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ep.4
しおりを挟む「聖、本当にするのか?」
白を基調とした清潔感あふれる病院の待合室で彼は、今日、何十回目となる質問をしてきた。指を絡めて握りしめられた手を、もう片方の手で包むように撫でる彼は、眉をさげて僕よりも高い位置にある頭をかしげて見降ろしていた。その瞳は、心配でいっぱいで、僕を思っての言葉なのだとよくわかる。溜め息混じりにくすりと笑う。
「うん。僕のバースが本来の形に戻ろうとしているなら、それを促したいんだ」
オメガへの治療をすること。ただ、それは、弱い薬を服用して、あとは自分の身体の持つ力に頼ると言った自然療法に近いもの。それを今日、山野井先生と決める日にしたのだ。彼にこのことを伝えてから、ずっと僕に意思確認をしてくる。
「だが…」
また薄いけれど形の良い彼の唇が開かれ、同じことを言おうとしたので、僕は人差し指でその唇に触れる。瞠目して目を寄せた彼がおちゃめな表情が愛らしくて、ふふ、と小さく笑った。
「これは、僕のためにするの。僕の身体が元ある形に戻るための手助けをするだけ」
オメガにどうしてもなりたい。という焦燥感や不安感は、あの時とは全く異なり、ほとんどなかった。ただ、オメガになったら、彼の番になれる。番とは、特別なものだとよく聞く。その関係性を彼と体験できるのなら、それは嬉しいことなのかもしれないとも思う。
彼のため、とか、彼との関係のため、とか、そういうことではなくて、僕は僕の身体のために治療をしたいと考えたのだ。
もともとがそうであったのなら、正しい形に戻してあげたい。もし、それが叶わなければ、それはそれでいいかな、と思っている。それもまた、自然の成り行きなのだと受け入れよう。
「っー…、だが…」
それでも彼は眉間に皺を濃くして、僕をまっすぐに見つめていた。今では、それがちゃんと僕を一番に考えてくれていて、大切にしてくれているからこその瞳なのだとわかる。
「それとも、僕がオメガになったら都合悪いことでもあるの…?」
「そんなわけないだろっ!」
悪ふざけのつもりでいじけたふりをしてみただけなのに、彼は必死になって僕の手を握った。予想以上に大きな声で僕は驚いて固まってしまったが、周囲の視線が僕たちに集まったのは彼の気まずそうな顔つきを見てよくわかった。
それから、彼は声をひそめて、僕に真摯に詰め寄った。
「聖はどんなにつらくても、また一人で我慢するだろう? それが嫌なんだ。聖の身体は聖だけのものじゃない…」
「さ、…」
「次の方、どうぞ」
低く、僕にだけ聞こえる声で彼は瞳を揺らしながら囁いた。あまりにもまっすぐで、強い愛が指先から全身でわからされるようで、ひく、と喉奥がひきつるように身体が強張った。それは、あまりにも彼の思いが嬉しくて、歓喜に沸き立つようだった。
すると、近くの扉から声が聞こえて、診察室前のモニターに僕の番号が映し出された。彼が、それに気づいて先に立ち上がった。その手を握りしめる。彼の手が、くん、と引っ張られて僕に振り返った。
「一人で我慢しなくていいの…?」
上目で、思わず潤んでしまった瞳で彼を見つめると、少し目を見開いた彼は、すぐに床に膝をつけて、僕の前に降りてきた。
「当たり前だ…これからは、俺が聖の隣にいるからな…」
今までごめんな…。彼はそうつぶやいて、僕の手を優しく包んで、心をほぐすように柔く揉んで、微笑んだ。く、と鼻の奥が痛んで、心がゆるんでいくのがわかった。
「うん…僕も、不安にさせて、ごめんね…」
以前、ここに一緒に来た時とは、全く違う気持ちだった。
あの時は、常に心が空虚で何をしても満たされなくて、不安でたまらなかった。だからその分、なんとかなければならないと空回りばかりして、お互いが傷つけてあっていた。もう二度と、彼とはここに来られないのかもしれないとも思っていた。
それなのに、僕は彼と今、手をつないで、ここにいる。
本当の気持ちも、伝えられるようになった。
不安も不満も、素直に言える。好きだという気持ちも、離れたくないという感情も、全てを伝えられる。
僕の眦から雫が溢れる前に、彼のかさついた親指が壊れ物に触れるように、そっと触れて拭ってくれた。僕の一挙一動を見逃さずに、愛を持って接してくれる彼の温かさに、心が潤い、また涙が出てしまいそうだった。けれど、彼が眉を下げながら、頬をうっすらと染めて微笑むから、僕も頬を緩ませて彼に身を寄せた。きゅ、と熱い身体に抱きしめられて、鼓動を感じて、甘い香りが僕を溶けさせる。そのまま、抱き起されて、僕たちは診察室の前に立った。
「え…?」
緊張しながらも、充足した感情で共に寄り添いながら、山野井先生の前に僕たちはいた。しっかりと握りしめあった手をみて、山野井先生は嬉しそうに微笑んで祝福してくれた。照れながらも、長らく迷惑と心配をかけ、そして親身になって尽力してくれた恩人に僕は心からの感謝を述べた。
その後、検査の結果に、僕たちは目を丸くすることとなる。
「今のお二人の様子を見て、私は納得しましたよ」
丸い眼鏡の奥の優しい瞳を、細くしてにこにこと笑っている。しかし、僕たちは、先ほど先生がおっしゃられた意味が理解できずにぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
「せ、先生…一体、どういうことですか…?」
乾いた口内で、ごくりと唾を飲み落としてから、僕がか細く尋ねる。山野井先生は、そんな反応をする僕たちを愛おしそうに頬を緩めて、いつも以上に優しい声で話した。
「前回と比較して明らかにオメガ化への数値が向上しました」
「そ、それって…」
きゅ、と自然に手に力が入ってしまう。それを彼はしっかりと握り返してくれる。
山野井先生は、カルテを見ながら前回と今回の数値について話をしてくれた。確かにそれは、10倍以上の数値の変動があり、僕の身体がベータよりもオメガに近い状態であることを示しているものらしかった。
「西園寺さんは近くにいて、感じられますよね?」
山野井先生が顔をあげて、隣にいる彼に声をかける。視線をあげると、彼もしどろもどろに瞬きしていえ、ええ…と濁った返事をしていた。
「もともと聖からはフェロモンの匂いがありました。それが、最近、強くなったような気がしていましたが…」
恋人になった欲目かと思って…、と言ってから彼は口元を手で覆って自身の輪郭を撫でた。のろけられている錯覚がして、頬に熱が集まっていく。そんな僕らの様子を山野井先生は笑み深く見守っていた。
「九条さんも何か症状がありましたか?」
「え? そ、そういわれると、なんだか、ぼうっとすることが、多かったよう、な…」
でもそれは、長い初恋を経て、ようやく恋人になった彼のかっこよさに見惚れているかとも思っていた。だから曖昧な答えを述べたのだが、にこにことしている山野井先生には見透かされているような気がして、思わず視線が下がってしまう。
「恋愛をする機能は本能と密接につながっています。ただ、人間は理性の生き物ですから、そこに心が伴わないと成立しません」
先生の言葉は、僕たちがただ本能で結ばれた存在ではなくて、きちんと恋をして思いを通じ合わせて成り得た関係性なのだと認めてくれているようだった。
胸がしぼられる感覚がして、思わず涙が出そうになってしまう。僕の手を包む彼が指が、優しく撫でてくれた。慰めてくれているような、愛を囁いているような指先に、視線をたどってあげていく。彼も、頬を染めて眦をすっかり垂らして微笑んでいた。瞳がぶつかると、僕もさらに目を細めた。
(心も身体も、素直になれてるんだ…)
幼い頃、彼と出会って恋をして。誓いのキスをしたあの時から、たくさんの遠回りをしたけれど、心がつながり、身体もあるべき姿に戻ろうとしてるのだとわかると、そんな気がした。
「まだ医学的には検証されていませんが、僕がここで見ている患者さんの傾向からして、オメガ化への治療は、心を許せるアルファに愛されることが一番効果があると思っています」
九条さんと西園寺さんもその一例となったわけです。
そういったあと、先生は、おめでとうございます、と自分のことのように嬉しそうに祝ってくれた。先生には見苦しい姿をたくさん見せてしまった。たくさん甘えもした。それでも、こうやって喜んでくれる先生に、僕も彼も、深々と頭をさげて礼を言った。
そのあと、先生からオメガへの転換をサポートする軽いバース促進剤の薬を長期的に服用することを相談して決めた。
また、その際に、長らく付き合ってきた先生の愛らしい笑顔で、オメガ化の促進する良い方法として、今まで見てきたカップルの症例をもとに話をされた。その内容が、性行為を積極的に行うこと。毎日は難しくても、精子の鮮度的に二日に一回は行う方が良いということ。そして、胎内射精を繰り返すことで、アルファのフェロモンを外からも内からも吸収することができ、効率よくオメガ化が促進されるはずだと言われた。しかし、それは、射精される側の負担も大きいため、パートナーとよく相談することを念押しされる。それに際して、アフターピルも処方されてしまった。
僕は、先生の口から出る言葉があまりにも生々しくて、僕のオメガ化が一気に促進されたのは、濃密な夜を過ごしたからなんですね、と見透かされたようで、顔から火が出てしまいそうになった。ひたすらに消えてしまいたくて、身を縮こまらせて汗を流しながらその場で固まっていた。しかし、隣の彼は熱心に先生の話を聞いていて、出したものは掻きだしても効果があるのでしょうか、とか真剣な顔をして質問なんかもしていた。もうやめてほしくて、睨みつけるのに、潤んだ瞳と上気した頬で上目で睨んでも彼には逆効果らしく、耳元で、今夜のために専門家に聞いておかないと、と慰めるように甘く囁かれた。先生からは、素敵なパートナーでよかったですね、とにこにこ笑われてしまう。味方が一人もいない空間で彼は、一日何回までなら中に出しても良いのでしょうか、とか聞きだしてしまって、僕は診察室を駆け出してしまった。
待合室の隅っこで顔を覆っていると、しばらくしてから会計を済ませた彼が来て、手を力強く引っ張られる。よろけながら彼の大きい歩幅に合わせてついていくと、急いでタクシーに乗り込んで、僕たちが同棲を始めたアパートへと向かった。その間もずっと彼は落ち着きなく貧乏ゆすりをしていて、手にはじっとりと汗をかいているようだった。
同じ大学に通い出すちょっと前に、大学の近くにアパートを借りた。僕たちはそこで、同棲をしている。タクシーはオンライン決済で済ませているらしく、転がるように降りると、急いでエレベーターに乗り、部屋のドアにカギを差し込もうとする。彼の指先が覚束なくて、がちがち、と鍵が何度も穴に入らずにぶつかっていた。それを煩わしそうに舌打ちをする彼の頬は赤く、汗もかいていた。ようやく開いたドアに押し込まれると、鍵を閉める前に抱きすくめられて噛みつくようにキスをされた。
その日、オメガ化が促進しすぎてしまうのではないかというくらい、彼の愛を存分に受けて、僕は心の中で山野井先生を少しだけ恨んだ。
翌朝、きしんで痛み、動けない身体のまま、肌艶がよくなったように見える彼を恨めしく睨みつけながら、「そんなにオメガになってほしいんだ…」とつぶやくと、彼は不思議そうな顔をしていた。
「セックスはオメガになるためにするんじゃないだろ? 聖が、心も身体も、俺を受け入れてくれているのを山野井先生に教えてもらったから止められなかったんだ」
嬉しくて、無理させて悪かった。
そう言って、甘えるように高い鼻梁を頬に摺り寄せて、淡く口づけをされ抱きしめられてしまうと何も言い返せなくて、うっとりと彼の素肌に抱きついてしまう。
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