拗れた初恋の雲行きは

麻田

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第52話

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「りん先輩ってば!」

 は、と意識を戻すと目の前で理央がふてくされた顔をしていた。

「わ、悪い…」
「また小難しいこと考えてましたね」

 もう、と皺が刻まれつつある眉間を優しく押された。風紀室で書類仕事をしている最中だった。理央は、巡回を外れて、俺の傍にずっといる。総一郎の委員長命令によって。拒否し続けた俺は言いくるめられてしまった。隣にいる理央は、もう片付けを終えていた。

「曽部先輩が、今日はもう帰れって」

 インカムをつけている曽部に振り返ると、健康第一だ、と言われてしまう。
 健康なんだけど…。と思いつつ、早く早くっ!とおやつを強請る夕方のスーパーにいるちびっこのような理央にせかされて、曽部に礼を告げて、風紀室を後にした。

「…なあ、理央」

 高い位置にある顔を見上げると、はい?と大きな瞳が俺を優しく見つめる。あ…と言いかけて、やめる。もう一度笑顔をつくって話しかけて、昼食のおいしかったメニューの話をした。理央はそれに明るくのってくれて、ほっと小さく溜め息をついた。

 昇降口を出て、校門を出たところで急に腕を捕まれた。ぞわ、と鳥肌が立つ。急いで振り返ると、そこには夕焼けに照らされる海智がいた。
 今日はいつもと下校時間が違う。いつからここにいたのだろうか。
 そう考える前に、理央が海智から俺を守るように、腕の中に隠した。海智に背中を見せつつ、睨みつけている。

「りん、話がしたい」

 連絡しても既読もつかないから、と海智の声が聞こえる。携帯は、昨日の朝、海智のメッセージを確認してから、携帯は見ていない。おそらく電池は切れている。
 ぎゅう、と腕をさらに握られて、ぞわわ、と虫唾が走る。心臓もどくどくと何かを訴える。それでも、残った理性を総動員させて、深呼吸する。
 理央の肩に手をおいて、離れるように促す。眉を下げて、眉間に皺をよせている理央の頭を撫でる。

「大丈夫、俺も話したいことあるし」

 理央は一歩下がった。しゅん、と落ち込むような仕草の大型犬につい笑ってしまう。

「でもさ、帰り、一人は嫌だから、待っててくれる?」

 そう囁くと、頬膨らました理央が、わかりました…とぶつぶつ答えた。えらいえらい、と頭を撫でてから海智に振り向く。クマができて顔色が悪い海智は、眉根をきつく寄せて険しい顔つきをしていた。そっと手を押しのけて、腕を解放してもらう。すぐにその腕を抱きしめて、震えが止まるように努める。じわ、と冷たい汗が背中から滲み出ている。海智が歩いていくので、それに続いていくとあの夜、海智からオメガ依存症だという告白を受けたベンチにたどり着く。うっそうとしているそこは、夕方のはずなのに暗い。少し不安を抱えるが、おそらく理央が後ろから見えないようについてきてくれているだろうことがわかっていたので、足を進める。海智がベンチに腰掛けた。その一歩後ろで俺は立ったままでいた。不安げな瞳で見られたが、声をかけられても首を横に振った俺を見て、海智は項垂れた。しばらくの沈黙があった後、海智が口を重々しく開く。

「昨日は…その…ごめん」

 俺は黙って聞いていた。その先に、俺の聞きたいことがあるから。なかなか口を開かない。ひやりとした風が頬を撫でて、もうすっかり秋も深いのだなと思う。

「俺、昨日…りんのこと、助けたいって思ったんだけど…だけど、身体が、勝手に…」

 でも、と海智は勢いよく顔を上げた。今にも泣きそうな顔で必死に俺に訴える。

「俺には、りんだけなんだよっ、好きになったのも、こんなに手放せない存在なのもっ」

 だから…と、ぬらりと立ち上がった海智は、一歩俺に近づいた。
 なんで、こんなベータに、このアルファはこんなにも必死なのだろう。

「ねぇ、りん…俺には、りんだけなんだよ…?」

 頭は非常に冷静に、彼のことを見ていた。目の前で必死に、俺への愛を語る。目の前に来て、お願いだ…と両手で顔を包もうとしてきたところで、まっすぐに海智を見つめながらはっきりと言った。

「先輩、先週のあの日、何してたんですか?」

 ぴく、と指先が動き、手が止まった。

「先輩が、俺に聞いた、あの電話があった日です。先輩は、俺に何をしてたか聞いたけど、先輩こそ、誰と、何してたんですか?」

 目の前で目を見開いて、瞳が細かく揺れている。明らかな動揺の様子に、やっぱり、と小さく息を吐き、頬をゆるめた。

「俺ね、ベータだけど、鼻はいいんだ…。人のフェロモンを嗅ぎ分けられるくらいに」

 俺を問い詰めたあの夜。風に乗って、海智からは、二つのにおいがした。一つは海智のバニラの香り、もう一つは、あのオメガのにおいだった。

「り、ん…」
「俺、ベータだからわかんないけどさ、多分、身体が勝手に動いちゃうくらい、先輩は、あいつのことが…好きなんだと思う」

 運命ってやつなんじゃない?と笑って言えた。
 どうすればいいのかわからずに宙に浮いたままだった海智の手を出来るだけ優しく握りしめた。その指先は驚くほど冷たかった。

「俺、先輩の空手、大好きだった。舞みたいな優雅な身のこなし、ずっと憧れだった。でも、その先輩が、俺だけを見つめて笑ってくれる…その笑顔が、もっともっと大好きだったんだ」
「りん…」
「俺、先輩が空手ができようができまいが、ずっと好きだったよ」

 ぼろ、と海智の開いたままの目から大きな涙がこぼれた。
 本心だった。
 空手がきっかけだったけど、みんなの憧れの海智がこっそりと俺に微笑み、屈託なく大口開けて笑うところも、優しくいつも俺を気遣ってくれるところも全部が好きだった。

「いつも明るくて、おひさまみたいな先輩が大好きだった。先輩の傍にいるだけで、俺、本当にしあわせだった。この人と一緒なら、なんだって頑張れるって、俺は、思ってたんだ…ずっと、一緒にいたいって…」
「りん…っ、じゃあ…」

 握り返そうとしてきた手を、握られる前に俺はほどいて、一歩後退る。眉間にぐ、と力を入れてから視線を上げて微笑む。

「俺、…本当に、先輩のこと、心から、大好き、でした…」
「りん…やだ…」
「すごく、すっごく…好きでした」
「やだ…やめろ…」

 じゃり、と海智は俺との距離を詰めようとする。その爪先を見てから、だらだらと涙を流している海智の瞳を見る。

「でも、ベータの俺じゃ、先輩を幸せにしてあげられなかった」

 …ごめんなさい。
 にこり、と笑う。ほろ、と眦から雫があふれた。

「俺、好きで好きでたまらなかったよ、先輩のこと」
「やだ…嫌だ…」
「俺の、初恋でした…」

 ざあ、と秋風が二人の間を吹き抜ける。秋の香ばしい匂いの中からバニラの香りを拾ってしまう。癖になってしまっているんだと、最後に自嘲した。

「今までありがとうございました…」
「り、ん…、…りん…」

 後ろで名前を呼ばれるけど、俺は踵を返して、来た道を帰っていった。はらはらと涙が頬を伝う。海智の前で涙を流すのは、はじめてだった。

 初恋だった。

 ずっと、一緒にいたいって、本気で思ってた。
 この人を幸せにしてあげたいって、本気で思ってた。

 だから、先輩が、オメガを引き連れているのを見て、本薙といるのを見て、目眩がして倒れそうになるくらい、悔しかった。

 ベータである自分を呪った。
 アルファである先輩を憎んだ。
 オメガである彼らを妬んだ。

 俺がオメガだったら、先輩の隣で、堂々と笑顔で歩けたのだろうか。
 先輩を、笑顔にしてあげることができたのだろうか。

 街灯のもとにある人影を見つけると、俺の身体は勝手に走り出した。俺を見つけた人影も長い脚で走り出した。差し出されたその腕に飛び込むと、頑張ったね、と大きな手のひらで優しく頭を撫でられて、みっともなくわんわん大泣きした。

 さよなら、俺の初恋。

 もう、アルファなんかに恋をしない。



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