒然としていて、僕も含めて、多くの人の視線が集まっているのがわかる。ただでさえ、目立つことは苦手なのに。
 くらり、と頭が傾いで、何とか重い脚で倒れないように後退る。それから、音もなく、その場から逃げるように人混みをかき分けて駆け抜いた。




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