初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第47話

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 身体に、さらなる異変が起き始めたのは、婚約披露会の二週間前ほどのことだった。その日は、衣装合わせだと言って、柊と外出をした日だった。
 久しぶりに家を出ると、風が涼しく、どこからか金木犀の良い匂いがしてきた。すっかり秋なのだ、とぼうとしていると、柊がくすりと笑った。そして、額にキスを落して、僕と瞳をあわせると、ゆったりと唇を合わせた。それから、僕の手を取って、自分の腕にかけさせて、エスコートしながら車に乗った。しばらく車を走らせると、山奥から景色がビルが並ぶ都会的なものに変わる。すっかり久しぶりの光景で、まるで自分がタイムスリップしてしまったかのように思えた。
 有名ホテルの前に車が停まると、柊にエスコートされながら赤いカーペットを踏みしめていく。係の人が、何人も僕らに頭を下げてくれる。それを柊は笑顔で答えて、支配人だという人に誘われながら、フィッティングルームに入った。
 スーツをすらりと着こなす女性が複数人いる場所で、柊はいくつかの衣装を眺めていた。

「ひーちゃんに似合うと思ったやつをもう選んであるんだ。ちょっと、着てみて?」

 こくりとうなずくと、柊は頬にキスをして、僕をカーテンの中に置いて出ていった。そこには、スーツ姿の女性が二人ほどいて、柊から受け取った衣装を一つずつ広げていった。柊がいない空間が久しぶりで、なんだか心がざわつく。胸の辺りをぎゅうと握りしめて、女性の説明を受ける。
 言われるがままに、下着だけの姿になると、てきぱきとドレスを着用させられる。背中のジッパーを上げて、腰回りに光沢感のある品の良いレースを回されて、首元に繊細なレース地のチョーカーのような首飾りをつけられる。急に首回りを妙に意識してしまい、仕事とは言え、他人にあの痕を見られてしまったのだろうか、と思うと、胃が縮むような不快感に気づいてしまう。

「まあ…」

 女性たちが感嘆の声を、つい上げてしまったと眉をあげてから、にっこりと綺麗な笑みを見せて、僕に話しかける。

「なんてお似合いなのかしら」
「さすが北条様ですね。奥様がよりおきれいになるものを、よくわかってらっしゃいますね」

 鏡に映った自分は、ドレスばかりが白く光っていて、血の気の薄い顔がはめこまれたような違和感しかなかった。たくさんのレースが張り付けられたウエディングドレスのようなドレス裾は美しく広がるが、足が長く見える。
 ぼんやりとその鏡を見つめていると、カーテンが勢いよく開けられて、白熱灯の光が差し込んできた。振り返ると柊が立っていて、口を開けて瞠目していた。

「…柊?」

 何も言わない柊に首をかしげて話しかけると、首元と同じ素材のレース地の手袋の上から、そっと撫でられて手を掬われる。そして、柊は膝をついて、潤んだエメラルドで僕を見つめた。

「こんなきれいな人をもらえるなんて、この世で一番のしあわせ者だ」

 僕の左手の薬指にそっと口付けをした。それを見て、周りのスタッフが、思わずうっとりと溜め息をついていた。僕は無感動にそれを見下ろしていて、目が合うと柊は、とろける笑みを惜しみなく見せていた。

 その後も、残っていた衣装をすべて着るのだが、着れば着るほど、気分が悪くなっていった。胃がしくしくとざわめいて、最後のフィッテングを終えるとトイレに駆け込んだ。便器の前にしゃがみこみ、出せるだけ胃の中のものを戻す。ここ最近、ただでさえ細かった食が、さらに細くなり、ほとんど固形物なんか出てこなかった。
 深呼吸をして、トイレットペーパーは口周りなどを拭いて、手洗い場に出る。顔色が悪く、頬もいくらかこけたように思える。こんな醜い自分でも、周りの人はきれいだと微笑んでいた。僕が、おかしいのだろうか。
 そんなこと、考えるだけ無駄だった。
 柊がいいなら、それでいい。
 僕に考える権利なんかないから。

 口をゆすいでから、柊のもとへ急ぐとミーティング内容が聞こえてくる。

「バストとヒップが少し苦しかったかもしれません」

 柊の前に座る、僕にフィッテングをしてくれた女性が丁寧に話していた。一糸乱れぬまとめ髪がきちんとしていてよく似合う女性だった。

「オメガの方だとよくあります。すぐに調整いたします」

 控え目な色のリップを塗った唇をきれいに引き上げて笑んでそう言ってから、席を離れた。
 久しぶりに袖を通したシャツの胸元と、ウエストはゆるいのに布が引っ張られるスラックスに違和感があったのは、そういうことだったのかと気づく。オメガは、子どもを産み育てやすい体型になると本で読んだことがあった。特に男性オメガにそうした変化は起こりやすいと。
 その瞬間、ぞわ、と虫が這うような寒気に襲われる。後頭部を殴られたかのような衝撃があり、こめかみを血液が通る度に強く痛む。
 僕の身体は、着々とオメガになっているのか。
 そう思えば思うほど、気味悪く、未だに絶望するほどの力が身体に残っていたのに驚く。
 そして、その番は、大きな身体の、赤毛の男なのだという現実にも。
 清潔なタオルで、口元を覆いながら、ふらふらと足を進めると、柊が僕に気づいて、すぐに駆けて抱き寄せてくれた。胸元から、甘い匂いがして、よりむかむかと内臓が収縮する。

「ひーちゃん? 大丈夫?」

 近くのソファに一緒に腰掛けてくれて、背中や肩を何度も擦ってもらう。熱い身体から体温を分けてもらい、手を握られると、強いアルファに守られている安心感に身体が弛緩していく。詰まっていた息をようやくつけた時に、柊がミネラルウォーターのキャップを開けたものを渡してくれる。一口飲むと、ひきつっていた内臓が少し落ち着いていく。

「ごめんね…もう、大丈夫…」

 柊の太腿に手をかけて、身体を起すが、柊は眉を寄せて僕を見つめていた。

「すぐに帰ろうね、ゆっくり休もう」

 そう言って柊は、僕の横抱きにして立ち上がり、悠々とホテル内を歩き始めた。最初は、降りようとしたが、柊がそれでいいならいい、と僕は瞼を降ろして、柊の体温を分けてもらうことにした。周りからの強い視線や感嘆の溜め息には気づけるほど、僕は余裕がなかった。





「これなら、食べられそう?」

 屋敷に着くと、すぐに寝室へ運んでくれて、パジャマに着替えさせられる。横になると、つらかった身体が柔らかなベッドに沈み、苦しさが軽減されるのを実感した。ひと息つくと、柊がすぐに皿と水を持ってきて、僕の前髪を撫でた。
 小さくうなずくと、フォークにフルーツを刺して僕の口元へ運んでくれる。
 最近、柑橘のフルーツばかり食べていた。それ以外、あまり食べたいと思えなかったからだ。今日も、柊が取り寄せてくれているピンクグレープフルーツを食べる。皮が向かれて、丁寧に筋や薄皮まで取ってある。房ごとにわけられており、さらにそれが横に半分にカットされていた。ぷちぷちと弾力のある砂じょうが心地よく、苦味と酸味のバランスの良いそれは、もやもやと嫌悪の残る身体をさっぱりと流してくれるように心地よい。
 こくりと飲み込むと、柊がようやくほっと息をついて微笑んだ。そして、もう一口、運んでくれる。自分で食べる、と言おうかとも思うが、柊がしたいなら、それでいい。おとなしく、運ばれた果肉を頬張る。しかし、それらも、いくつも食べられるわけではなかった。

「今日は、お薬やめとく?」

 ベッドサイドテーブルに皿を戻して、カップに水を汲んだ。そして、僕の背中に腕を入れて、ベッドに腰かける柊の身体にもたれながら座る形をとると、カップを渡した柊がそう尋ねた。
 毎晩、寝る前にホルモン剤を飲んでいた。その薬の副作用で体調が悪くなっているだろうことはお互いわかっており、柊は何度かそうやって気にかけて提案してくれた。
 しかし、僕は首を横に振った。

「ううん、大丈夫だから…」

 柊を見上げて、出来るだけ笑顔になるように努める。
 もう、番になってしまったのだから、今更やめたところで変わらない。
 だったら、僕の番が望む僕に早くなりたかった。
 柊は、眉を寄せて瞳を揺らしたが、僕のこめかみにキスをひとつして、真っ青なカプセルを僕の手のひらに転がした。あまりにも鮮やかな青で見る度にげんなりとした気分になる。そういう気持ちになる前に、口の中に放り込み、水で流してしまう。カプセルが身体の中を通っていくのがわかると、どんどん胃が主張をし始める。そうなるのがわかっているから、柊は、すぐにコップを預かって、僕をもとの状態に戻してくれた。

「ごめんね…僕が、もっと、自信があれば、ひーちゃんはこんなことには…」

 毎回、僕が具合を悪くしながらも薬を飲むと、柊は大粒の涙をにじませて謝る。今更謝ったって、どうしようもないのに。
 布団から手を出して、柊の頬を撫でる。

「大丈夫だよ…」

 かすれた頼りない声でつぶやくと、柊はぐしゃりと顔を歪ませて、涙を零す。そして、両手で僕の手に縋る。

「大好き、ひーちゃん、大好きだよ…」

 何度も手のひらにキスをする。柊の気持ちが落ち着いた頃に、僕の手は布団の中にそっと戻されて、優しく掛布団をかけてもらえる。唇を淡く吸われて、おやすみ、と囁かれるのだ。そして、僕は、今日も同じ夜を過ごす。



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