初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第84話

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 廊下を抜けると、大きな一枚の窓ガラスからは、ニューヨークの街並みが一望できた。色とりどりのネオンの小さな光の粒が集まって、ところどころで瞬いていた。遠くで陽が暮れていて、空はオレンジから紫へのグラデ―ションで、夜と昼の狭間がすべて見えた。

「すごい…」
「きれいでしょ?」

 僕の手を握ったままに柊は、隣からにこりと笑って、僕を見ていた。優しく指を絡ませた柊の指に視線を落す前に、引っ張られて、ダイニングのソファーに座るように案内される。すぐ目の前にある広々としたキッチンに柊は立ち、かちゃかちゃと準備を始めた。鼻歌交じりに楽しそうに準備しているため、甘えることにしようと、背もたれに身体を預けると柔らかいそれに吸い込まれるようだった。ソファーからも夜景は楽しめるような配置になっていた。

「ここ、柊の部屋?」

 銀のトレーにティーセットを乗せた柊は、僕の脇で膝をついてローテーブルで紅茶を煎れる。

「いいや、たまたま出張でホテルの部屋を借りただけ」

 出張、と聞いて、変わらずせわしなく働いているのかと思う。柊の部屋で、軟禁状態で過ごしていた時も、合間をぬって、オンラインで英語を使って会議をする柊を思い出す。
 それと同時に、柊と別れてから、柊が行っていたビジネスの話も頭をよぎった。違法薬物を売買することによって、資金を得ているという話だった。時には、人身売買も行うような、違法の仕事だと。実際に、その薬を自分も飲まされていた事実が頭をよぎる。差し出された紅茶を素直に手に取ることができなかった。そうやって身構えている僕に気づいたのか、柊は、寂しそうに笑って、何も言わなかった。

「このホテル、この辺だと有名なとこなんだよ」

 明らかにわざと、柊は明るい表情と声を出して、僕に話しかけた。だから、僕もそれに乗っかることにする。

(少し、話をしたら帰るんだ…)

 だから、今だけは、ただの昔の友人としての時間を過ごせればいい。もう会うこともないのだろうから。それには、一抹の寂しさも感じるが、それでいいと思う。
 僕と柊は、一緒にいたらいけない。
 お互い、ダメになっていってしまうから。
 なぜなら、僕は、柊を好きにはなれないから。

「なんてホテル?」

 柊は、はす向かいのソファーに腰掛け、優雅に長い脚を組み、紅茶を一口すすった。それから、ホテル名を答えると、僕は驚いた。

「僕の泊まるホテルと一緒だ…」

 変な入口から入ってきたからわからなかった。確かに外から中に入った時に見た絨毯張りの廊下の感じが、見たことがあると思ったのだけれど、本当に同じらしい。窓から、道路を挟んで向かいにあるジュエリーショップが、同じホテルであることを顕著にさせた。

「最上階の部屋だから雰囲気が違うかもね…、そんなことよりさっ!」

 カップをソーサーに戻した柊は、前のめりに向き直った。

「ひーちゃんは今、何してるの?」

 気になる!と目を輝かせて聞いてくる柊が、幼い子どものようで、つい気が緩んでしまう。

「そんなおもしろいものじゃないよ?」
「そんなことない! ひーちゃんのことならなんだって気になる!」

 教えて!と聞かれるので、本当にそんな面白いことはないのだけれど…と思いながらも、口を開いた。

「今日、大学入試を受けてきた」
「え!? 今日?! 大学!?」

 たくさんのはてなが飛び交って、声が一段と高くなる柊のころころと変わる表情に、つい笑ってしまった。

「すごいねぇ、ひーちゃん、大学受験したのか。えらいな~」

 すごいすごい、と頬を染めて、柊はきらめく瞳で、たくさん褒めてくれた。耳障りの良い言葉ばかりが飛んできて、まっすぐな柊の気持ちに、飢えた心が満たされていくのを感じる。
 だから、僕はぽつりぽつりと話を続けた。それに向けて、一年勉強をしたこと。その最中、興味のある司法の勉強も始めたこと。それから、アルバイトもしていること。

「さすがひーちゃんだね、なんだってできちゃうんだよ。すごい、本当にすごいよ」

 そんなことは決してない。
 柊の方が、何倍も努力をして今のポジションを確立したのだろう。それなのに、手放しで僕をひたすらにすごいと褒めてくれた。

「ひーちゃん、本当によく頑張ったんだね」

 優しい笑みのまま、柊にそうつぶやかれると、目の裏がつん、と痛んだ。

(僕、頑張ったんだ…本当に)

 それを褒めてもらえて、心がほどけていくように嬉しい。
 何のために頑張ったのか。
 もちろん自分のため。自分のためなのだけれど…。

(本当に褒めてもらいたい人には、褒めてもらえないんだ)

 自分が自分を認めてあげるためには、やっぱり彼に認めてもらいたかった。
 彼の隣に立てる自分になりたかった。だから、今日までがむしゃらに頑張ってきた。それなのに。
 膝の上で握りしめていた、手の甲にぽた、ぽた、と水滴が落ちた。

(一番じゃなくてもいいって、思い込んでただけなんだ)

 彼の隣にいるのは、自分じゃないと、嫌だ。
 そう思ってしまう浅ましい自分は、やっぱり変わらない。

(僕だけ、僕だけを見てよ…)

 目の前にいない彼の名前を心の中で唱えれば唱えるほど、涙が止まらなくて、嗚咽さえ漏れる。

「ひーちゃん」

 膝にうずくまるように泣きじゃくっていると、ふわり、と甘い匂いをさせて温かい何かに包まれる。すぐに柊だと気づいて、離れようと身じろぎするが柊はさらにきつく、僕を抱きしめた。

「柊、ゃ…っ」
「泣いている好きな人をほっとけるほど、僕は腐ってないよ」

 厚い胸板に抱きしめられると、たくましい体躯から、とくんとくん、と力強く少し早い心音が聞こえる。

「ひーちゃん、こんなに頑張っててすごい。尊敬する。それに…」

 ますます好きになった。
 柊は、僕の耳に吹き込むように囁いた。熱い吐息が耳朶をなぞって、ぞわ、と背中がむず痒くなる。
 顔を上げると、柊は真剣な顔つきで僕を見つめていた。名前をつぶやこうとすると、するり、と簡単に腕はほどけて、床に膝をついたまま、僕を見上げて微笑んだ。

「紅茶、冷めちゃったね」

 煎れなおそっか。そう立ち上がった柊の裾を掴む。

「いや、大丈夫…。そろそろお暇するから」

 柊は、僕を見下ろして、寂しそうに眉をよせると、小さく微笑んだ。目の前には、優美なティーカップに手つかずの紅茶が入っていた。さすがに申し訳なくて、一口つける。ふわりと広がる茶葉の柔らかい香りには身に覚えがあった。

(最近、飲んだ…)

「僕のお気に入りの紅茶なんだ」

 イギリスの紅茶はおいしいんだ。と微笑む柊に、なぜか背中が冷える。なんでだろう。自分のことなのに、わからない。
 もう一口飲むと、香りのあとに、とろりとした蜂蜜のような甘みとグレープフルーツのような苦味の混ざった後味が残った。

(この紅茶の香り…彼が、送ってきてくれたものと、同じだ…)

 後味の違いはあれど、この香りは間違いなく、最近、匿名で彼が送ってきた茶葉そのものだった。
 その時、パンツのポケットが振動した気がした。カップを戻して、ポケットから携帯を取り出すと、やはり振動していた。一定にずっと鳴っていて、ディスプレイをのぞくと、どき、と心臓が跳ねて、目を見開いた。彼の名前が映し出されていた。

(ちゃんと、伝えなきゃ)

 なんで怒ってるのかも。
 僕の気持ちも。
 僕も怒ってることを。
 どれだけ、僕が、あなたを好きかを。

「柊、ごめん。やっぱり…」

 勢いよく振り向きざまに立ち上がると、くら、と浮遊感に見舞われて、身体が傾いた。急いで足を出して、踏ん張るも、なんだか視点があわずに、ぼやける。何度か目をしばたたかせるが、今度は瞼が重くなってくる。

「ひーちゃん」

 名前を呼ばれて、その方向に顔をあげると、太い腕に抱きしめられる。鼻腔に、どろ、と甘い匂いが流れ込んで、神経を焦がす。たくましい柊の身体に包まれると、何もできなくなってしまう。

「今度は、絶対に離さないよ」

(どういうこと…?)

 そう聞きたいのに、言葉が出ない。唇はかすかに震えて、小さく空いているだけだった。柊の表情も、水で滲んだように見えなくて、ただ、そっ、と優しく頬を撫でられて、吐息が唇を撫でる。

「ずっと、一緒にいよう。愛してるよ、ひーちゃん」

 甘く唇を柔らかく湿った何かに吸われると、僕は、がくり、と全身の力が抜けて意識も遠くなっていった。ごとん、と鈍い音をして、携帯が僕の手から、床へ滑り落ちた。相変わらず振動は続けていた。




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