拗れた初恋の雲行きは

麻田

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第33話

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 宇津田が身を乗り出して、小声で囁いた。しかし、こっちまで丸聞こえだ。気づかないふりをして、パソコンを立ち上げる。

「ん~、俺は近くで接したことないからわかんないですけど、まあ、すごいんじゃないですか?」

 八月分の報告書でも、簡単に作っておくか。

「オメガってどんな匂いすんの?みんなおんなじ?」
「人に寄って違いますよ」

 八月中は、登校する人も少ないし、大きな事件は起きないだろう。

「へ~、どんな感じ?」
「オメガは大体、甘い匂いですね。花が多いかな」
「理央は、運命の番って、会ったことあんの?」
「…あるような、ないような」

 なんだそれ、と笑う宇津田の声で、は、と画面の異変に気付く。八月分の報告書にずっと「あああああ」と連打されたものになっていた。その羅列された誤字を消していく。

 理央の、運命の、番。

 それは、どんなオメガなのだろうか。
 本薙のようなオメガだろうか。それとも、総一郎の隣にいた女神のようなオメガだろうか。どっちにしろ、理央と釣り合うような美しく、庇護欲そそられる、愛らしいオメガなのだろう。自分とは、まったく真逆の。

 がしゃん、と床にファイルが落ちる。よりによって留め具がとられており、何百枚と収納されているプリントが、近くで稼働していた扇風機の風に乗って、ばらばらと風紀室中に飛び散ってしまった。

「おいおい、何やってんだよ凛太郎~」
「わ、悪い」

 宇津田が飛んできた書類を捕まえる。足元に落ちている紙をしゃがんで集める。
 何やってんだ、俺。
 手を伸ばした紙は、風にのってひらり、とまた舞い上がってしまった。わ、とそれを目で追いかける。近くで、ぴ、と扇風機を止める電子音が聞こえた。
 すると、ふわ、と甘い匂いが急に鼻腔を埋める。ぴく、と手を止め、顔をあげると、すぐそこに理央がいた。

「大丈夫ですか?」

 目線は床のプリントに向けて、感情の読めない声でそれだけ言う。形の良い唇は、それ以上のことを発しない。さら、と前髪が流れて、透明度の高い瞳が光に反射して、きらり、と見えた。懐かしい甘い匂いに、身体の奥がじりつく。

「早く拾って」
「ご、ごめん…」

 その瞳は俺には向けられない。この紙っ切れすらも妬ましく思えてしまう。ぐしゃ、と手元のプリントがねじれる音がした。
 ふ、とまた甘い香りがした。もっと嗅いでいたいのに、理央は立ち上がって、広い机の上で、拾った書類をとんとん、と整えた。そして、番号順に振り分ける。

「こりゃあ、このプリント整理で今日終わっちまうな」

 宇津田が溜め息をつきながら、集めたプリントを理央の手元を覗いて、振り分ける。

「悪い、あと、俺がやっとくから、先に巡回に行ってくれ」

 時計をちらりと見て、そうだな、と宇津田が踵を返した。それに理央も続く。行ってしまうのか。
 それはそうだ。二人行動が風紀の規則だ。不測の事態に対応できるように、そういう風に取り決められている。当たり前のことなのに、なぜ、肩を落としている自分がいるのだろう。
 はあ、と溜め息が聞こえる。宇津田が続けた。

「巡回は俺一人て行ってくるから、理央は資料の整頓してくれ」

 やれやれ、と困り果てた顔の宇津田が理央の肩を叩いた。え、と顔をしかめる理央の反応に、また胸が痛む。

「だ、大丈夫だ、このくらいすぐ…」

 勢い余って、机の脚に自分の足をぶつけてしまい、ばさ、と固まっていたプリントの一部が、また床の上へ戻っていった。ほらな、と宇津田は笑った。

「副委員長様を置いて、俺たちが先に帰れるわけねえだろ?」

 頼んだぞ理央~、と宇津田は風紀室を後にした。理央は、ふう、と小さく溜め息をついて、それにすら、びくりと身体が強張ってしまう。迷惑、だろうか。それは、そうだよな。だって、もう、ただの先輩なんだから。もう…。
 理央は、くるりと振り返り、近くの椅子に腰かけた。そして、書類を黙々と並び替える。俺は落ちていたプリントを拾い集める。一枚だけ、理央の座っている椅子の足が踏んでいて取れない。近くまで行って、床に膝をつく。こっそり手を伸ばすが、やはり無理そうだった。

「理央…」

 おずおずと、視線を上げると理央と目が合った。一瞬で理央は立ち上がり、数歩下がった。目があった一瞬。理央は、眉間に皺を寄せて、苦々しい顔をした。それを見逃さなかった自分が憎い。がた、と椅子の足をあげて、書類を抜き取る。それを抱きしめて、理央に背を向けて、自分の席に戻って、ひたすらに書類を並び替える。
 視界が滲み揺れているのを、気づかれてはならない。
 いつも微笑みかけてくれていた理央に、憎悪を向けられてもしかたがない。
 そういう決断をしたのは自分なのだから。
 むしろ、理央は、被害者なのだから。
 だから、涙を見せてはならない。同情を誘ってはならない。
 自分の足で立たなくちゃ。
 なぜ、理央の前では、立派な先輩をできないのだろう。かっこいい先輩になれないのだろう。一番、そういう姿を見せたい相手なのに。

 がた、と音がして、視線を上げる。理央が立ちあがり、目の前にいる。どき、ど心臓が鳴るが、理央は感情の読めない表情ですげなくプリントを差し出す。

「終わりました、あとその分を差し込めば終わりです」
「あ、ありが、とう…」

 その手からプリントを預かると、すぐさま背を向けられる。ずき、と痛い。

「宇津田先輩、遅いんで見てきます」
「あ…」

 俺の返事を待たずに、理央は風紀室を出てしまった。ドアの風圧で、ふわりと匂う残り香に、鼻をすませる。あんなに近くにあって、いつでも匂っていた匂いが、とてつもなく遠く、冷たく感じて、ぼた、と机に涙が一粒落ちた。



 その日から、なかなか寝付けなくなっていた。夜寝ても、ふわふわと意識が戻ってきてしまう。そんな夜に、毎日のように海智に電話をした。その度に、コールは鳴り続ける一方で、相手は出ない。留守電にもならない。メッセージも何もない。その絶望の中で、明け方、気絶するように眠った。目覚ましの音で、重い頭を起こす。
 それでも、風紀の仕事だけは頑張っていたつもりだった。パトロールも、当番も書類整理も今まで通りに、うまいこと出来ていた。それなのに、俺をあざ笑うかのように事件が起きてしまう。

 書類まとめのキリが良く終わったので、それらを誰もいない生徒会室へ届けに行くついでに少し早いが昼食を調達に行こうと、宇津田と風紀室を出たときだった。
 誰もいないはずだった。あの生徒会の人々が、わざわざ夏休みに仕事をするはずなんてない。ポストに書類を入れて、何を食うかな~とるんるんで考えている宇津田が俺に気づく。

「凛太郎、行くぞ…どうした?」

 すん、と鼻を鳴らす。かすかだが、オメガのフェロモンのにおいがした。じっとりと汗が滲む。その場に立ち尽くす俺を不審に思い、宇津田が生徒会室前に戻ってくる。

「凛太郎、どうした?」
「…におう」

 におう?と宇津田は復唱し、くんくんと辺りのにおいを嗅いだ。

「何もにおわねえけど…」

 こめかみを冷たい汗が伝った。あのオメガのにおいではないにおいだ。
 ただ、生徒会のやつらが羽目を外してお楽しみ中なら問題ない。そんなの見たくもないし、トラウマと化しつつあるあの映像も頭によぎる。しかし、背中がやけに冷える。虫の知らせというべきか、こういう嫌な悪寒は、よく当たると俺は知っている。
 ドアノブをガチャ、と回すが、固い。鍵がかかっている。どんどん、とノックをする。

「すみませーん、誰かいますか?生徒会のハンコが欲しいのですが」

 もう一度、声を張り、拳でドアを叩いた。しかし、返答はなく、しんと静まり返る。
 しばらく待ったが特になにもなく、杞憂だったか、と宇津田の方に振り返る。すると、どん、と生徒会室内から鈍い音が聞こえた。宇津田と目が合うと、彼はうなずいて、生徒会室のドアを蹴り破ろうと力を籠める。宇津田もよく知っている、俺の勘が当たってしまうことを。この勘で何度か、暴力事件を未遂で終わらせたことがあった。もし、誰かいるのだとしたら、誰もケガをしていないでくれ、と心から祈る。大きな音がして、ドアが蹴り破られる。

「風紀委員だ!動くな!」

 二人で声を張り上げて中に突入する。立派な机と椅子、埃っぽい空間だ。物音が聞こえて、宇津田とアイコンタクトで奥の仮眠室へと乗り込む。そこには、やはり人がいた。む、と色々なものの混ざった悪臭がする。オメガのフェロモンの甘いにおいと、精子と血、人の体臭の交じり合った生臭いにおいが立ち込めている。

「ッ、風紀だ!全員動くな!」

 何かに群がるように、体格の良い男子生徒が五、六名がこちらを振り返った。全員、視線が定まらずに涎を垂れながし、可笑しな呼吸のリズムをとっている。そのうちの一人が、もぞもぞと動きを止めない。

「動くな!一人ずつこっちにこいッ」

 声を張り上げるが、動く気配がない。

「ぅ、あ…あ…」

 か細く呻くような声が聞こえる。もう一人、いる。
 宇津田が駆け出して、男たちを蹴散らし、殴りつけていく。宇津田の作った道を走り抜け、その中心にいた大柄の男に、回し蹴りを頭をめがけて打つ。腰を振るのに夢中だった男は俺の足技を見事に食らい、その場に倒れこんだ。その際に、ずる、と滑った音がしたと思うと、ビュビュッと白い液体が巻き散らかされた。そこで小さく呻いている人物に、目を見張る。

「ゆ、由愛さ、ん…」

 目の前には、頬は青く腫れ上がり、髪や顔、全身白濁塗れにされたあられもない、生徒会会長親衛隊隊長の如月由愛が力なく横たわっていた。びくびくと痙攣した身体で、小さなペニスの根本には、リングのようなものが嵌められていた。

「由愛さんっ、由愛さん!」

 ベットの足につながれた拘束具を近くに落ちていたナイフで切り離す。背中の下に膝をいれて、身体を起こす。手首は血が滲み、手を握ると何やら滑ったが、そんなの気にせずに、由愛の名を呼び続けた。震える長い睫毛にすら白濁がこびりついていて、自然と顔がゆがむ。なんで、こんなこと…。怒りに全身が震えた。

「凛太郎!大丈夫か!」

 振り返ると大男六人を結束バンドで拘束し終えた宇津田が駆け寄ってきた。

「ひでえ…」

 あまりのむごさに宇津田も顔を歪める。手元でかすかな呻き声が聞こえて、視線を戻す。

「ぅ…う、…」
「由愛さん!もう大丈夫ですよ、風紀委員です。鈴岡です」

 腫れた瞼を持ち上げて、俺を見つける。焦点の合わない瞳は、ふらふらと辺りを見渡すと、転がっていた大男を見つけ、がくがくと身体が震えだす。かすれた声でわめきだす。

「ごめ、ごめんなさっ、ごめんなさいっ!」
「大丈夫です!由愛さんは何も悪くありません!」
「ゆ、ゆるして、許してぇ」
「由愛さん!」

 俺を突き飛ばして、由愛は震える足で立ち上がる。その足元には、精液と血が混じりあったものが、ぼたぼたと落ちた。だが、すぐに、べしゃ、と倒れてしまい、急いで抱き上げる。瞼を降ろしたまま、何かをつぶやく由愛の口元に耳を寄せる。

「ごめんなさい、ごめんなさ…私が、出過ぎた真似を…、会長の怒りを買ってしまって…私がいけないんです…ごめんなさい…」

 由愛は謝りながら、気絶していった。そのあとすぐに、宇津田が呼んだであろう保健医と教員数名がやってきて、それぞれの生徒を回収していった。
 残された俺と宇津田は、怒りに奥歯を噛み締めて、拳は震えていた。


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