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ep.9
しおりを挟むその日は、彼も仕事が立て込んでいるようだったので、外で一緒にやることをやって、終わったら帰ろうと相談して決めた。彼は、まっすぐ帰宅することを望んだが、僕は知っている。そのまま帰宅したら、間違いなく何も手につかなくなってしまう。それはもう、毎日のように体感しているからわかる。
僕は、よく飽きないな、と思うときがある。そう思うと、彼にいつかは飽きられてしまうのではないかと強く不安になってしまって、泣きそうになっていると、それを察知した彼が優しく甘やかして不安を聞いてくれる。そして、それが如何に杞憂であるかを心身共に、もういいと言ってもやめてくれないほど、わからされてしまう。
毎日が同棲をし始めた頃のように甘い時間を過ごしている。けれど、彼を好きだという気持ちは日に日に確実に増しているのが不思議でならなかった。
そのため、大学の課題は溜まる一方で、出来る限り授業中や休み時間に片付けられるよう尽力はしているが、やはりそれだけでは追いつかなくなってきた。彼も繁忙期に入りつつあるらしく、一緒に外で集中して頑張ろうと提案したのだ。さっさと終わらせて、家でたっぷり愛し合おうと彼はキスをして、今日は家を手をつないで出てきた。
今朝の彼のとろけた笑みを思い出して、胸がしめつけられる。隣にいる彼をこっそり視線だけで見やると、ゆるんだ顔で僕を見つめていた。瞳が交わると、嬉しそうに眦を染めて、どうした?と優しく聞かれた。
「な、んでもない…」
彼は不思議そうにしながらも、僕の耳をくすぐる。肩がひくん、と跳ねてしまい、むずがゆいそこを隠すように、髪の毛を耳にかけるふりをした。
目の前の自動ドアが開くと、ひんやりとした空気に包まれる。六月を過ぎて、すっかり梅雨入りを果たした。不快な湿度が軽減されて、深呼吸すると、懐かしい紙の匂いがした。歩きなれた道をたどり、カウンターに顔を出すと、岩立さんがいつものきっちりときれいに分けた七三の前髪と眼鏡で僕を見上げてから、少しだけ鋭い釣り目がゆるやかになった気がした。
「お疲れ様です、岩立さん」
「こんにちは」
彼女は姿勢正しく凛とした声で僕の挨拶に応えてくれた。声を聞きつけてか、バックヤードから谷口さんがひょこり、と顔を出した。久しぶりに会う二人に嬉しくて、少し声が弾んで大きくなってしまう。
「お久しぶりです、谷口さん」
「おお、九条さん、元気そうで良かったねぇ」
丸い背中で、サマーニットを着た谷口さんはあいかわらず優しい声色でのんびりと僕に声をかけてくれた。
この県立図書館は、僕の大好きで大切な場所だった。
三月に、彼を追って渡米し、一週間連絡を断ってしまい、シフトが入っていた僕を優しい二人はひどく心配してくれていた。後から知ったことだったのだけれど、綿貫と彼がこっそり連絡を取り合っていたらしく、綿貫からこちらには、急用のためお休みしたいと連絡は入れてあった。それでも迷惑をかけてしまったことは事実で、社会の一員として育ててもらい、ここがあったから僕は僕であることを認められるようになったのに…、と罪悪感でいっぱいになってしまった。日本に帰ってきてから、まず最初にここに挨拶にきた。
謝罪と、彼がどこからか調達した菓子折りをもってきた。
平謝りする僕と、隣で一緒に頭を下げている彼を、図書館の人たちは見比べて、うなずいてから気にしないでくださいと微笑み、逆に体調を気遣い励ましてくれた。その優しさが、逆に申し訳なさと情けなさを倍増させて大泣きして、より困らせてしまったことは恥ずかしい記憶のひとつだ。
もちろん、その時に岩立さんからは、社会の一員としての自覚が足りないと叱られた。けれど、それが彼女なりの愛情なのだと僕は知っていたから、すみませんと謝るしかなかった。そのあと、彼女は、無事で良かったです、と小さく安心した表情で微笑んでくれていて、その優しさにまた大号泣することとなった。
「西園寺さんも元気そうで、良かったよぉ」
柔らかい間延びした谷口さんの声が僕の後ろへ投げかけられる。振り向くと、彼はにこりと笑って、頭を下げた。
三月に、ご挨拶に来た時に彼のことは紹介した。けれど、谷口さんや岩立さんは全く驚いておらず、そうだったのか、と納得したようにうなずいていた。
後日、こっそりと谷口さんに聞いたところ、僕を見つめる熱心なファンはそこそこいたらしい。谷口さんは、その中でも足しげく通いながらも一度も声をかけず、むしろ気づかれないようにしている不思議な男を見つけ、気になっていたという。それが、彼らしかった。以前に、何度か来た、という話は彼から聞いていたが、谷口さんや岩立さんが気づくほどだったのかと思うと、気恥ずかしくて居心地悪く顔を赤くして、小さくなるしかなかった。
「大学の方はどうだい?」
「課題は多いし、内容は難しいですが、おかげ様で、順調です」
とても楽しいです、と笑顔で答えると、谷口さんは笑みを深めてうなずいた。
「落ち着いたら、いつでも戻ってきていいんだからね」
ねえ、岩立さん。と谷口さんは彼女の方を振り向いて尋ねると、小さくうなずいてくれていた。
「人手が多いに越したことはありませんから」
「またまた~。本当は九条さんがいなくなって、一番しょげてたじゃない~」
僕は、三月の時、迷惑をかけた責任をとって、辞職することを告げた。大学はここから電車を乗り継いで一時間ほどかかる。また、不慣れな生活に対応できるか、身体のことも不安であり、それらも含めて、辞職を考えていた。
けれど、それを谷口さんと岩立さんが止めてくれたのだった。
僕が辞めたところで何の責任も負えないと厳しく岩立さんは言い放った。谷口さんも、できる時だけくればいい、と提案をしてくれた。しかし、そのことによって、貴重な働き手の枠を僕なんかが奪ってしまうことは大変心苦しかった。そのため、辞めるという選択肢は譲れなかった。
その折衷案として、二人が、暇なときに手伝いにくればいい、と温かく声をかけてくれたのだった。
「そういえば、予約していた資料が届きましたが?」
谷口さんが笑いながら岩立さんの方に視線を送っていると、表情を変えずに咳払いをして、感情の読めない冷たい声色で業務を続ける岩立さんの耳先が若干赤くなっていた。
(本当に、優しい人たちに恵まれたんだな…)
改めてそう実感し、じんわりと眦が熱くなった。
それから、月に1回程度しか来られていないが、たまに顔を出して、ボランティアとして業務をお手伝いさせてもらっている。今日みたいに、場所だけ借りにきたり、課題のための資料を取り寄せてもらったりしていた。
「ありがとうございます」
勝手に顔がゆるんで、財布から図書カードを出して、岩立さんに渡す。バーコードが読み取られて、岩立さんは奥の資料棚から僕の請求した資料と本を持ってきて貸出手続きを行った。
僕と視線を合わすと、眼鏡の奥の透き通った彼女の瞳に柔らかい色が映って、うっすらと細められたのがわかった。僕はさらに頬を緩めて、次回もお願いします、と頭を下げた。
それから、今日は勉強して帰ります、とご挨拶をして、また会釈をした彼の横について、日当たり良く、穏やかで静かな席に座った。
今日の彼は、隣に座った。機嫌が良い時は目の前に座ることがあるのだが、今日は隣だ。きっと、何か思うことがあるのだろう。周りには人がおらず、少し離れた席に新聞を広げる中年男性と、ワークスペースが区切られた机に学生が数人座っていた。カバンを椅子にかけると、彼をこっそり見上げた。パソコンを開き、彼の瞳にはその画面が反射していた。
目が合わないことに、肩を落とし、どうしたのだろうか、と気になりつつも、かちゃかちゃとキーボードを打ち始めた彼に触発されて、僕も課題に取り掛かった。
レポート用紙に最後の一文を書ききると、僕は一つ、大きく息をついた。それから、ペンを置いて、ちらり、と彼に視線を送ると、すでにパソコンを閉じて頬杖を突きながら僕を見つめている彼がいた。
「ごめん、やっと終わった」
待たせちゃった? とひそやかに声をかける。窓から見える風景はすっかり暗闇へのグラデーションが強くなっていた。周囲にいた人たちも半分以上減っていた。彼は、厳しい顔つきのまま何も返答せずに、じ、と僕を見ていた。何か怒っているのか、硬い表情で、僕は小さく首をかしげた。
「待たせちゃって、ごめんね?」
もう一度、謝ると彼は不服そうに少し顔をゆがめて、机の下で僕の手を握りしめた。ぴく、と指先が緊張で跳ねる。書架を挟んで、少し先のカウンターには顔なじみの先輩たちがいる。本当は手を払って、早く帰ろうと言いたかったけれど、彼の機嫌が直るなら我慢しようと、ちらりとカウンターに映した視線を彼に戻した。僕の手のひらを親指でさすり、指の腹を合わせてから、側面を撫でるようにして、指を絡めて握りしめた。にぎにぎ、と力をこめたり抜いたりをして甘えてくる指先は、小さい子がすねてブランコでゆらゆら一人で遊んでいるような気配がする。そう思うと、胸の奥から温かく何かが湧き出てくるような気がして、くす、と微笑んでしまう。もう片方の手でも彼の手を包むように重ねる。
「どうしたの?」
柔らかい声で彼に尋ねると、硬かった表情がほぐれて、すねたような表情に変わった。
「早く、帰ろう」
彼も声を落として、かすれたつぶやきを送る。どうして、と首を傾けて見上げると、彼は身体を寄せて、僕の耳元で囁く。
「早く、俺だけの聖にしたい」
ちゅ、と控え目に耳元にリップ音が落ち、ぞく、と背筋に電流が走る。か、と頬が熱くなり、目元が潤むような気がした。羞恥と、彼によって毎日与えられる愛に身体が喜んでいる。
顔がゆっくりと上がってくると、じ、と彼を見つめる。その瞳に根負けしてか、彼が溜め息を一つついて、唇をへの字に曲げて、視線を外してつぶやいた。
「ここには、俺の知らない聖の顔があって、嫌だ」
すでに何度か一緒に訪れていて、僕の先輩とも彼は顔なじみになっているというのに、未だに彼らに対して、ヤキモチを焼いているようだった。少し目を見開いて、ぱちぱち、とまばたきを繰り返していると、彼は、眉をひそめて、机の上にあった自分のパソコンと僕の資料やレポート用紙類すべてを自分のカバンにしまった。それから、立ち上がり僕の手を軽く引く。それに促されるように立ち上がると、僕の分のカバンも肩にかけて、彼は歩き出した。カウンターでは資料の貸し出しが行われており、声をかけるのは控えたが、ちら、と岩立さんと目があい、軽く頭を下げた。ぎゅ、と強く手を握りしめられて、意識をそちらに持ってかれて気づかなかったが、岩立さんは、またか、と溜め息をついて、やれやれと首を横に振っていた。
そうして足早に帰宅してから、ずっと抱き着いてくる拗ねた彼を、僕はくすくす笑いながらたくさん甘やかすのだった。
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