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第42話
しおりを挟むオメガなら抱けるのに。
その言葉を言ってしまったら、泣き崩れてしまいそうで声にはできなかった。
俺の言葉を聞いて、海智は目を見張り、一筋汗が顎をつたった。それを拭うふりをして、視線を落した海智はしばらく黙り込んだ。
「…言えないんだ」
思ったよりも自分が冷静で驚いた。言葉で出しちゃえば、こんなに楽なんだ、とも思った。
答えられない。それが、答えなんだ。
ベータで男のお前には、勃てないんだ。
それが、答えだ。
もう、終わりだ。
一歩踏み出そうとすると、後ろから手を捕まれた。振り返ると、顔を手で覆った海智が苦々しく話す。
「ごめん、つらい思いさせて…。話す…、いや、りんには、聞いてほしい…」
だから、座ってくれ、と初めて聞く弱々しい海智の声に驚いて、指示に従うしかなかった。
海智はうなだれたままだった。何度か雲が月を隠し、風が雲を押し出して月が現れるという流れを何回が繰り返した。すると、弱々しい声で、海智が話し出した。
「…夏祭りの日」
ぽつりぽつりと話し始める。
「俺、本当にしあわせだった。りんとまた一緒にいられるって。両思いなんだって」
そんな風に思っていてくれたのかと驚く気持ちと嬉しい気持ちと、じゃあなんで…という疑心が混ざり合う。
「気持ちは爆発してたし、身体の火照りもちゃんとあった。なのに、なぜか…」
勃たなかった。
あの時は自分でもすごくショックだった。それでも、疲れているせいかな、とか、やっと思いを結べて興奮しすぎたから、とか、いろんなことを考えた。
そして、あの日にかけてた。りんと二人で泊まりで過ごせるあの日に。
やっと、りんと結ばれるんだって、すごく楽しみだった。
それなのに、俺の心とは裏腹に、勃たなかった。
「驚いたのもだけど、何よりショックだった…。りんに愛想つかされるんじゃないかって、それも怖かった」
「そんな…」
そう言葉を詰まらすと、ようやく顔を上げた海智が、目元を赤くして俺に笑いかけた。そして、雲で隠れた月を見上げながら、続ける。
「あのあと、実は…病院に行ったんだ」
思わず固まってしまった。
アルファの男性が、勃起不全で病院にかかるんなんて。そんなこと…。
あんぐりと開いた口が塞がらない俺を見て、海智は自虐的に笑った。
「俺も、まさか自分がお世話になるんて思わなかったよ」
でも。
「りんを抱けないのは、嫌だったから」
ちらりと合った瞳は熱が籠っていて、身体の奥が、じり、と焦げ付くのを感じた。
そんなに求められていたことを、初めて知った。とくとく、と心音が目立ち出す。
「そ、それで…」
月を仰いだまま茫然と固まった海智の口はなかなか次の言葉を出さない。焦れて続きを促すと、数回深呼吸をおいた海智はかすれた小さな声を発した。
「オメガ依存症」
ぐ、と下唇を噛んだ海智は、また俯いてしまう。長い髪が、海智の表情を隠してしまう。
「俺、オメガのフェロモンじゃないと、勃たなくなっちゃったんだって」
がん、と後頭部を強く殴打されたのかと思うほど、視界が揺れて、ぐらぐらと目が回る感覚がする。
オメガ。
ベータの俺の前に立ちはだかるのは、オメガの壁なのか。
「で、でも、治療とか、薬とか…」
なぜが口からどんどん、その事実を補おうと言葉が溢れる。
「今の医療では、完治不能で、治療も薬もないんだって…」
隣から、震える吐息が聞こえた。それがぶつかった、柔らかな細い髪の毛も、やわやわと揺れた。
確かに、冷静に考えれば、アルファにとってオメガは基本的に選びたい放題だし、わざわざ治療なんか必要ないのだろう。
「俺がいけないんだ」
何を言って良いのかわからずに、固まったまま茫然と彼を見つめることしか出来ずにいると、はは、と乾いた笑いが聞こえた。
「中学生のとき、空手ができなくなって、空手のない俺なんかいらないってりんに言われるのが怖くて、勝手にひねくれて、りんを振り向かせたくて、わざと誘ってくるオメガと片っ端から遊んだから」
神様からの天罰だよ。
そう言って、海智は俺に笑いかけた。彼の美しい右目から生まれた大きな雫が頬をなぞった。初めて見る海智の涙は、とても美しかった。
触れてはならないような高貴さと、ずっと一人で抱えていた寂しさと、ひたむきな俺への愛が垣間見えて、輝いていた。
「せんぱ…」
ず、と鼻をすすって、涙を乱暴に拭う。それでも海智は笑っていた。
「ごめん。こんな彼氏、いらないよね。もう、わか…」
そこまで言って海智は、固まった。何度か同じ言葉を繰り返して、何かを言おうと試していたが、そこで言葉が詰まってしまうのだ。そして、笑顔の海智は、どんどん眉根を寄せて、険しい顔つきになっていく。また大きな涙が、ぼろり、とこぼれた。
「あ~ダメだ…」
また空を仰ぐ形に戻ると、両手で顔を覆った。
「やっぱり別れたくないや」
ぐず、と言いながら、両手で覆われくぐもった声は俺には届かなかった。
海智の思いが、今、はじめて伝わった。あの、中学生の時、いきなり突き放された真相が、今知れるなんて。あの頃、毎日のように泣いていた俺に教えてあげたかった。大丈夫、君は愛されてるよって。
立ち上がって、海智の前に立つ。そろ、と両手が顔から離れて俺の様子を見ようとするのと同時に、海智を胸に抱き寄せた。頬を柔らかい色の抜けた髪に乗せ、ぎゅう、と抱きしめた。海智は最初目を見張って固まっていたが、ふ、と笑ってから身体から力が抜けた。大きな手のひらが背中に周り、優しく抱きしめられながら、もう片方の手が、後頭部を包んでいた俺の手に添えられる。長い指が俺の指に差し込まれて、導かれるままに手の力を緩めると、湿った頬を包み込むように宛がわれる。その手のひらに、海智が頬を擦り寄せて、唇を寄せた。
「ごめん…、俺、りんを手放したくない」
海智のはっきりと、俺を求める言葉に身体に熱がこもる。震える吐息が手のひらにぶつかる。
「もし出来るなら、一緒に、いてほしい」
りん、と大切につぶやかれた名前は手のひらの中に消えていった。海智から求められる言葉は欲していたもののような気がした。いつも大きく、背中を追ってばかりいた海智は、俺の胸の中にいて、震えながら、涙と共に懇願している。それを無碍にできなかった。
「先輩が、俺だけを見てくれるなら…」
本当に小さな囁きだったが、海智はしっかりとそれを聞き取ってくれたようで、手を握っていた力をさらに強めた。ありがとう、と震える頼りない声でつぶやき、俺の胸へ抱きついた。
最後の約束だよ…、先輩。
心の中で唱えながら、固く目をつむり、良すぎる鼻を恨んだ。海智からは、べっとりと他の人間の臭いが染みついていたから。
一番聞かないとならないことは、やっぱり口に出来なかった。
優秀なアルファの男子高校生が一人で病院に行き勃起不全の相談をしたことにも、泣きじゃくる海智がこんなにも小さく見えるということも、必死にベータの俺なんかに縋ることも、全部が俺の心を苦しめた。これ以上の衝撃を耐えられる自信がなかった。
海智が泣いたら、俺が抱きしめてあげられる。
でも、俺が泣いたら。
俺が泣いたら、誰が抱きしめてくれるのか。俺の中には、たった一人の、あの男しか、浮かばなかった。それを掻き消すように、目の前の恋人を抱きしめて、きつく瞼を閉じた。
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