初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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ep.6-4

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 すると、顎を掬われて、驚いて視線をあげると、目の前には薄い瞼を震わせた彼がいて、唇が、ちゅ、と淡く吸われた。

「神に…聖に、誓おう…」

 湿った唇に彼の熱い吐息がかかって、ぞく、とうなじがうずく。それから、もう一度角度を変えて、しっかりと唇を合わせた。
 それから僕は身体をひねって、短い襟足を横に撫でつけた。

「さくが、つけて…」

 うなじを彼にさらしてつぶやく。かさ、と後ろから紙箱の音がして、顔の前を黒革のベルトが通った。そして、ひや、と喉仏の下に当てられる。
 首に何かがあるというのが初めての体験で身体が強張った。
 本当に、僕はオメガになっているのだと実感する。それは、元に戻っているという嬉しさもあれば、奇妙であり、居心地の悪さも大きかった。すると、彼がうなじに、しっとりと口づけを落とした。

「んっ…」

 ぴく、と肩が跳ねてしまう。今までに感じ得なかった、身体の一番弱い場所を触れられたような、恐怖心と、そこに愛しいアルファが気づいてくれた高揚感が全身を駆け巡った。
 首裏で、かちゃ、と金具が合わさる音がする。振り返ると、耳まで赤く染めた彼が荒い呼吸で僕を見つめていた。

「聖…、好きだ…愛してる…」
「さ、んうっ…ん、んっ、…」

 彼が愛を囁くから、僕も伝えたかったのに、その前に唇が塞がれてしまって、僕たちはソファからもつれ落ちて、床の上に重なり合った。





 そこから、僕らの初めての発情期は、たった三日で終わってしまう。それなのに、彼が、まだ発情期だろ…、と言って、結局一週間は、お互い爛れた生活をしてしまった。
 熱に犯された瞳で、彼が何度も僕の名前を囁いて、惜しみなく愛を囁き、情熱的なキスをする。僕だって、伝えたいのに彼がそうさせてくれなかった。唇はほとんどの時間吸われていたし、離れていても彼の巧みな行為の前に言葉などなくしてしまった。だから、必死に彼に抱き着いて、全身で愛が伝わるようにするしか方法がなかった。
 彼が欲しくてほしくてたまらない。それに求めていた以上のものを与えてもらえるしあわせに、僕は酔いしれた時間だった。もらってももらっても、枯渇感は増す瞬間があった。けれど、彼はそれを嬉しそうに笑って、もっと、もっと、と与えてくれた。もういい、と言うのに、まだまだだと言って、何度も何度も翻弄されてしまった。
 その一週間を終えた頃、僕の身体は言うことを聞かなくて、一人では歩くことすら難しかった。彼が、常に僕を抱き上げてどこにでも連れて行った。風呂でも甲斐甲斐しく全身をくまなく洗ったし、髪の毛も嬉しそうに乾かしてくれた。大学の授業はすべて、オンラインで参加をした。彼も授業があるはずなのに、ずっと僕を後ろから抱きしめて、髪を梳いたり、つむじにキスをしたり、ただただそうして時間を過ごしていた。集中できないからやめて、と言うと、寂しそうに僕をただ見つめるから、罪悪感が募って、結局許してしまった。授業が終わると、キスをされて、またいたずらに弄ばれてしまう。しかし、僕も本気で嫌がらないで、彼の甘い香りに満足して、いつも彼のたくましい身体に手を這わせてしまうのだ。
 発情期を終えてから、外された首輪を彼はすぐに捨てようとしていた。せっかくの二人の初めての記念品なので、僕が急いで止めに入ると、彼は嫌そうに舌打ちをした。その理由は、その首輪を見ればすぐにわかった。
 首輪のうなじ部分は、見事に彼の歯型まみれでぼろぼろだった。あまりにも回数が多くて意識していなかったが、これを見てから、そういえば、背後から攻められることが多かったと思い出す。彼を見上げると、バツが悪そうに顔に皺を寄せて耳先を赤く染めていた。

「堪え性がなくて、かっこ悪い、だろ…」

 そうつぶやいて、返せ、と捕られそうになったのを急いで背後に隠した。指でなぞると彼の犬歯でひどくえぐれた黒革がわかって、彼の思いの強さを実感するようだった。さらに、いつかは、本当に自分のうなじがこうなってしまうのかと思うと、恐怖と共に、愉悦が湧き上がってきて、身震いした。振り返って彼と目が合うと、目を見開いたあと、抱きすくめられて、ベッドに押し倒されてしまう。

「も、むり…!」

 散々したでしょ?! と身体を押し返すが、びくともしなかった。熱に犯された目元を柔らかくして、舌なめずりをしてから、ちゅ、と唇を吸われた。

「聖、いやらしい匂いさせてんのに、説得力ないから」
「あぅ…、さく、ぅん…」

 頬を擦り合わせられる。僕の熱い頬は、赤い彼の頬を冷たく感じるほど熱を持っていた。強い彼のフェロモンを浴びせられて、陶酔しながら僕は形だけの腕をつっぱねて、甘い唇を食んだ。






 甘い倦怠感に包まれながら、ベッドライトの温かい灯りに照らされた部屋で彼の匂いに酔いしれていた。後ろにはまだ、彼がいるようでもどかしかった。彼のしっとりとした素肌に頬を寄せて、厚い胸板に抱き直った。首の下にあった彼の腕が動いて、髪の毛をさらさら、と遊ばれる。心地よくて、瞼を降ろしてくすくすと小さく笑った。それに合わせて彼も嬉しそうに微笑んでいて、穏やかな時間を味わう。

「聖」

 耳朶を長い人差し指が撫でて、僕の名前が呼ばれる。なあに、と顔をあげると、朝焼けの透き通った海のような瞳とあわさって、どちらともなく唇が触れ合った。彼が瞳をとろりとさせて、ゆるやかに微笑む。それだけで胸が高鳴って、好きだという気持ちが溢れてしまう。
 彼が、顔を倒して、ベッドヘッドの引き出しを引いた。がさがさと何かを探しているようで、大人しく彼に鼓動を聞きながら待っていると、一枚のバインダーを渡された。横型のもので何かと眉をひそめて受け取る。それは、白地の紙でなかなかの大きさがあった。そして、茶色字で枠がいくつも書かれていて、半分にはもう黒いボールペンで署名がされていた。

「こ、れ…」

 思わず身体を起すと、掛布団がぱさり、と肩から滑り落ちて、外気温がひやりと肌を撫でる。それなのに、体温は上がっていく一方だった。同じように身体を起した彼を見上げると、眦を染めながらも真剣な顔つきで告げた。

「もう少し先のことだと思っていたが、やはり、我慢できない」

 そう言って、彼は僕の左手を掬った。二つのリングが重なったそこに、しっとりと口づけを落とす。全身の血液がそこに集中したかのように、敏感に彼の熱を拾ってしまう。指先に、ひや、と何かの感触がした。

「病めるときも、健やかなるときも、聖だけを愛し、命ある限り聖を守り抜くことを誓おう」

 言葉が出なくて、口をぽかんと開けたまま固まってしまった。
 彼は、するり、と僕の薬指に三つ目のリングを差し入れた。視線をやると、ベッドライトの弱い光を受けても、きらきらと真昼の日差しを受けた水面のようにまばゆく光る大きな石がついたものだった。

「俺には聖しかいない…結婚してくれ…」

 僕の左手を両手で握り、縋るような瞳で眉を寄せて訴える彼は、答えなどわかっているはずなのに、怯えたように僕の顔色を窺っていた。
 頭の中に、すべての風景がいきなり浮かび上がっては巡っていく。マゼンダの中で幼い誓いを立てたあの時。小学生の時に密やかにキスをした、ほこりっぽい図書館。宿題をしたり本を読んだり、たくさん笑い合った、日差しの柔らかい彼の部屋。冷たく一瞥された小学校の夜の噴水。僕をひどく叱責した高校の寮。彼と再会を果たした夜の海。高校の桜並木の中、手をつないで歩いた彼の笑顔。寒空の公園でベンチに並んだ。コーヒーの香ばしい匂いと共に再会した喫茶店から見えた木枯らし。人通り激しい交差点。レンガ調の建物の間を彼と歩いた。満員のアメリカのバスでいたずらをされた振動。二人きりで甘いひと時を過ごしたワンルーム。共に通う大学の正門。近所のスーパー。過ごしやすいこの部屋。
 ばらばら、と涙が溢れた。
 それに彼が気づくと、眉をきつく寄せて、頼りなく僕の名前を呼んだ。ごし、と手の甲で涙を拭って彼を見上げる。濡れて重い睫毛をしばたたかせて、頬を緩ませる。左手を包む彼の両手を引き寄せて、頬を擦り寄せる。

「喜んで、僕の王子様」

 今度は、彼の右目から、す、と一筋の雫がまっすぐに落ちていった。固く強く抱きしめ合った。それから、僕たちは誓いのキスを交わして、婚姻届にサインをした。




 また一週間がして、ようやく身体が戻った頃に、先生のもとへ診察にいけた。血液検査などを行って、僕の身体を精密に調べてもらい、身体がほぼオメガへと転換していることがわかった。
 二週に一度、通院し検査を行い、コートが手放せなくなる時期になると、先生が笑顔で、おめでとう、よく頑張ったね、と僕に握手を求めてくれた。僕は、長年の苦労がようやく実ったような達成感に涙して、先生に礼を言った。隣にいる彼がぎゅうぎゅう抱きしめて、同じようにおめでとうと祝ってくれた。
 僕はようやく、彼のオメガに戻るのだと、彼を抱きしめた。


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