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ep.3-1
しおりを挟む僕らの逃避行の蜜月は、僕の大学合格をきっかけに終わりを告げる。
日本に戻って、入学手続きや報告をしたいと思ったから。本当は、ずっと、あの狭いワンルームで彼と二人、甘い時間に溶け合っていたかった。多分、望めば彼はずっと叶えてくれただろう。けれど、忙しい彼をここにとどめていくわけにもいかない。寂しさにあの部屋でたくさんキスをして、手をつないで、一緒に部屋を出た。
彼が、僕に紹介したい人がいると言ったので、言われた通りに彼の隣を歩き、指を絡め、身体を寄せながら長い脚の彼の歩幅に合わせる。彼はずっと僕を見下ろしていて、頬を緩ませていた。おそらく歩幅も合わせるように、ゆったりと歩いていた。それがくすぐったくて、僕は、首元に巻いた彼のマフラーに顔をうずめた。す、と彼の甘い香りが漂って、手に汗をにじませてしまう。それを感知したのか、彼がさらに力を込めて手をつないでしまうから、顔に熱が集まる。
少し歩いて、バスに乗る。人が多いバスで、僕に支柱を掴むようにうながすと、彼は僕の背中にぴったりと覆いかぶさり、高い場所にある支柱を掴んでいた。車内は熱くて、マフラーをほどいて、腕にかける。彼がすぐそこにいて、とくとく、と心音が高鳴り、体温が上がる。ふう、と息をついて、熱を逃がそうとする。がたん、とバスのブレーキが乱暴にかかると、彼が身をかがめて、うなじにキスをした。ぱ、と顔をあげると、頬をうっすらと染めてゆるゆると微笑んでいた。
「ん?」
小首をかしげると、はら、と彼の長い前髪が揺れる。瞳が潤んでいて、僕だけを映している。他に人もたくさんいる。社会の中で、彼が僕だけを見つめ、甘えるような声を出している。
(本当に、僕たち…)
恋人同士なのだと、まじまじと感じて、じわ、と身体の奥底に熱がうまれる。何も言えずに、首を戻して、きゅう、と棒を掴む手に力を籠める。
(抱き着きたい…)
朝まで、彼の素肌に包まれて、たくさん愛を囁かれた。思い出すだけで、何かがひどくざわめく気がして、昼間の公共の場なのに、と目を固くつむると、そ、と力を込めていた指がふわりと温かくなる。瞼をあげると、見慣れた手のひらが僕を包んでいた。愛を伝えるように甘く、指の側面を撫でられると、ぞぞ、と背筋が震えて、肩があがってしまう。
「聖…」
かがんだ彼が、耳元で熱い吐息と共に、僕にだけ聞こえるように名前を囁く。神経を素手でなぞられるように、くすぐったくて、ぴくん、と身体が跳ねてしまう。耳朶の先に唇が当たる。思わず声が出てしまいそうになるのを飲み込む。もう、と睨みつけるが、眉は下がってしまうし、瞳がやけに潤んでしまって、全然意図が伝わらない。彼は、僕の瞳を見て、片眉をぴくり、と反応させる。
がたん、とまた車が跳ねると、背中を通って肩に彼の手が回って、身体をひねるように抱き寄せられた。胸元に頬が押し付けられて、厚手にウールコートの上からふわ、と甘い匂いがする。そこが大きく膨らみ、ゆっくりと空気が抜けていく音がする。その奥からは、ど、ど、と早い鼓動が聞こえる。
「外でそんな可愛い顔するな…」
ちら、と目線を上げると、彼は窓の外を見つめながら苦し気につぶやいた。きゅう、と喉が絞られて、胸が苦しくなる。泣いてしまいたくなるようで、彼の胸元に額をこすりつける。
(もう、あの部屋に戻りたくてたまらない…)
心の声が聞こえたかのように、彼が僕を強く抱き寄せた。もうバスの振動なんか、何も気にならなかった。
ビルの入口を入り、狭い階段を上がっていく。コンクリートがむき出しの寒い壁に包まれる先には、白いドアがある。そこを、彼がためらいなく開く。観葉植物がいくもあって、小さなワークスペースがある。小さいけれど、白を基調とした部屋は広く感じられ、観葉植物が居心地の良さを高める。ガラスの壁があって、その扉を彼がノックをすると、つかつか、とヒールの音がして彼の目の前に誰かが立った。
「貴様、何してくれとんねん」
芯のある女性の声だが、どこか片言で不思議なイントネーションの方言がついていた。
「キャシー、悪かった」
「一週間も連絡せずに、貴様は本当の九州男児だすか?」
九州男児?
クエスチョンに頭がいっぱいの中、彼の広い背中越しに顔を覗かせる。くせっけのロングヘア―が人形のようで、瞳は大きく黒目がちだった。そばかすがチャーミングさを掻き立てており、それなのにすらっと手足が長く、身長はさほど彼と変わらないようだった。
「それは本当に悪かった。けど、許してくれ。どうしても俺には世界で一番優先したい存在がいたんだ」
そういって彼は、腕をあげて僕に優しい視線を送った。腕をくぐるようにして前にでると、背中にそ、と手のひらが置かれた。それだけで、とく、と心臓が高鳴ってしまう。どうすればいいのか迷っていると、眉を寄せて眦を染めて甘く微笑んだ彼が、僕の頬にキスをした。
「俺の妻だ」
「えっ」
僕は目を見開いて彼を見上げると、こんなに機嫌よく誰かに笑顔で話をしている彼を初めて見てさらに驚く。彼の視線に沿って、目の前の女性を見やると、目を丸くして僕を見つめていた。
「あ、えっ、と…、恋人、です?」
小首をかしげながら、そう訂正する。「oh my god…」と彼女がつぶやいたと思ったら、彼が頬に唇をあてる。振り向くと、今度は眉を寄せて機嫌悪そうに僕を、じと、と見下ろしていた。
「だ、って、…まだ、でしょ?」
上目で、ちら、と彼を見たり、視線を下げたりしながら、もじもじと答えると、指先まで真っ赤に染まっているかのように熱い。今度は、こめかみの辺りに淡く吸い付かれる。くす、と耳元で微笑む彼を感じた。そして、横からぎゅ、と抱き寄せられて、頬を撫でられる。
「おい」
低い声が聞こえて、僕も、は、と意識を取り戻す。ぱ、と振り向くと彼女は冷めた目でこちらを見て、肩をすくめて、やれやれと首を横に振った。そして、僕の目の前に来ると、す、と手を差し伸べてくれた。
「はじめまして、私はキャサリンです。ここの会社の代表を務めています」
よろしくね、ときれいな日本語と共に、にこり、と微笑まれる。厚い唇が妙にセクシーで、愛らしい瞳と対照的ですごく魅力的な女性だとわかった。思わず、顔を染めながら、手を握り返した。
「こちらこそはじめまして。九条聖です。よろしくお願いします」
大きくて柔らかい彼女の手が優しくて、頬が勝手に緩む。
僕の瞳を、じ、と見つめた彼女は、僕の両手を握りしめて、ずいと顔を寄せた。
「ああ、なんて愛らしいの…天使がこの世に舞い降りたみたい…いや、女神かしら。生きてきて、こんな愛おしい人に出会ったことがないわ…」
「え、あ、あの…」
青い瞳は、つやつやとして、頬を染めた彼女はうっとりとしているようだった。ふわ、と華やかな花の香りがして、彼の匂いに似ていると眉を上げた。
「ねえ、この世には、一妻多夫制を持つ民族が多くいるのよ?」
「は、はあ…」
熱のこもった瞳で彼女は、だから…と続けようとしたが、ぬ、と横から手が差し込まれて、簡単に手はほどかれて、彼の腕の中に僕は捕らわれてしまった。地を這うように低い声で、彼が威圧のフェロモンを出しながら、英語で鋭く、ストップと言った。そのあとに、何かを流暢な英語で言っていたが、早口すぎて僕にはうっすらとしか聞き取れなかった。人のワイフに何してるんだとか、僕が言えないようなスラング英語が…。そんな鋭利な言葉を使う彼を初めて見る気がして、顔を覗きたいが、強く抱きしめられてしまって身動きがとれなかった。
「はあ、余裕のない男。ああたみたいな男、日本語でなんていうんだっけ…えっと…、ださい? きもい? 乙?」
途中濁りながらも、彼女は呆れたように溜め息混じりで言葉を続けた。よく知っているな、と思わず関心したが、その後すぐに、いやいや、と首を横に振った。彼はそんなことない。
「どこで覚えたんだそんな言葉。お前こそはしたないぞ」
人の嫁を口説くなんて。と日本語で彼らはやりとりを始めた。
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