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第12話
しおりを挟む「りん先輩、待ってください!」
後ろから追ってきた理央に腕をとられる。仕方なく足を止める。保健室を出てから、急ぎ足で帰路をぐんぐんと進んできた。
「どうしたんですか?」
顔を覗き込んでこようとする理央を避けるように、首をひねる。今、どんな顔をしているのか、自分でわからない。
「…俺、やれますよ?変わりますよ?」
「ダメだ」
イライラする。
このやり取りは、さっき決着がついただろ。
「なんでですか?俺が…アルファ、だからですか?」
なんで、お前がそんなに塩らしい声を出すんだ。
「ああ、そうだ。お前だと、すぐに転校生のフェロモンにやられるからだ」
ぐ、と手首を握る力が強まった。痛みに肩がびく、と動いてしまう。
「…総一郎くんは、大丈夫だった」
「お前は、委員長とは違う」
「何が違うんですか?同じアルファなのに」
敬愛する総一郎を侮辱されたような気になってしまい、かちんと来てしまう。
「全然違う!お前と武島先輩は!」
顔をあげて言葉をぶつける。辺りに少しだけ、声が反響していて、思いのほか大きな声になっていることに驚く。何よりも、理央が皺をよせ、今にも泣きだしそうな顔をしていて、瞠目したまま固まってしまう。
ごめん、と言いたかった。それなのに、素直でない俺はすぐに声にすることが出来なかった。理央が、手を近づけてくる。ぶたれるかと思い、思わず目をつむり、少し避けてしまう。しかし、大きな手のひらが優しく頬に添えられるだけだった。
「りん先輩…、もう、気づいてるでしょ?」
ひぐらしの鳴き声にかき消されてしまいそうなほど、弱々しい声だった。
「俺の気持ち、気づいてる、よね?」
胃がぎゅうと握られるような、喉の奥がつまるような、なぜか俺は苦しい。
そっと目をふせてきた。たった、ここ一、二週間での出来事じゃないか。その理央の優しさに、友達や後輩としてだけでない、焦がれるような視線を感じていたことに、わざと気づかないふりをしていたと言うのに。
「目をそらさないで」
自然と落ちていた視線を元に戻す。まっすぐに真摯な色素の薄い宝石に射抜かれる。もう片方の頬も包まれてしまう。ねえ、と先を求める声をかけられてしまう。鼻先が触れ合うほど近くにいる。吐息の湿度がわかるほど傍にいる。夏風に乗って鼻腔に届く理央の匂いは、一つしかない。甘く、安心するいい匂いだ。
それでも。
「…お前の気持ちには、こたえ、られない…」
瞳を合わせて、伝えることができなかった。伝えた瞬間に、理央の身体が固まり、息がつまったのを感じた。それだけ近くにいる。それらが遠ざかるのに合わせて、視線をあげると、大きな身体に包み込まれた。鼻腔いっぱいに理央の匂いが身体に侵入してくる。その温かさに、ふる、と全身が震えた。
「なんでですか…」
かすれた吐息と共に、苦し気に鼓膜へと届く。口を開け、何度か言葉にしようと試みるが、やはり難しくて、数度呼吸をする。目を固くつむり、少しでも自分が楽でいられるようにした。
「…お前が、アルファ、だからだ」
昼食時、食堂の生徒会員しか使えないVIP席で、総一郎から紹介を受ける。昨夜、曽部から来た連絡は、昼に総一郎が紹介をしてから、業務を交替するという内容だったからだ。
目の前には、両脇に生徒会長、副会長がおり、食事を食べさせてもらっている本薙がいた。
「鈴岡です、よろしくお願いします」
そう軽く会釈すると、わざとらしいビン底眼鏡の奥で、ひたりと笑う眦が見えた。
「おう!はじめましてだな!俺は本薙早苗!早苗って呼んでな!凛太郎!」
元気いっぱいな挨拶に、眉間に皺が寄る。本当に、あのオメガなのか。
わざとらしい変装。わざとらしい演技。
すべてが偽物のこいつは、あの時のいやらしいオメガなのか。
鳥肌の立つ腕を握りしめながら、近くの別席に着く。目の前に総一郎が座り、定食をつつく。その隣の席では、甲斐甲斐しく本薙の口元を拭いてやる副会長や、わざと本薙の食べている食事をつまむ生徒会長や、それにやきもちを焼く書記やにこにこと見守る会計がいる。その会計こそが、海智だ。あまり視界にいれないようにする。じくじくと胸の奥が痛むが、奥に奥にと追いやり、気づかないふりをする。ただでさえ、昨日の理央とのやり取りで、情けない自分に嫌気がさしているというのに。
そして、周囲からの痛いほどの強い視線を感じる。生徒会の親衛隊だ。先日話を聞いたメンバーも鋭い眼光を向けている。それに気づかないのか、わざと楽しんでいるのか、本薙はさらに生徒会メンバーとの身体接触を増やす。
食堂の看板メニューのひとつでもある、絶品のさばの味噌煮の味がしなかった。あと数週間。これを乗り切れば夏休みなのだ…と考えていると、ふと総一郎と目が合い、眉を下げながら笑いあう。それを、横目に見ている海智に、俺は気づかなかった。
警護をはじめて、一週間が経った。
事件以降、生徒会が目を光らせ、圧力をかけていたおかげもあるのか、特別に事件も起きることもなかった。風紀の仕事は、本薙の移動時の警護だ。しかし、本薙は、寮から出ると、生徒会員しか入室の許されない生徒会室に向かう。そこまで送れば、俺のできることはない。理事長の甥であるからか、生徒会が力を使っているからなのかわからないが、本薙は授業免除を受けているらしい。授業中は、ずっと生徒会室にこもっている。一体何をしているのかは、考えたくもない。昼前に生徒会室まで迎えに行き、食堂まで護衛を行う。できれば、生徒会室で昼飯も済ませてほしいが、おそらく本薙はわざと食堂で食べるのだ。生徒会長が何度も止めている姿を見かけたが、本薙は「みんなで食べたほうがうまいだろ!」と謎の天然キャラを演じ、親衛隊に自分に夢中の男たちを見せびらかすのだ。そして、腹を満たすと、また生徒会室にこもる。放課後に、迎えに上がり、寮まで護衛をする。その寮、というのも、生徒会員のみが使用できる豪華な寮だ。その寮を生徒会員以外で使用できるのは、メンバーの番だけだったはずだが、本薙は我が物顔で、毎日、誰かを引き連れて、そこから現れる。
しかし、無駄に鼻のいい俺は気づいてしまう。おそらくアルファなら気づくだろう。本薙からは、色々なアルファのにおいが混じっている。それは毎日、微妙に異なる。生徒会室まで送り届けると風紀委員は、自分たちの仕事や授業に向かう。朝出会ったとき、昼迎えにくるとき、放課後に別れるとき。それぞれで、ヤツが纏うにおいが異なるのだ。生徒会員の匂いとは限らない。どこかで抜け出して、何か遊んでいるの気配を感じる。
ただ個人の遊びなら関心は抱かないが、本薙の場合は違う。彼を気に掛ける生徒は良くも悪くも、大勢いるのだ。その隙をついて、階段から落とされる事件があったわけなのに、本薙は懲りていないようだ。はたまた、あの事件は本薙の自作自演という噂まで流れている。これだけ奔放に遊ばれてしまうと、その方がしっくりと来てしまう。
昼を終え、俺は授業には参加せずにパトロールを強化した。
すると、文化部が使用する文化棟にある空き教室で、使用済みのゴムがよく落ちていることに気づいた。汚いそれを、爪先でつかみ上げ、ゴミ袋に放る。埃っぽい締め切った教室には、本薙の匂いがする。性に満ちた臭いに鼻がもげそうだ。
早くこの棟を出たい。
ゴミ袋をひっつかみ、ドアを開けると、遠くから物音が聞こえた。
今は授業中のはずで、この棟には誰もいないはずだ。
足音を殺しながら、音のする空き教室の前まで行く。近づくにつれ、フェロモンの匂いがし、ハンカチで口元を押さえる。ぱんぱん、と乾いた音と人の声が聞こえる。
「あん!おくぅ、あんっ、そこっそこっ!いっくぅ、いっちゃぁ!」
艶めいた声が聞こえ、汗が噴き出る。この声とにおいは、あいつしかいない。獣のような息遣いが聞こえ、甲高い声が廊下に響き渡ると、音は止んだ。気持ち悪さに、動けずにいると、ガタガタと音がして教室から人が出てきた。
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