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第57話
しおりを挟む衝動的に止められなくて、抱きついてしまった。
熱いシャワーに打たれながら、先ほどのことを思い出す。玄関の成り行きを、素知らぬ顔でそっと見守ってくれていた執事たちに気づいて、急いで彼にシャワーを勧めた。それなのに彼は、僕が濡れてしまったから、と言って、頑として譲らなかった。来客者をそのままに風呂に入ることなど出来ないと言ったが、聞いてもらえなかった。仕方なしに、僕は今一度風呂に入る。
(これから、どうなるんだろう…)
本当に、このまま彼と一緒にいていいのか。あんなに、ひどいことをしたのに。
自分が吐き捨てた言葉は二度と返ってこない。自分が言ったことなのに、思い出すだけでも胸が痛くて、彼に申し訳なくて、彼の傷ついた顔が忘れられなくて、罪悪感で息がつまってしまう。それでも、彼は今日、こうして現れてくれた。大雪で交通の便が絶たれた中、何時間もかけてこの吹雪の中、僕に会いに来てくれた。
それだけで、涙があふれてしまいそうだった。
(もう一度、向き合ってみよう…)
また、傷つくかもしれない。裏切られるかもしれない。
次、そんなことがあったら、立ち直れる自信がなかった。
それでも、彼に好きだと言われると、すべてがどうでもよくなってしまう。自分すらも。それでは、また同じことの繰り返しになってしまう。早まる鼓動を押さえるように、胸元に手を当てる。
ちゃんと、冷静に、彼の言葉を聞こう。
怖くて聞けなかったこと、聞こう。
その分、僕の思いも、伝えよう。
この決断が正しいのか、やっぱり自信はない。今にも、膝から崩れ落ちてしまいそうなくらい、不安になってしまう。それでも、進むしか、道はないんだと思う。彼が、決意して、今日、僕のもとに来てくれたように。
暖炉のあるリビングに出ると、炎の穏やかな灯りに照らされた彼がいた。高い鼻梁、薄い唇。来客用に用意されているシャツとパンツに着替えて、肩にタオルをかけており、毛先は渇いていた。切れ長で涼し気な目元は、暖炉の炎を見つめていた。
ふと視線が巡って、僕を捕らえる。彼はすぐに立ち上がって、僕に向き合った。眉を寄せて、何か思慮深く僕を見つめているが、彼が何を考えているのかはわからなかった。
しばらくそうしていると、執事が静かに、テーブルに僕用に温かいハーブティーを置いていった。それに視線を移して、ソファに近づく。
「お風呂、先にごめんね。さくが、お客さんなのに…」
なんだか気まずくて、刺さる視線に応えられるに、一人がけのソファーに腰掛ける。何も言葉も、動きもなく、ただ、僕の妙に早い心音だけが響く。ぱち、と焚火が小さく鳴り、視線を少しだけ動かした。すぐそこに足先があって、それに沿って顔をあげると、彼が佇んでいた。
「さ、く…」
赤い眦に吸い寄せられるように、柔らかなソファーから腰を離した。今にも泣きそうな子どものような彼の顔に驚いて手を伸ばそうとして、そうしていいものか悩んだ。今の、僕たちって、そういうことをしても良い関係なのだろうか、と。
さまよう指先を察知してか、彼はすがるように僕の瞳を見つめてから、膝をついた。それから、深々と頭を下げて、額を地面にこすりつけた。いきなりの出来事に僕は瞠目して固まってしまう。
「聖、すまなかった」
はっきりと力強い彼の声色でそう告げられて、急いで僕も膝をつく。
「や、やめてよっ、何のこと?」
触っていいものかわからずに、ただわたわたと空を手が何度も往復するだけだった。その間も彼は土下座の状態で僕に伝え続けた。
「今まで、聖が一番つらい時に、傍にいてやれなかった。優しくできなかった…」
あろうことか、聖を傷つけた…
そう続けた彼の言葉に、あの時々の痛みが呼び起こされるようだった。
幼い頃、何もわからない中、裏切者とだけ言われて、一人取り残された孤独なあの瞬間。
何の色も示さない瞳でただ冷酷に一瞥されるだけのあの瞬間。
力で支配されそうなったあの瞬間。
「後悔しても後悔しても、やりきれない…本当に、俺が未熟で浅はかで愚かだった…本当に申し訳ない」
「…そ、そんなこといいから、まずお風呂に…」
忘れたくても忘れられない、あの瞬間瞬間にまた心を痛めるのが嫌で、笑顔を張り付けて、膝を折って彼の肩に軽く触れた。しかし、彼は、置物のようにその姿勢を崩さず、むしろさらに額をこすりつけた。
「そんなことなんかじゃない! 絶対に許されないことだ…聖の気のすむようにしてほしい…」
「と…とりあえず、身体を温めてから…」
触れた身体は先ほどまでではないが、まだ冷たかった。それなのに、どうしても彼は頭をあげなかった。
「頼む…そうでないと、俺は…聖と、向き合えない…」
誰にも頭を下げない彼が。帝王と周囲に認められる彼が。誰もが羨望の眼差しで見上げる彼が。
必死になって僕なんかに土下座をして懇願していた。肩を震わせて、額を冷たい床にこすりつけていた。
鼻の奥が、つん、と痛んで、それを誤魔化すように急いで立ち上がった。そして、彼の形の良い頭を見下ろしながら、声が震えないように、深く呼吸をしてから、つぶやいた。
「じゃあ、教えて」
のろのろと彼は、ようやく頭を上げて、僕を見上げた。潤んだ瞳には、暖炉の温かな灯りがつやつやと映っていた。
「さくの、本当のこと…」
ずっと怖くて聞けなかった。
見ないふりをしていた。
だけど、本当に彼が、僕に誠意ある姿を見せてくれるなら、知りたいのは、彼の本当の気持ちだけだった。
僕はソファーに座り直した。彼にもソファーに座るよう声をかけたが、僕の足元に正座をしたまま話を始めた。
「俺、聖とずっと一緒に過ごしたかった」
はっきりと最初にそう告げられて、組んでいた指先に思わず力が入ってしまった。そんなこと言われるなんて、思わなかった。その話をする彼は、すごく優しく微笑んでいた。
「聖が喜んでくれたり笑ってくれたりするだけで、そのために俺は産まれてきたんだと思うくらい」
小学生の時、二人で色々な教室を秘密基地代わりにしたこと。宿題も、遊びも、ずっと一緒だった。
あの時の、埃っぽい図書室。薬品くさい科学室準備室。枯れ葉が気持ちいい裏庭。青葉の木陰の涼しい彼の庭。色々な瞬間が、頭をよぎる。いつだって、僕より大きな手に、手を包まれて、惜しみなく微笑みを与えられ、しあわせな時間ばかりを過ごさせてもらった。
「…だから、児童会に入れって言われた時、本当は、俺ばっかりがそう思っていて、聖は違うんだと思った」
「そんなわけない」
思わず声が出てしまってから、は、と我に返ると、彼は僕を見上げて、眉を下げながら笑っていた。
「今ならわかる。きっと、周りの誰かに言われたんだろ?」
ただ、あの時の俺には少し、難しかったんだ。そう寂しそうに彼は笑った。
「聖は優しい。だから、俺のことを思って背中を押してくれたんだろうって必死に信じようとした。だけど、俺の周りのやつらが、どんどん聖の話をし始めて…」
奥歯を噛み締めながら、視線を反らした彼は苦々しくつぶやく。
「今まで、聖は俺だけにしかわからないように、隠してきたつもりだったのに、目敏いやつらは、どんどん美しくなる聖に目をつけてきた…だから、そいつらの視線が聖に向かないように、さっさと児童会の仕事を終わらせて、聖をまた俺のものだって隠さないといけないって、とにかく焦ってた」
そんな噂をされていることも、彼がそんな不安を抱えていたことも、はじめて知った。思わず目を見開いていると、ちらりとこちらを見た彼は、必死すぎでかっこ悪いだろ、と自嘲した。思い返すと、やたら首元に吸い付かれる記憶があった。むずむずとする首筋を手のひらで抑える。
「だから、どうしても、夢木の能力は必要だった…」
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