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第46話
しおりを挟む薄手のカーディガンを肩にかけて、僕はベッドに座って、ぼう、と窓の外を眺める。まぶしい日差しに目を細めていたはずなのに、気づけばもう辺りは夕暮れに染まり、夜の虫音が聞こえていた。
「ただいま」
がちゃりとドアが開くと、柊がスーツ姿で入ってくる。それに振り返って、おかえり、と返すと、柊は長い脚を大股にしてすぐに僕に抱き着く。それに応えるように、背中に手を回して、柊のバニラの香りに包まれる。
「お仕事、お疲れ様」
そう言ってワックスで整えられた頭を撫でると、柊は高い鼻梁を首筋につけて深呼吸をする。その呼吸がくすぐったくて、肩がすくむと、柊はくすくすと楽しそうに笑う。
「かわいい奥さんのために頑張らないとね」
頬を染めてゆるやかに微笑む甘い顔立ちを見上げると、唇にちゅ、と軽く吸い付かれた。それからもう一度僕を抱きしめて、深呼吸をする。
「ひーちゃん、大好き…かわいい、大好き」
何度も愛を囁いて、柊はもう一度キスをして、身体を離して僕の腕をなぞって、手を握る。それに合わせて、立ち上がるよう重い身体に力をいれる。よろめき、熱い身体に抱き留められながら立ち上がる。見上げると、緩み切った表情の柊がエメラルドの瞳に僕だけを映していた。
柊によく似合うレンガ色のネクタイの結び目に指を指し入れてほどく。その間にも、腰を抱き寄せられて、つむじやこめかみに何度もキスをされる。
「かわいい、大好き、僕の奥さん」
熱い囁きなのに、僕の身体は全く体温を上げない。義務的にネクタイを抜き取って、さらにスーツの上着を預かると、するりと柊の腕はほどける。クローゼットを開けて、木で出来た上質なハンガーにそれらを通す。そんな僕の姿を、ベッドに腰掛け、優雅に足を組んだ柊は、にこにこと眺めている。クローゼットを締めて振り返ると、柊に、きて、と小さくつぶやかれて、近づく。降ろしていた手に大きな手のひらが合わされて、指が絡み合う。腰を抱き寄せられて、柊が上目遣いで僕を見つめる。
「かわいい僕だけの奥さん」
大好きだよ、と言って、左手の薬指にうっとりと口づけをする。そこには、先日、ベッドの上で柊にはめられたリングが輝かしく光っていた。エンゲージリングだと言う。
「ひーちゃんのお披露目会は、まだ体調が安定しないから、先延ばしにしたよ」
来月あたりかなあ、と僕の胸元に顔をうずめて抱き着く。その頭を撫でて僕も抱き寄せた。
「九月?」
「来月は、十月だよ」
ふふ、と少年のように可愛らしく微笑んだ柊に、瞠目した。
「え? もう九月なの?」
ずっと寝ているのか起きているのかわからない時間が多くて、感覚がまったくなくなっていた。柊は、おかしそうに笑いながら、そうだよと答えた。自分が、どれだけ世間から切り離された生活をしてるのか、と、頭が重くなる。
(…そんなこと、僕なんかには、関係ないか…)
すぐに思い直す。
僕は、もう、生きているのか死んでいるのかもよくわからない。
ただ、目の前の番のために生きているだけなのだ。
「学校…」
ぽつり、と心に引っかかっていたことが、思わずこぼれていた。急いで口をつぐんだが、もちろんこぼれた言葉は間に合わなくて、柊は、顔をあげて、またくすくすと笑う。
「ひーちゃんに学校はもういらないでしょ?」
僕が養うから安心してね。
そう囁いて、柊は僕を見上げた。その瞳に、他意はなくて、本当に純粋にそう言っているだけだった。暗い瞳でもない。
「そう、だね」
勉強、好きだったな。
将来、どうする、とかあんまり考えてなかったけど、勉強は好きだし、それが悩んでいる人や困っている人のために使いたいとぼんやりと思っていて、弁護士や医者なんかいいなあ、なんて考えていた。
(…僕には、選択権はないから…)
番の言う通りに生活する。それだけでいいのだ。
それが、僕の出来る罪滅ぼしだから。
それからは、穏やかな毎日を過ごしていた。
項を噛まれてからは、柊は安心して仕事に向かうようになった。以前のような感情の起伏もなくなり、いつも明るい柊の笑顔があった。図書室での柊のように、楽しい話をたくさん聞かせてくれたし、いつも僕を優しく抱き寄せてくれた。しかし、僕の方は、図書室でのような状態にはなれなかった。
あれから、僕は、うまく笑えなくなっていた。調子が良い日に、ベッドから出て、鏡の前でにっこりと笑ってみた。自分ではそのつもりだった。しかし、鏡には、うっすらと口角をあげた自分の顔があった。瞳も澱んでいて、こんな自分の顔はじめて見た、と他人事のように感じた。でも、すぐに、それもどうでもよくなった。
別にいい。柊が何も言わないから。柊が、僕に求めないから、それでいい。
柊との性行為は、あれ以来なかった。キスは目があえばするし、夜も同じ布団の中で抱き合いながら眠った。まだ身体が不安定なようで、時々高熱を出す僕を気遣ってくれている優しさも感じられた。
「ねえ、ひーちゃん」
同じベッドの中で、柊が僕の指先を一本ずつ撫でたり擦り合わせながら、囁きかけてくる。ベッドライトの暖色のライトが、柊の掘り深い顔に陰影をつけさせる。エメラルドの瞳は穏やかにきらめいていた。
「なに?」
重い瞼を瞬きながら、聞き返すと柊は、そっと人差し指の先にキスをされて、夜の虫の音がほのかに聞こえる部屋にリップ音が響く。
「お披露目会が終わったらさ、イギリスに行こう」
ぴくり、と指先が反応してしまった。しかし、柊は、頬を緩ませながら話し続ける。
「僕の育った場所、ひーちゃんにも見てほしい。ひーちゃんと行きたい場所がたっくさんあるんだ」
へへ、と顔を赤らめながら柊は愛らしく笑った。そしたら…、と言葉を続けて、僕の頬を親指で撫でる。潤んだ瞳で僕を見つめる。
「イギリスで二人で暮らそう」
そうか、僕は、日本すら離れるんだ。
しかし、僕には選択権はない。小さく、うん、と答えると、柊は破顔して、唇を重ねた。胸元に僕を抱き寄せて、つむじにキスを落とす。
「寂しかった僕のイギリスの思い出、ひーちゃんと新しいものに出来るんだ…嬉しいな…」
夢みたい。
そううっとりとつぶやいた柊に、これは現実なのだ、と改めて突きつけられたような気がした。心臓が、ど、ど、ど、と嫌に早くて息苦しい。それを隠すように、柊の胸元に縋りついた。僕が縋れるのも、頼れるのも、ここしかないから。柊は、そんな僕をさらに抱き寄せて、大丈夫だよ、と甘く囁いた。
「僕がいるから、大丈夫だよ」
柊の指先が、今日も確認するように、僕の項の噛み跡を撫でる。ぼこぼこと幾重にも傷跡の残るそこは、決してきれいな見た目ではない。しかし、柊は、きれいだよ、と囁いて、キスをしたり舐めたり、時に甘く歯を立てることがある。自分の所有印を確かめられている気がして、僕は自分の身体が自分のものではないのだという気持ちをさらに強めるのだった。
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