初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第63話

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 翌日、彼は昼過ぎに僕を迎えに来た。綿貫の車で、二人でいつも通っている山野井先生の元へと向かった。
 待合室でいる間は、やっぱり落ち着かなくて、かすかに震える身体を隠れるように抱きしめた。隣でそっと、背中を撫でて微笑みかけてくる彼がいなければ、逃げ出していただろう。

「聖、大丈夫だから」

 微笑む彼が、何度もそう囁いて慰めてくれた。
 どのような結果であっても、彼は僕の隣にいると何度も囁いてくれた。
 その言葉に、何度もうなずいて、不安な度に彼を見上げて微笑んで慰めてもらった。



 視界が揺れるほど心音が身体を鳴り響く。
 いつもの診察室に、寄り添いながら並んで入ってくる僕たちを見て、山野井先生は少し目を見張ってから、嬉しそうに微笑んだ。黒縁の眼鏡の奥にあるいつも穏やかな瞳が、今日は一層優しい色をしていた。

「今日は、どうなさいましたか?」

 僕たちに向き合って、丁寧に話しかけてくれる山野井先生に、答える前に、今一度、彼を見上げると、柔らかな笑みでうなずいて僕の背中を押してくれた。だから、それに頷いて、ひとつ深呼吸をしてから、僕は先生に告げる。

「…僕、妊娠、してると思うんですが…」

 先生は、やや瞠目しながらも僕の言葉を聞いていた。

「それで、僕…僕、産みたいんです…!」

 乾いた口の中で潤すように唾液を飲み込むように喉を鳴らす。先生は、姿勢を正して、頷いた。

「わかりました…。一度、検査をしてみましょう」





 検査薬も行い、エコーも当ててみて、すべてを終えた後に、僕たちはまた同じ席について、山野井先生の目の前にいた。二人で息を飲んで、先生の話を待つ。

「手、つないでてもいい…?」

 診察室に入る前に、高い位置にある彼の顔を見上げながらそう乞うと、熱い手のひらが、ぎゅう、と僕の小さな手を握りしめてくれた。それだけで心が軽くなる気がした。その手が、今一度強く握られる。彼も、緊張しているのだろうか。表情を確かめたくて目線を動かそうとしたときに、先生の椅子が回る音がして、急いで顔をそちらに向けた。

「結論から言います…」

 眼鏡を反射させた先生の表情は読めない。ごく、とどちらともつかぬ唾を飲む音がして、先生の沈黙が嫌に長く感じられた。

「九条さんは…」

 ここまで来て、やっぱり聞きたくない。と思ってしまう。しかし、逃げることは許されない。
 瞼をきつく閉じて、大きな身体の彼に身を寄せる。肩を抱き寄せられて、ふわりと彼の甘い匂いがする。

「妊娠なさってません」

 ああ…。と思ったが、その言葉をじわじわ理解してくると、驚きで声が漏れてしまう。

「ええ?!」

 でも、確かに、吐き気も体調不良もずっとあった。最近はめっきりなくなったけれど。
 それに、肉付きも良くなった。肉付きが良くなったといっても、今まではけていたパンツが、ヒップが苦しくなってきたなど特定の部位だけだが。さらに、たまに、胸が張っているような違和感がある時がある。
 嘘ではないか、と咄嗟に思ってしまう。しかし、山野井先生は真剣な眼差しで僕に、今日の検査結果やエコーを見せて説明してくれた。

「九条さんの身体は妊娠していません。今はまだベータ寄りの身体なので、妊娠することはあり得ません」

 いつも穏やかな口調の先生が珍しくはっきりと断言した。それだけ、変わらぬ事実なのだということが伝わってくる。

(なんだ…)

 ゆるゆると力が抜けて、身体がどれだけ固まっていたのかがわかった。息もつまっていたらしく、身体がようやく酸素にありつけて、とくとくと血液を循環させているのさえわかる。そのまま、温かい彼の身体にもたれていると、彼も同じようで、固まっていた身体が緩んでいくのが隣でわかった。見上げると、見たことない、唖然とした彼の人間らしい表情に驚く。彼も僕に視線を落すと、同じように目を見張った。

「僕…、妊娠してないって…」

 安堵なのか、寂しさなのか。今まで抱えてきたものからの解放によるものなのか。思わず、ぽろり、と涙が溢れた。そして、頬が緩んだ。
 さみしい。けど、嬉しいような。残念。だけど、良かったような。
 すん、と鼻をすすると、彼が僕の頬を撫でて涙を拭ってくれた。その指先に誘われるように視線をあげると、彼は柔らかく微笑んで僕を見つめていた。

「楽しみが、お預けになったな」

 なあ、ダーリン。
 そう言って、彼は僕の涙を拭って笑いながら、優しく囁いた。
 じんわりと身体に沁み渡るように理解が進むと、頬が熱くなっていく。その反応に、彼は笑みを深めて、先生の方に向き直った。それを見て、そうだ先生の前だったんだ、と姿勢を正そうとするが、彼が肩を抱いたまま離してくれないため、寄りかかった態勢のまま向き直るしかなかった。
 先生も嬉しそうに微笑んだまま、話を続けた。

「体調不良や腹部の違和感などは、身体がオメガへと変わりつつあることの象徴です」

 ベータだった数値からぐっとオメガに寄っています。と初診の時のものと見比べた。確かに、よくわからない記号の数値が倍近く変動があった。

「今の状態だと、内科的治療によって、ベータにもオメガにも成り得ますが、どうしますか?」

 出来るだけ穏やかに、山野井先生は丁寧に僕に問いかけた。

「僕、は…」

 ふ、と身体が勝手に彼を見上げていた。彼は、僕に気づいて視線を寄越してくれる。その表情は、眉を寄せて、いくらか思案しているものだった。
 瞳が、僕のことを心配しているのを訴えてくる。それが、よくわかった。
 だから、僕の口から簡単に答えが出た。

「オメガに、なりたいです…」
「聖…」

 つないでいた手に、力がこもった。その異変に彼を見上げると、何か言いたげに口を引き結んでいた。微笑みかけてから、僕は先生に視線をやって、話を続けた。

「ベータの方が、生活は楽なのはわかっています…だけど、僕には…」

 今度は、僕が彼の指を握り返す。

「僕を待ってくれている、アルファがいるから…」

 治療を始めてください。
 そうお願いすると、隣で彼が先生に向かって、深々と頭を下げた。


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