113 / 127
ep.6-3
しおりを挟む部屋に戻っても意識が混濁するようなことはなく、とりあえず、ソファに僕は座らされて、彼が温かい飲み物を煎れてくれた。
「体調、どうだ?」
今日、何十回目となる質問をされて、僕は、ふ、と笑いながら、うなずいた。
「随分よくなった…ありがとう」
小さくつぶやいて答えると、彼も良かった、と微笑んだ。
「僕…、どうなってる、の…?」
はっきりとした意識で彼にそう尋ねる。彼は少し視線を泳がせてから、足元にあったカバンから書類を出した。カラーのチラシになっているそれを広げると、抑制剤についてというわかりやすい説明書類となっていた。
「聖の身体は今、発情期に入っているらしい」
「…え?」
発情期、と言われて、何のことかわからなかった。
僕が想像する発情期とは、オメガが三月に一度、一週間程度なる、あの期間のことしかわからなかった。けれど、手元の書類を見ても、アルファとオメガのための、という見出しがついていた。
「ぼ、く…オメガ、なの…?」
もちろんそのための治療をしてきた。けれど、彼と一緒に先生のもとを訪ねてから、まだ半年程度しか経っていない。先生から聞く限り、数年、数十年かかると言われていた。
それが、たった半年で叶うものなのだろうか。疑問で頭がいっぱいで、何度も瞬きをして彼を見つめた。
「はっきりとはまだわからない…しかし、先週あたりから聖の匂いが、変わったんだ…」
「におい…?」
襟口をつかんで、鼻を当ててみる。くんくん、と匂いを嗅ぐが自分ではわからなかった。そんな僕の仕草に彼は、くすり、と眉を下げて笑って続けた。
「聖もその頃から、何か体調に変化はなかったか?」
「そういえば…、ちょっと、微熱が出てたかも…」
そう聞かれれば、一週間前くらいから微熱があった。しかし、何か体調がおかしいことはなく、気にしていなかった。その事実を知って、彼は険しい顔つきになった。
「なぜ、教えてくれなかった?」
硬い声に、ぴく、と指先が跳ねて、そろ、と彼を見やると、瞳は寂しそうに揺れていた。
「ご、ごめんね、そんな体調が悪いとかなかったから、気にしてなかったんだ」
一人で抱えていたとか、彼を信用していないとか、そういうわけではなく単純に自分自身で気になっていなかっただけなのに、彼が傷ついているような気がして、彼とお揃いのマグカップをテーブルに置いて、彼の手に両手を添えた。彼が手のひらを仰がせたから、その指に片手を絡ませると素直に彼が握り返してくれる。それをさらにもう片方で覆うように握りしめる。彼がその手もとを一瞥して、表情を柔らかくさせたから、ほ、と胸を撫でおろした。
「おそらく、それが発情期の兆候だった」
僕は瞠目した。けれど、今、そう言われてから考えると、やけに僕は彼を見ると触りたくなったし、触ってほしくなった。恋しくて、身体が火照っているのがわかった。なんだか妙に情緒も落ち着かなくて苦しかった。それは、すべて、オメガに身体が進んでいて、発情期を迎えようとしていたからなのかと思うと、薬でクリアになった頭で振り返り恥ずかしい自分の淫らな姿を思い返して、一人赤面した。そんな僕を見て、彼はくすりと笑って、手を持ち上げた。そこに視線を移すと、彼が、うっとりと僕の手の甲にキスをした。長い睫毛が持ち上がって、きらめく宝石が覗くと、頬を染めて、かわいかった、と囁いた。
か、と顔がさらに熱くなり、空いている片手で顔を隠した。
「わ、忘れて…」
「なぜ?」
何度も嫌がる彼に強請った淫乱な自分が思い起こされて、消えてなくなってしまいたかった。それなのに彼は、面白がるように僕に熱く囁く。
「外では、そんな姿を一つも見せないのに、俺の前だととろとろに甘えてくる聖が、たまらなく可愛いのに…」
「ゃ、ん、…ぁ…、っ」
彼が、暗闇の中、いつも僕を翻弄する低くかすれた声色で、わざとして耳元で問いかける。じわぁ、と後ろがなぜか濡れるような感覚がして、背筋が震える。収まっていた熱が、ぐっと上昇してくるのがわかると、頭がくらりと揺れる。
「また、いい匂い漏れてる…」
「ぁ…、さく…、ん…」
彼が顔を寄せて、耳元でくちゅり、と舌で舐める。彼の濃密な南国の花のような強い香りが僕を浸食して、神経を焦がしていく。
「これ、俺以外に渡さないでくれ…」
「そ、んなこと…、ぅ…っ」
耳裏の薄い皮膚に、彼がきつく吸い付いた。ちり、と痛むが、彼が唇を離すと、血液がそこに集中してざわめき、彼に刻印をつけられたのだと喜びが湧いてくる。そ、と顔を離して、ぎらりと光る瞳を細めて、彼が潤う唇を緩ませた。
「俺、聖が求めてくれて、すごく嬉しかった…けど、それは発情だったんだよな…」
熱い吐息をつきながら、彼がゆっくり前髪を撫でつけてくれる。それすら鳥肌が立って、涎が落ちてしまいそうになる。ごく、と強く飲み落として、首を横に振る。
「…僕、さくだから、ほし、かった…」
羞恥に視界が滲んで、視線を泳がせながら彼の手首に指をかける。下げていた目線の先で、彼の大きく張り出した喉仏が音を立てて、上下するのを見て、顔をあげた。苦し気に眉を寄せた彼が、唇を噛み締めて、唸るようにつぶやいた。
「好きだ…」
あまりにも単純な言葉だけれど、僕たちの感情を表すには、これしかないのだ。
(僕も…)
その言葉にうなずくと、涙が零れてしまいそうだった。彼の赤い唇を、人差し指でなぞると、それだけでキスをされたように脳が痺れていく。彼が、その指に甘く噛みついた。
「あ…っ」
手首を掴まれて、手のひらの柔らかい部分に淡く犬歯が立てられると、僕のうなじにもいつかそうなるのか、と想像してしまって、腹が重くなった。それから、薬指の二つのリングを、かちり、と噛んで彼は離れていってしまった。寂しくて、唇を噛むと彼は、カバンの中から、小さな箱を取り出した。病院で薬と共に受け取っていたものだと思い出す。その中からは、黒革のベルトが出てきた。何かと首をひねると、彼はそれをほどいて、僕に向けた。
「医療用ネックガードだ、つけよう」
「な、なんで…? やだ…っ」
僕の首元に当ててきたのを、身を引いて手で押しのけた。
ようやく、オメガに身体が進み、発情期がきたというのに、なぜ、ネックガードをしないとならないのだと目を見張って彼を見ると、彼も悔しそうに眉をひそめていた。
「まだ、聖の身体は安定していない。そこで噛み跡をつけてしまうと、バランスが崩れてしまうそうだ…」
だから、我慢してくれ。と彼は苦々しくつぶやいて、僕の頬を撫でた。その指の上を、涙がなぞった。
「やだ…、僕、さくと、番になりたい…」
やだやだ、と首を横に振って泣きじゃくってしまう。
「聖…っ」
涙を拭うために顔を覆っていた腕ごと、彼の胸元に抱き寄せられて、長い腕が僕を閉じ込めた。ぎゅう、と力を込めて強く抱きしめられる。
「俺が、もう聖を逃すわけないだろう」
低く囁かれたその声は、まるで過去を悔いているような苦しい呻き声だった。
彼の力強く、早い鼓動が僕の全身を揺らした。
「番なんてものがなくても、俺は一生聖を逃がさない。例え聖に嫌われても、俺は絶対に聖を離さない」
もう二度と。
彼は誓うように囁くと、さらに腕の力を込めた。苦しいほどに抱きしめられて、僕の涙はすっかり引っ込んでしまい、胸が高鳴り、全身に熱い血液が巡っているのがわかる。僕の鼓動か、彼の鼓動なのか。わからない。それは、同じくらい強くて、早くて、一緒に混じりあっているようだった。
僕がもぞり、と動くと彼は腕の力を抜いてくれた。広い背中に手を回して、彼を見上げる。瞳は泣いているかのようにつやめいていて、揺らいでいた。首を伸ばして、唇に吸い付く。
「誓いの、キス…」
彼が本心を伝えてくれたのに、僕はキスをするのも恥ずかしくて、視線が下がってしまった。
34
お気に入りに追加
1,034
あなたにおすすめの小説

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた
翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

【完結】王宮勤めの騎士でしたが、オメガになったので退職させていただきます
大河
BL
第三王子直属の近衛騎士団に所属していたセリル・グランツは、とある戦いで毒を受け、その影響で第二性がベータからオメガに変質してしまった。
オメガは騎士団に所属してはならないという法に基づき、騎士団を辞めることを決意するセリル。上司である第三王子・レオンハルトにそのことを告げて騎士団を去るが、特に引き留められるようなことはなかった。
地方貴族である実家に戻ったセリルは、オメガになったことで見合い話を受けざるを得ない立場に。見合いに全く乗り気でないセリルの元に、意外な人物から婚約の申し入れが届く。それはかつての上司、レオンハルトからの婚約の申し入れだった──

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です

初夜に訪れたのは夫ではなくお義母様でした
わらびもち
恋愛
ガーネット侯爵、エリオットに嫁いだセシリア。
初夜の寝所にて夫が来るのを待つが、いつまで経っても現れない。
無情にも時間だけが過ぎていく中、不意に扉が開かれた。
「初夜に放置されるなんて、哀れな子……」
現れたのは夫ではなく義母だった。
長時間寝所に放置された嫁を嘲笑いに来たであろう義母にセシリアは……
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる