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第74話
しおりを挟む彼と毎日会える日が、また始まった。
しかし、今までと大きく異なったことがある。それは、薬の副作用だった。母が貰ってきてくれた吐き気止めは、最初の頃はよく効いていた。次第に効き目が薄れてきたような気がして、最近では、彼が来るであろう時間の直前にもう一錠服用するようになった。吐き気への恐怖からか、食欲もさらに減退していった。
「食べないのか?」
時間があるときは、僕の部屋で勉強を教えてくれた。僕はテキストを解いたり、読書をしたりする。その傍らで彼は、パソコンを開いて大学の課題や仕事をこなしていた。
今日の手土産は、マカロンだった。以前、彼が持ってきてくれたもので、さくさくで軽い生地と甘さが控え目で優しい味のマカロンで、僕の大好物のひとつになった。彼は、こうして僕の好きなものを見つけてくるのが、昔と変わらずにすごく上手だった。見た目も、派手派手しい色味ではなく、自然本来の淡い色味で風味も豊かで大好きだった。
「ちょっと、お昼ごはんを食べすぎちゃって」
えへへ、と胃を擦りながら笑った。
彼が持ってきてくれたものはすぐに食べたいし、一緒においしいねと笑い合いたい。けれど、その勇気が今の僕にはなかった。もし口にして、戻してしまったら。そう思うと、後で食べるか、いつもお世話になっている執事たちにおすそわけしてしまう方が僕も嬉しい。
彼は、ブルーライトカット用だという眼鏡をたたみ、机に置いた。僕に向き合うように座り直した彼は、優しく僕の頬を手のひらで包んだ。
「痩せすぎだ…やっぱり、体調が戻ってないのか?」
クマがあるだろうそこを彼の指先が羽で撫でるように軽くなぞる。ぎくり、と心の中で緊張しながらも、それを見破られないように笑顔をつくった。
「体調悪くて勉強の進みが悪かったから、ちょっと寝るのが遅くなってるだけだよ」
大丈夫、と言うが、余計に彼は眉間に皺を寄せて、僕を訝しんでいるようだった。
「あっ! それより、ここ。ここの答えがわからなくて、さくに聞きたかったんだ」
テキストを指差して、彼に擦り寄るように近づくと、彼は何か言いたげだったが、言葉を飲んで、僕のテキストを覗き込んだ。
「ここは、この公式を…」
きれいな爪が文字をなぞる。こうやって、僕の顔にも触れているのだろうか。と、ついぼんやりと別のことを考えてしまう。そして、彼がちゃんと意識を反らしてくれたことに、ほ、と胸を撫でおろす。
未だに薬のことは話していない。以前、うっすらと聞かれたが、変わらないよ、と答えてしまった。正直に言えば良かったのだろうけれど、今の状態の僕を、面倒くさいと彼に思われたくなくて、怖くて言い出せなかった。
肩が触れて、ふわりと甘くて温かい、彼の匂いがする。ぽう、と身体が温かくなって、視線を彼に映してしまう。筋の通った高い鼻梁、尖った顎を持つ輪郭は精悍をしている。長い睫毛がすっきりとした頬に影を作っており、その下に隠れている宝石のように輝く瞳を僕は知っている。桃色で薄い唇が、実は情熱的に僕を翻弄することを知っている。見た目以上に柔らかくて、熱いそこを見つめてしまうと、自然と自分の唇がざわつくので、そ、と下唇を噛んでしまう。
勉学も完璧であり、何度もわからないところを教えてもらっているが、どれも的確ですぐにわかる。学生の頃の体育祭ではいつもゴールテープを切っていた。周りの生徒も、社交界に行けば大人でも子どもでも、彼に溜め息をつき、尊敬の念で見つめられていた。
とくん、とくん、と心音が身体中に響き渡る。
(僕だけの、アルファにしたい)
睫毛を降ろした彼は、長い溜め息をつく。それに、は、と意識を戻し、テキストに向き直る前に、唇をしっとりと吸い付かれた。ぱちり、と大きく瞬きをすると、甘い吐息を唇にかけられる。
「ちゃんと聞いてた?」
甘い笑みを見せる彼に心臓が高鳴って、頭が溶けていくようだった。テキストに置いていた手を、長い指が撫でてくると、背中がぞわ、とざわめく。その指を逃がさないように握りしめる。
「ううん…だから、もう一回…」
彼の形の良い爪を撫でながら、顔を近づけると、彼はくすり、と笑って口づけをくれる。
「聖が、こうやって甘えてくるの、すごく嬉しい」
眦を下げて、頬をほんのりと赤らめる彼は、普段よりも幼く見える顔で柔らかい声で囁いた。それが、僕だけにしか見せない笑顔なら、どんなに嬉しいだろうか。
「俺には聖だけだから、何でも言え」
耳朶をすり、と指で揉まれると、心地よさに肩をすくめる。顔がだらしなく緩んだまま、僕はうなずいた。本当の気持ちを言えずに。
彼が帰った後に、部屋に残ったマカロンを一口食べてみた。けれど、バターの匂いを感じた瞬間に、胃がひくり、と痙攣したのがわかった途端、猛烈な吐き気が襲ってきて、すぐにトイレに駆け込み、戻してしまった。原因は吐き出したのに、それからしばらく便器に顔を突っ込んで、身体の震えが収まるまで耐える。
彼と一緒にいると、頭が回らなくなることが多くなった。隣に彼がいるだけで嬉しくてたまらなくて、他に何も考えたくなくなる。
それと同じだけ、僕だけを見てほしいという独占欲が強まる。けれど、嫌われたくなくて、それを理性で抑え込む。本能のままに彼に言葉をぶつけたい衝動と、ずっと一緒にいるために我慢する冷静な自分が常に混在している。
そのせいなのか、彼がいなくなると、猛烈に身体に副作用が出やすくなる。彼が隣にいる間は、気を張っているからなのか、他の薬を服用しているからなのか、症状が出ることは滅多にない。
これもまた、身体がオメガに近づいているからなのだろうか。だから、アルファへの執着が強まっているのだろうか。そして、彼がいなくなると、猛烈な孤独感と虚無感とに襲われる。時には、涙が止まらなくて、電話をかけてしまおうか悩んで、携帯を抱きしめたまま眠りにつく日もあった。
明らかに彼への依存が強まっている。けれど、それを埋める方法がわからなかった。
毎日、忙しい中、会いに来てくれる彼の負担にはなりたくなかった。
明日、山野井先生の検診日となっていた。相変わらずつらい副作用が、和らぐのか。身体がちゃんとオメガ化に進んでいるのか。期待と不安が僕を苛む。しかし、それも気にしていると、吐き気と共に身体から搾り出されていく。
彼には検診日を伝えていなかったが、なぜか知っていて、明日の時間を確認された。けれど、こんな状態であることを知られたくなくて、一人で行くと言い張った。忙しいのにこれ以上時間を作ってもらえないことも伝えた。もちろん彼は嫌がったけれど、代わりに僕の好きなものを買ってきてもらうように促し、キスをして別れた。
そ、と、うずく下腹部に手を当てる。外見からは何もわからない。柔らかかったそこが、体重の減少と共に、薄くなったことしか僕にはわからない。
本当に、僕はオメガになれるのだろうか。
そう思うと、今の僕は一体何なのかわからなくて、自分がとんでもない化け物のような気もして、さらに胃が締め付けられた。
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