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第4話
しおりを挟むさく。さく。
上履きが柔らかな芝を踏み、土をにじる。
「依織っ!」
頭の中が、身体の中が、まだうっすらと熱があるような、霞がかっていた。声のした方をぼんやりと見つめると、血相を変えて彰が走ってきた。
「あき、」
「依織!」
名前を呼ぼうとするが、その前に強く抱き寄せられて、口元が彼の固い肩口に押し当てられてしまった。
どくん、どくん、と力強い心音が僕の身体にまで響いてくる。包んできた身体は、熱くて、夏のように大汗をかいてじっとりとしていた。けれど、彰のフェロモンの甘い匂いがしていて、嫌悪はしない。
「依織、依織…っ、よかった…」
必死に僕を抱きしめる腕の強さから、彰が僕を心配してくれていたことが強く感じられた。耳元でかかる吐息が震えているようで、泣いているのかと思った。熱い背中にそ、と手を回す。軽く、ぽんぽんと叩いた。
「ごめんね…?」
身体を起した彰は僕よりも高い位置に瞳がある。見上げるようにして覗き込むと、彰は僕の前髪を優しく払って、頬を大きい手のひらで包んだ。彰の瞳はうっすらと膜を張って、つやりと潤んでいるように見えた。眉根をきつく寄せて、彰は苦々しくつぶやく。
「どこ行ってたの? 心配した…」
「そ、れは…」
いつもの彰の香りと、体温と、声に次第に意識は鮮明としてきて、ぐるりと頭の中がこの短時間のことが巡り出す。
く、と手首に力が入る。
「依織…?」
彰の胸元を押して、俯く。口元から彰に触れられた頬を手の甲で、わからないように拭う。なんだか、彰が触れた頬がざわざわと落ち着かない。それは、彼に触れられたようなふわふわとする感覚とは真逆のものだった。
彰は僕の意思通りに腕の力を緩めて、解放してくれた。
「彰から連絡くれるより随分早く勉強あきちゃって…、校内探索してたら、迷子になっちゃって…」
へらりと笑って平気で嘘を述べてしまう。
長年一緒にいる彰は、ぴくりと眉を寄せて僕を見下ろしていた。
「…本当?」
じり、と半歩下がる。彰は僕の腕を握りしめて離さなかった。足元の上履きを見てから、僕の身体に沿って視線をあげる。何かを探るような瞳は、昔から知っているものだった。彰には、僕の嘘は通用しない。
それでも、僕は、本当のことを言いたくなかった。
だから、めいっぱい笑顔を貼り付けて、うなずいた。
「連絡すれば良かったね、心配させてごめんね」
帰ろう、と提案しようとする前に、腕を強く引き戻され、わ、と声を漏らす前に彰の胸元に飛び込む。長い腕に包まれて、耳元で彰が甘く、僕の名前を囁いた。
「依織…、依織」
先ほどよりも、彰のバニラの香りが強く感じられた。しかし、それと同時に、別の、甘ったるい匂いがして背中に悪寒が走る。離れたいのに、彰の身体はびくともしなくて、僕を抱きしめて、頬ずりをするだけだった。
だから、彰がどんな表情をして、僕の頬に擦り付いているのかわからなかった。まるで、マーキングをする動物さながらだった。
その日から、少しずつ僕の世界が変わっていく。
翌日も、いつも通りに授業を受けて、彰が楽しい話をしてくれる。昼休みに食堂へ行けば、怜雅がいて、遊ばれて、彰が威嚇する。そんな平和な時間に、今まで通りだと胸を撫でおろしていた。
それと同時に、授業中に一人の時間になると、僕の頭を埋めていたのは、あの小さな植物園だった。
(透は、何をしてるんだろう…)
あんなに無垢で、柔らかく温かい瞳を、僕は知らなかった。
あの笑顔を向けられると、人形のようだった身体に体温が灯って、ようやっと人間になれた気がしたのだ。
(…会いたい)
ぽき、とシャープペンシルの芯が折れた。それに意識が戻されて、初老の男性教師の読む古文の時間に帰ってきた。
手の甲で頬をこすった。それから、ペンをノックして、芯を繰り出し、またノートに書き込む。
(どうしたんだろう…)
自分でもわからなかった。
昨日出会った彼のことが、気になってならない。
こんな風に、初対面の誰かに心が支配されることは今までにないことだった。
(今日も、あそこに…いる、のかな…)
会えたら、いいな。
胸もとに手をやると、少し早い心音が感じられる。小さく息をついてから、窓の外を見上げた。
後ろから強い視線を感じることなく…。
「じゃあ、終わったら連絡するから」
教室を一緒に出て、階段を前にして、彰がそう言った。
彰は生徒会室がある棟へ二階の渡り廊下を使って移動する。僕はいつもの暇つぶしに一階の図書室へと向かう。
「うん、あ、でも…」
すっかり忘れていた。
昨日あった、もう一つの出来事。
大切な人に、隠しごとをされていて、悲しかったこと。なんだか、彰が、知らない人になってしまったような、寂しさがあったこと。
見上げると彰は、小首をかしげて僕の言葉を、少し嬉しそうに待っていた。上がっている口角に、少し疑問を覚えながらも、僕は笑顔をつくって伝える。
「ぼ、僕、先に帰ろうか?」
「なぜ?」
彰と、その、恋人の邪魔をしてはならない。
ちくり、とどこかが鋭く痛んだが、それを飲み込んで隠して、明るく声を出した。しかし、彰は、間髪入れずに色のない声ではっきりと言った。
あまりにも感情のない言葉に、いつも感情豊かな彰の声とは思えず、目を見張って、固まってしまう。彰は、まっすぐに僕を見下ろしていた。
「な、なぜって…、その…」
冷たい瞳に耐えられなくて、視線を落として、言い淀んでしまう。彰が一歩、僕に近づいてきて、後ろに足を引く。もう一度、なぜ、と問われて、にじり寄られて、逃げるように下がっていると、背中が壁にぶつかる。逃げ場なく彰を見上げると、彰が肘を壁について、僕を閉じ込めた。長い髪の毛を垂らして、表情が見えなくなってしまう。
「僕がいたら、邪魔、かな、って…」
「誰かに言われた?」
「違う、けど…」
入学して間もない頃、彰はこの見た目で注目の的だった。あっという間に告白されるような存在になり、親衛隊なるものも生まれていた。だから、一緒に外部から入学してきた僕を恋人なのだと思い、別れさせようとしてくるオメガたちがいたこともあった。
面と向かって、彰にふさわしくないとか、彰を独り占めしていて意地汚いと罵られたことがあった。
初めて、他人から向けられる悪意に驚き、ひるんでしまった僕は、彰から一歩、距離をとろうとした。しかし、すぐに彰はその異変に気付いて、何があったのか問いただされて、涙ながらに伝えた。
「依織は、どうしたいの?」
は、と顔を上げる。
あの時も、同じことを言われた。
そして、眦をうっそりと赤く染めて、奥で何かを強く燃やす瞳が、僕を見下ろしていた。
(あの時は…)
一緒にいたい。
そう答えた。
すると、彰は、幸せそうに満面の笑みを見せて、僕を抱きしめた。それから、僕と、そのオメガたちが接触することは一切なく、廊下でたまたますれ違いそうになると、彼らが急いできた道を帰っていくようになった。何があったのかはわからなかったけれど、それからしばらくは、彰が僕へのスキンシップがとにかくしつこくなって、それを回避することに精いっぱいでいつしか考えることもなくなった。
「ねえ、依織」
あの時よりも、精悍な、大人の顔つきになった彰が、僕の名前を低く囁いた。
ほの暗い瞳に、背筋が震えて、冷たい汗がこめかみに滲んだ。乾いた喉を、小さくこくり、と鳴らして唾を飲み落とす。
(彰は、僕にとって、大切な…)
一緒にいれば、楽しい。
気心の知れた人で、小さい頃からずっと一緒だった。
だから、彰は何でも知ってる。僕の好きなもの、嫌いなこと。苦手な食べ物、好きな食べ物。それから、僕の考えていることもよくわかる、察しの効く人だった。
できるなら…
「一緒に、いたい…」
隣で笑い合っていたい。
俯いた僕の顎を、彰の細い指が掬う。ふわ、と彰のバニラの香りがして、柔らかな毛先が顔をくすぐる。それに目を細めていると、口の端に、しっとりとした何かが触れた。ゆっくりと彰の端正な顔が近くにあることがわかって、離れていく。
うっそりと微笑む彰は、嬉しそうに眦をゆるめながら、俺もだよ、と囁いた。
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