初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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ep.6-3

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 部屋に戻っても意識が混濁するようなことはなく、とりあえず、ソファに僕は座らされて、彼が温かい飲み物を煎れてくれた。

「体調、どうだ?」

 今日、何十回目となる質問をされて、僕は、ふ、と笑いながら、うなずいた。

「随分よくなった…ありがとう」

 小さくつぶやいて答えると、彼も良かった、と微笑んだ。

「僕…、どうなってる、の…?」

 はっきりとした意識で彼にそう尋ねる。彼は少し視線を泳がせてから、足元にあったカバンから書類を出した。カラーのチラシになっているそれを広げると、抑制剤についてというわかりやすい説明書類となっていた。

「聖の身体は今、発情期に入っているらしい」
「…え?」

 発情期、と言われて、何のことかわからなかった。
 僕が想像する発情期とは、オメガが三月に一度、一週間程度なる、あの期間のことしかわからなかった。けれど、手元の書類を見ても、アルファとオメガのための、という見出しがついていた。

「ぼ、く…オメガ、なの…?」

 もちろんそのための治療をしてきた。けれど、彼と一緒に先生のもとを訪ねてから、まだ半年程度しか経っていない。先生から聞く限り、数年、数十年かかると言われていた。
 それが、たった半年で叶うものなのだろうか。疑問で頭がいっぱいで、何度も瞬きをして彼を見つめた。

「はっきりとはまだわからない…しかし、先週あたりから聖の匂いが、変わったんだ…」
「におい…?」

 襟口をつかんで、鼻を当ててみる。くんくん、と匂いを嗅ぐが自分ではわからなかった。そんな僕の仕草に彼は、くすり、と眉を下げて笑って続けた。

「聖もその頃から、何か体調に変化はなかったか?」
「そういえば…、ちょっと、微熱が出てたかも…」

 そう聞かれれば、一週間前くらいから微熱があった。しかし、何か体調がおかしいことはなく、気にしていなかった。その事実を知って、彼は険しい顔つきになった。

「なぜ、教えてくれなかった?」

 硬い声に、ぴく、と指先が跳ねて、そろ、と彼を見やると、瞳は寂しそうに揺れていた。

「ご、ごめんね、そんな体調が悪いとかなかったから、気にしてなかったんだ」

 一人で抱えていたとか、彼を信用していないとか、そういうわけではなく単純に自分自身で気になっていなかっただけなのに、彼が傷ついているような気がして、彼とお揃いのマグカップをテーブルに置いて、彼の手に両手を添えた。彼が手のひらを仰がせたから、その指に片手を絡ませると素直に彼が握り返してくれる。それをさらにもう片方で覆うように握りしめる。彼がその手もとを一瞥して、表情を柔らかくさせたから、ほ、と胸を撫でおろした。

「おそらく、それが発情期の兆候だった」

 僕は瞠目した。けれど、今、そう言われてから考えると、やけに僕は彼を見ると触りたくなったし、触ってほしくなった。恋しくて、身体が火照っているのがわかった。なんだか妙に情緒も落ち着かなくて苦しかった。それは、すべて、オメガに身体が進んでいて、発情期を迎えようとしていたからなのかと思うと、薬でクリアになった頭で振り返り恥ずかしい自分の淫らな姿を思い返して、一人赤面した。そんな僕を見て、彼はくすりと笑って、手を持ち上げた。そこに視線を移すと、彼が、うっとりと僕の手の甲にキスをした。長い睫毛が持ち上がって、きらめく宝石が覗くと、頬を染めて、かわいかった、と囁いた。
 か、と顔がさらに熱くなり、空いている片手で顔を隠した。

「わ、忘れて…」
「なぜ?」

 何度も嫌がる彼に強請った淫乱な自分が思い起こされて、消えてなくなってしまいたかった。それなのに彼は、面白がるように僕に熱く囁く。

「外では、そんな姿を一つも見せないのに、俺の前だととろとろに甘えてくる聖が、たまらなく可愛いのに…」
「ゃ、ん、…ぁ…、っ」

 彼が、暗闇の中、いつも僕を翻弄する低くかすれた声色で、わざとして耳元で問いかける。じわぁ、と後ろがなぜか濡れるような感覚がして、背筋が震える。収まっていた熱が、ぐっと上昇してくるのがわかると、頭がくらりと揺れる。

「また、いい匂い漏れてる…」
「ぁ…、さく…、ん…」

 彼が顔を寄せて、耳元でくちゅり、と舌で舐める。彼の濃密な南国の花のような強い香りが僕を浸食して、神経を焦がしていく。

「これ、俺以外に渡さないでくれ…」
「そ、んなこと…、ぅ…っ」

 耳裏の薄い皮膚に、彼がきつく吸い付いた。ちり、と痛むが、彼が唇を離すと、血液がそこに集中してざわめき、彼に刻印をつけられたのだと喜びが湧いてくる。そ、と顔を離して、ぎらりと光る瞳を細めて、彼が潤う唇を緩ませた。

「俺、聖が求めてくれて、すごく嬉しかった…けど、それは発情だったんだよな…」

 熱い吐息をつきながら、彼がゆっくり前髪を撫でつけてくれる。それすら鳥肌が立って、涎が落ちてしまいそうになる。ごく、と強く飲み落として、首を横に振る。

「…僕、さくだから、ほし、かった…」

 羞恥に視界が滲んで、視線を泳がせながら彼の手首に指をかける。下げていた目線の先で、彼の大きく張り出した喉仏が音を立てて、上下するのを見て、顔をあげた。苦し気に眉を寄せた彼が、唇を噛み締めて、唸るようにつぶやいた。

「好きだ…」

 あまりにも単純な言葉だけれど、僕たちの感情を表すには、これしかないのだ。

(僕も…)

 その言葉にうなずくと、涙が零れてしまいそうだった。彼の赤い唇を、人差し指でなぞると、それだけでキスをされたように脳が痺れていく。彼が、その指に甘く噛みついた。

「あ…っ」

 手首を掴まれて、手のひらの柔らかい部分に淡く犬歯が立てられると、僕のうなじにもいつかそうなるのか、と想像してしまって、腹が重くなった。それから、薬指の二つのリングを、かちり、と噛んで彼は離れていってしまった。寂しくて、唇を噛むと彼は、カバンの中から、小さな箱を取り出した。病院で薬と共に受け取っていたものだと思い出す。その中からは、黒革のベルトが出てきた。何かと首をひねると、彼はそれをほどいて、僕に向けた。

「医療用ネックガードだ、つけよう」
「な、なんで…? やだ…っ」

 僕の首元に当ててきたのを、身を引いて手で押しのけた。
 ようやく、オメガに身体が進み、発情期がきたというのに、なぜ、ネックガードをしないとならないのだと目を見張って彼を見ると、彼も悔しそうに眉をひそめていた。

「まだ、聖の身体は安定していない。そこで噛み跡をつけてしまうと、バランスが崩れてしまうそうだ…」

 だから、我慢してくれ。と彼は苦々しくつぶやいて、僕の頬を撫でた。その指の上を、涙がなぞった。

「やだ…、僕、さくと、番になりたい…」

 やだやだ、と首を横に振って泣きじゃくってしまう。

「聖…っ」

 涙を拭うために顔を覆っていた腕ごと、彼の胸元に抱き寄せられて、長い腕が僕を閉じ込めた。ぎゅう、と力を込めて強く抱きしめられる。

「俺が、もう聖を逃すわけないだろう」

 低く囁かれたその声は、まるで過去を悔いているような苦しい呻き声だった。
 彼の力強く、早い鼓動が僕の全身を揺らした。

「番なんてものがなくても、俺は一生聖を逃がさない。例え聖に嫌われても、俺は絶対に聖を離さない」

 もう二度と。
 彼は誓うように囁くと、さらに腕の力を込めた。苦しいほどに抱きしめられて、僕の涙はすっかり引っ込んでしまい、胸が高鳴り、全身に熱い血液が巡っているのがわかる。僕の鼓動か、彼の鼓動なのか。わからない。それは、同じくらい強くて、早くて、一緒に混じりあっているようだった。
 僕がもぞり、と動くと彼は腕の力を抜いてくれた。広い背中に手を回して、彼を見上げる。瞳は泣いているかのようにつやめいていて、揺らいでいた。首を伸ばして、唇に吸い付く。

「誓いの、キス…」

 彼が本心を伝えてくれたのに、僕はキスをするのも恥ずかしくて、視線が下がってしまった。




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