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第61話
しおりを挟む「怖い…」
するり、と口から零れたのは、そんな言葉だった。はら、と頬を大きな雫が滑る。ぱきん、と焚火が大きく落ちる音が辺りに響いた。目の前の彼が、ごく、と唾を飲んだ音がした。
「さくを信じたい…でも、もう…」
傷つくのが、怖い…。
もう、次はない気がした。
次、また何かの掛け違いか、彼に裏切られるかしたら、もう僕は、自分を保っていられる自信がなかった。
今までも、ぎりぎりのところで何度も踏みとどまってきた。そこには、柊がいてくれたからだった。それは、間違いのない事実だった。柊が今、僕にとって、支配される対象で畏怖の対象だとしても、その過去は事実であり、曲げることはできないものだった。
そんなに都合よく、いつでも、僕を支えてくれる人がいるなんて限りなくゼロに等しい。
だから、僕は、自信がなかった。
彼を信じて、また裏切られてしまった時の恐怖が、あまりにも強かった。
「もう二度と、聖を裏切るわけない! だから…っ」
彼は、目の前ではっきりと力強くそう言い放った。けれど、それを素直にうなずけるほど、僕は、僕に自信がなかった。
なんで、こんなに人よりも抜きんでているモノのない僕を、完璧で誰からも好かれる彼が、好きでいるのかがわからなかった。
「僕は…僕には…、さくから好かれて、返せるようなものは、何もないから…」
自分の手を握りしめて、俯き加減でゆったりとそう答えた。自分で驚くほど穏やかな口調で、はっきりと言えた。
「俺だって…」
穏やかな焚火の音の中に、ゆったりと溶け込むように、彼の言葉が届く。ふと、目線をあげると、切なく顔に皺を寄せる彼がいた。
「聖から好かれたとしても、返せるものなんて、何も持ち合わせてない」
そんなことない。
僕は、さくと一緒にいる時間、たくさんのしあわせをもらったから。
思わず、前のめりになってそう言葉にしようとした。息を吸った僕に、彼は小さく微笑んでから首を横に振った。
「俺は、聖を傷つけてばかりだ…愛する人が、自分自身を愛せていないことがこんなに悲しいことだなんて、気づかなかった」
すまない。
もう一度、彼は頭を深く下げた。
「違う、違うよ…っ、さくのせいじゃないから…っ」
ソファから転げ落ちるように床に膝をついて、彼の肩にそっと触れた。顔をあげて。そう願いながら、やんわりと力をこめる。ゆっくりと彼が顔をあげる。温かなオレンジ色の灯に照らされて、すぐそこに彼の吐息を感じた。
彼が、すぐ、そこにいる。
「聖…」
赤い眦が、また潤む。しっとりとした吐息が、僕をかすめて、端正な顔が目の前にある。揺れるバリトンの声は、くすぐるように耳を抜けていく。
力なく彼の肩に置いた手は、彼の腕を伝って下りていった。かさついた手のひらにたどりつくと、ためらいながらも彼が僕の指先を包んだ。深い深い、青い瞳は、あの夜の、穏やかで僕らの生命の根源である海のように透き通り、吸い込まれるような色だった。
その瞳には僕がいて。僕しかいなくて。
はら、と僕の頬を静かに涙が滑っていった。
(僕たち、同じなんだ…)
好きなのに、お互い自分自身を、傷つけあっている。
好きだから、相手に嫌われないように、現実に目を向けないで、逃げ続けた。
嫌いだとはっきりと伝えられる前に、逃げてたんだ。
「さく…」
震える唇でなんとか彼の名前をつぶやくと、彼は、柔らかく微笑んで、一筋、涙をこぼした。灯りを集めて、ダイヤモンドのようにきらきらと繊細に光る涙だった。それに吸い寄せられるように、僕は、彼の首に腕を回した。濡れた頬がこすれると、むずむずと心地悪いはずなのに、お互いの熱が溶けあって、心地よかった。彼の冷えた身体に柔らかく抱き着くと、震える吐息が耳朶をかすめて、大切に何度も名前を囁かれた。
「聖、聖…っ、ごめん、ごめん…、聖…」
身体の奥から熱が湧いて、じりついて、嬉しくて、また涙が溢れて彼の肩を濡らす。この熱が彼に溶けていく。長い腕に抱き込まれると、骨の髄から溶けてしまいそうで、熱のように彼と一緒に溶けてしまえば良いのにと願ってしまう。
ふわりと香る、雪と、焚火と、彼の甘い匂い。優しくて、甘くて、僕をそわそわさせる、大好きな匂い。何度も、きつく抱き直して、彼の匂いで身体をいっぱいにさせる。
(やっと、こうできた…)
本当は、ずっとこうやって抱きしめられたかった。
彼の匂いで身体をいっぱいにしたかった。
大切に名前を囁いてほしかった。
「聖…好きだ…」
思いを伝えてほしかった。
(僕も…僕も、さくのことが、好き…)
それを、泣き虫の僕は、うなずくことしか出来なかった。
泣きすぎて、頭がぼんやりとして、瞼もとろけるように重い。広いソファに座り直して、彼の硬い肩にもたれかかって、爆ぜる焚火を見つめる。彼の太腿に置くように手を引かれ、それを何度もかさついた彼の指が大切そうに撫でる。その温かい時間を享受する。背もたれを伝って、彼の腕が背中を通り、僕の肩や腕を撫でる。時節、くすぐるように耳朶をなぞられて、小さく笑う。じんわりと身体の奥底から求めていた熱が湧き起こってきて、さらに心地よく、彼の呼吸音がゆったりと聞こえると、瞼を閉じてこの時間を慈しみたいと思う。
「俺…」
柔らかな時の中に溶かすように彼が小さく囁いた。それに、長い睫毛を持ち上げて、彼を見上げる。じ、と優しい眦が僕を見つめていた。
「聖と、色々なことをやり直したい」
また、聖に信じてもらえるように。
そう囁く彼の瞳には僕しか映っていない。そして、真摯な眼差しに見惚れていると、そんな僕を察してか、頬を緩ませて、もう一度僕の名前を囁く。
はっきりとしない頭のまま、僕は、首を横に小さく振った。すると、少しだけ彼の指先はぴくりと動いて、強く僕の指先を握りしめた。見上げると眉根を寄せて、困惑の色を隠せない彼がいて僕は、急いでまた首を振った。
「やり直さなくていい…」
「っ聖…!」
僕が言葉を告げると、彼は座り直して、前のめりに僕の手を握りしめてずり寄った。大柄の彼に見下ろされると迫力がある。だけど、今の僕は、それを怖いとは一切思わなかった。
「僕、さくと、色々なことを始めたい…」
一緒に笑ったり、喜んだり、悲しんだり、泣いたり。たくさんの時を重ねていきたい。
そこには、初めて知る彼の一面があるだろう。それを、分け合っていけたら、僕はきっと、すごく、嬉しい。その時々の彼が、僕を、好きだと思ってくれていたら、そんなにしあわせなことはないだろう。
少しずつもつれ合っていった糸をほどいて、僕たちはまた始める。
傷つけあった時間に切れかけた糸は、それでも、つながっていた。そして今、ようやく一本の糸に戻り、新しいものを結んでいくのだ。
悲しそうに揺れた瞳は、僕を静かに見つめており、深い海の色が美しくて、この瞳が大好きなのだと、思わず微笑んでしまう。そ、と指先で彼の眦を撫でる。すぐにその手は、一回り以上大きい彼の手に包まれてしまって、頬が摺り寄せられる。愛おしさがにじみ出るような彼の仕草に、やんわりと顔に熱がこもるのを感じた。
「ああ、始めよう…なんだって、聖の望むままに応えよう…」
約束する、と手のひらに囁いて、優しくキスをした。誓いのキスのように、手のひらに吸い付かれて、そこからじりじりと全身に熱が広がっていく。思わず、背中が小さく震えてしまった。嬉しくて、彼の胸元に倒れるように寄ると、大きな身体に包まれる。つむじにキスをされながら、好きだと囁かれて、その吐息が時節、首筋にかかって、どうも居心地が悪くなってしまう。それでも、ここを離れたくなくて、僕は彼のシャツを握りしめた。
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