初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第33話

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 生徒会寮から駆け出した僕は、どうやらベータ寮とオメガ寮の中間地点辺りにある公園の茂みに転がりこんでいたらしい。柊に手を取られて、近くの街頭の下にあるベンチに並んで座った。自動販売機で緑茶といちごミルクという謎のチョイスをしてきた柊に和んで、ようやく頬がゆるんだ。まだ胃がしくしくと痛むので、緑茶をもらって、ゆっくりと流し込む。焼かれたように熱かった食道が少しずつ落ち着いていくのを感じる。ひとつ息を吐くと、身体がじんわりと緩んで、血流がめぐってきた。生きている、と実感される。
 柊は、ずっと心配そうに僕の手を握りしめていた。ぎゅう、と強く握ったり、それに気づくと力を抜いたり。大きな身体で不器用な手先。見た目通りの純朴な少年に、心がやわらいでいく。
 それでも、この少年は、アルファなのだ。
 帰り道、いつだって柊は、僕をベータ寮まで送ると、来た道を戻って、学園に一番近いアルファ寮に帰っていく。恵まれた体躯もアルファらしい。勉強を教えてと僕に強請ってくるが、要領を掴んでいて、テストの結果もおそらく悪くないだろう。そういえば、期末考査がどうだったかも聞く暇もなかったな、と気づく。しかし、その間自分が何をしていたのかを聞かれたら、困ってしまう、と思い、口を閉ざした。隣で、紙パックのいちごミルクを、ずず、と音を鳴らして飲み干す柊を見る。

「柊」

 名前を呼ぶと、すぐにこちらを振り向いて、口元を柔らかくして首をかしげる。

「柊ってさ、スパイなの?」

 ごほ、と思わず柊は咳き込んだ。背中を丸めてしまうので、その大きな背中を撫でる。

「いきなり、なんですかっ?」
「いや、そんな分厚い眼鏡して、わざわざ変装してるから…」

 以前、眼鏡をかけている理由を聞いた時視力が悪いから、と言っていた。しかし、こんなビン底眼鏡をかけるよりも、現代にはコンタクトという発明品がある。
 眼鏡をとった柊の素顔を知っているからこそ、より疑問を強くする。あれだけのビジュアルと、この筋肉質なスタイル。そして、アルファだと来たら、引く手数多で、今の柊の扱いとは雲泥なものになるだろう。なぜ、柊はその道を捨てているのか純粋に疑問だった。

「スパイなんて器用なことできません」

 唇を尖らせてぶつくさ言う柊に、確かに、とうなずいてしまう。

「そこはもうちょっと否定してくださいよ!」

 自分で言っておいて、と思うと、くす、と笑ってしまう。夏の虫の鳴き声を聞きながら、空を仰ぐと雲の裏で月が強く光っているのがわかった。

「柊ってさ、そんだけ見た目良くて、それに、アルファなのに…」

 アルファ、と口に出してしまうと、先ほど言われたことを思い出してしまう。
 ベータがアルファに本気で相手にされると思ったのか、と。
 涙が出ないように、痛む胸を隠すように、強く下唇を噛み締めた。
 わかってた。わかってたよ。何度もそう唱えるが、誰も何も答えてくれない。その堂々巡りと虚無感に、心が打ち砕けてしまいそうだった。
 一人、考えに耽っていると、する、と噛み締めていた唇を撫でられる。は、と力を抜いて、その指を辿って視線をあげる。柊が、眉を下げて僕の唇を撫でていた。

「切れちゃいますよ」

 せっかくきれいな唇なのに。
 そうつぶやいた柊の眼鏡に月の光が反射した。ちか、とまぶしくて、目を細めると、柊は眼鏡を外した。長い赤毛の睫毛が、ばさりと持ち上がると、光をすべて吸収して輝く翡翠が現れる。思わず吸い込まれてしまいそうになるほどの美しい、柊だけの宝石。

「本当の僕は、大切な人だけ知っていれば良いから」

 水面が反射するように、きらきらと輝く柊の瞳は、まっすぐに僕を見つめていた。ほんのりと頬を染めて、握られた手のひらは、じんわりと汗をかいていた。どういうことか勘が働かずに、首をかしげて名前を呼ぶと、大きく深呼吸して目の前の身体が膨らんだ。

「前にも言ったんだけど、先輩、覚えてる?」

 柊にそう言われて、何のことは一切わからずに眉間を寄せて考える。一体、いつのこと…何のこと…?
 険しい顔をする僕に、やっぱり、と肩を落として項垂れる。ためらいつつも、ごめん、と謝ろうとした時、柊はぱっと顔をあげた。

「せ、先輩が、僕に会いに来てくれた時、僕が言ったこと」

 ぎゅう、と手を強く握られて、前のめりに柊が話す。瞳が揺らぎ、柊の緊張が伝わってくるが、どのことかひらめかず、えーと…と視線を泳がす。

「やっぱり、そうだよね…」
「ご、ごめん…」

 がっくしと首を落とす柊に申し訳なくて、肩を撫でて謝る。またひとつ、深呼吸した柊は、肩にあった僕の手を掴んで、両手で包んだ。そして、きつく目を閉じてから、ゆっくりと瞼を上げた。きら、と瞳が輝いて、僕は目をそらせなくなってしまう。

「僕、先輩のことが好きです」
「う、うん…」

 それは、聞いた覚えがある。泣きながら抱きしめて、そう言われたのを覚えている。
 しかし、僕の反応が悪かったからか、柊は焦って言葉を続ける。

「友達とか、後輩とか先輩とか、そういうのじゃ足りない、好き、です」
「え…っと…?」

 鈍い脳みそがだんだん回ってくる。つまり、これは、今、柊は僕に…
 もう一度、瞬きをした柊は、まなじりを染めて、しっかりと言葉にした。

「聖先輩の彼氏になりたい」

 柊が顔を赤くして、眼鏡を外して、素の表情でまっすぐ見つめて伝えてくることの意味をようやく理解して、握りしめられている指先がぴくり、と跳ねた。そこから、じわじわと身体に熱が送られていく。じり、と項に熱い汗が伝うのを感じた。柊は、深呼吸してから、しっかりと僕に伝える。

「聖先輩が、好きです」

 可愛い大型犬だと思っていたのに、急に人の、それも男の形に変化された気分で、僕は言葉を失っていた。狐に化かされる、ならぬ、犬に化かされた気分だった。

「し、柊…ぼ、僕は…」

 柊はきつく手を握り、まっすぐに俺を見つめていて、何か言わないと、となんとか言葉にするが、情けないことにろくな言葉は出なかった。
 そんな僕を見越してか、へらり、と柊は笑って、立ち上がった。あっさりと柊に離されてしまった手は宙に浮いたまま、どうすれば良いのか迷っていた。
 柊は、外していた眼鏡をつけ直して、明るく話す。

「なんて、今弱ってる先輩にこんなこと言うのは卑怯ですよね」
「柊…」

 柊は振り返って、またビン底眼鏡を反射させながら僕に微笑みかけた。

「少しは元気になりました?」

 つんつん、と頬を人差し指が叩いてきて、今まで意識してなかったのに、なんだか妙に気恥ずかしくなってくる。触れられた頬を、そっと触れて視線を外すと、頭上で寂しそうに柊がくすりと笑っていた。

「夏休み、一緒に遊びましょうね」

 宙に浮いていた手を再び柊に包まれて、引き上げられる。その勢いに任せて、ぐらりと前に倒れると厚い胸板に頬がついてしまう。ぱっと顔をあげると、ぽかんとした表情で口を開けていた柊が、頬を染めて口角をあげた。

「返事はまた今度でいいです。だから、僕のこと、考えてみてください」

 そのまま、柊は身をかがめて、僕の頬に優しくキスをした。どきまぎと固まってしまうと、柊は嬉しそうに、へへ、と笑う。こんな大男なのに、あどけない少年の笑みに、心臓がとくんとくん、と動き出す。

「さ、帰りましょう」

 僕の手を引いて、柊はベータ寮への道のりを歩き出した。
 かわいいと思っていた後輩は、実はちゃんと男だったのだ、とむず痒い気持ちを隠すように、こめかみに垂れた汗を拭った。
 先ほどまでの優れなかった体調と生きる意味さえわからないほど苦しかった心は、柊の情によってすっかりほぐれていた。それに気づくと、きゅう、と胸の奥が絞られて、月がぼやけて見えた。



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