初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第31話

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 部屋を出ると、手を掬われた。そして、そっと指を絡めて彼は歩み出した。エレベーターに乗れば、名残惜しそうにずっと唇を戯れられて、誰もいない静まった寮の入口を過ぎても、彼は僕の隣を、僕に微笑みかけながら歩いた。

「生徒会寮で聖は待ってろ」

 生徒会寮の方が学校から近いから、すぐに聖に会いに行ける。そう言って、彼は僕の指にキスをした。
 もう、終わりでもいいのに。僕は充分すぎるほど、彼との思い出をもらえたから。
 そう言おうと口を開けたが、眉を下げて頬を染める彼は、本当に僕が描いた夢の中の彼そのもので、まだ夢の中にいられるならそれでいい。とうなずいた。

「挨拶終わったら、すぐ帰るから」

 歩きながら、何度も僕の指先を撫でる。彼の腕時計が手首に当たる度に、やけにひんやりとしていて、これは現実なのだと言われているようだった。蝉は暴れるように鳴き喚いている。日差しもいつの間にか、乱暴な強さになっていた。それに目を細めていると、彼がすっと僕の前に立ち、日陰を作ってくれる。そんな小さな優しさに、喉の奥がぐう、と詰まってしまう。

「食事も用意させてあるから、しっかり食べろよ」

 生徒会寮のエントランスを抜けて、エレベーターを待っている間に、観葉植物の影で抱きしめられて、顔中にキスをされる。まるで犬のようだ、とくす、と笑うと、彼はさらに笑みを深めて、口づけをする。

「帰ってきたら、続きをするから」

 唇を熱い舌が舐めて離れていく。きゅう、と腹の奥が絞るように反応する。何日もずっと交わっていた後孔は、まだ彼がいるかのような感覚があった。エレベーターに僕を乗せると、僕のスクールバックを腕にかけられて、さらに手のひらにカードキーを渡される。

「これ、聖の」
「…僕の?」

 手元のルームナンバーの書かれたカードと彼の顔を何度も見比べる。頬を赤くして照れくさそうに彼は、持ってろ、とつぶやいて、またうっとりと何度か口づけをして、名残惜しそうにしながら手を振り、エレベーターのドアが閉まった。いつの間にか、彼がボタンを押してくれていたようで、勝手にエレベーターは動き出す。その間、エレベーターの浮遊感なんか気にならないくらい、僕は地に足がついていなかった。

(…なんて素敵な夢なんだ。)

 本気でそう思っていた。なんだか身体はだるくて、火照っている。もしかしたら、熱がある僕が見ている夢なのかもしれない。視界も輪郭をはっきりと映し出せない。それも、夢だからか。
 朧げな意識で、前回は彼に無理矢理連れてこられたこの部屋に、自分の意思でカードキーをかざして開錠して戻ってきた。入室すると、オートロックががちゃり、と施錠をする音が響く。相変わらず、大きな窓からは、美しい緑で光が部屋を照らし、一枚の大きな絵画のようだった。ダイニングテーブルの上には、いつものサンドイッチがある。カップのスープも入っており、ラップを湯気で曇らせていた。その脇には、マゼンダ色をしたきれいなグラスが水のボトルの横で逆さに置かれていた。
 ずっと彼の手で食べさせられていた食事を、久しぶりに自分の手で口に運ぶ。おいしい卵サンド。スープも、かぼちゃのポタージュで、とろりとした甘味が身体によく沁みた。それでも、何か物足りないと感じてしまい、こんな欲深くては、また明日から、一人で生きていけない。そう考えると、鼻の奥がつんと痛んだ。
 あまり食欲がわかずに、残してしまった。サンドイッチはラップをして冷蔵庫に入れる。ポタージュは、心を痛めながらも流しで洗い流してしまう。
 なんだか瞼が重い。だから、ソファやベッドに腰掛けてしまったら、寝てしまいそうで、僕は書斎へと足を運ぶ。せっかくだから、彼が用意してくれた本を読みたいと思ったのだ。もうこの部屋にも、これないかもしれないから。だから、眠って過ごすなんて、もったいない。
 部屋に入ると、ふんわりと甘い匂いがした。その匂いのもとは、生けられた花だった。前回来た時は、淡いピンク色のバラだった。今回は、立派な白百合が花粉をつけて咲き誇っていた。いい匂い、と微笑んでから、本棚から本をいくつか抜き出して、ソファに腰掛けた。しかし、いくらも読まないうちに、うとうとと頭が揺らぎ眠りについてしまった。

 ばたん、と物音がして途中で意識が戻ってきたような気がするが、あまりにも眠くて、その後もする物音に反応することもなく、またぐっすりと意識を手放した。
 きっと、連日連夜、爛れた生活をしていたせいだろう、と僕は疑わなかった。こんなに深く眠りについたのは、図書室の柊のお茶を飲むようになって以来かもしれない。
 そういえば、柊に連絡をしなきゃ、と思いながらも、僕は暗闇の世界へと誘われた。





 ようやく、目が覚めた時には、関節が固まって痛みに呻いてしまった。天窓から刺す光は、いつの間にかなくなって、暗い夜空が見えていた。はっきりしない頭で、関節をさすっているとリビングから足音が聞こえた。
 彼が帰ってきたのだ、と思い、ぎしつく膝を起して、歩き出した。リビングの扉を開けると、がしゃん、と耳障りな音が響いた。真っ暗な窓ガラスに間接照明が反射して、室内を広く見せている。その光に誘導されるように音がした元に目をやると、一気に血の気が引いていった。

「な…」

 叫び出しそうになった口元を急いで覆って、そこにいる存在から目を離せないで固まってしまった。
 絹糸を集めたような繊細な髪の毛は、光をすべて集めて輝いていた。シルク地の紺色のシャツは明らかに着ている本人のサイズよりも大きい。真っ白な陶器のような肌の美しさをより際立たせている。彼の足元には、マゼンダ色のガラスのカップが粉々に割れていた。僕に気づいたその人物は、宝石のような透き通った二つの碧眼を細めて、にたりと笑った。

「あれえ? なんでゴミ虫がいるの?」

 その悪意に満ちた言葉には、肩がすくみ、膝が震え出す。美久はそれを満足そうに見て、にやにやと笑みを深める。

「もしかして、ストーカー?」

 やだあ怖いっ、とわざとらしく自分の身体を抱きしめて内腿と擦り合わせる。彼には大きいスリッパの先が、ちゃり、とガラス片に当たる。

「片付けなきゃ…あっ」

 美久がかがむと、大きいシャツの襟ぐりから胸元が垣間見え、そこにはキスマークが複数見えた。そして、しゃがもうとした時、あ、と言った美久の内腿から、ぽたぽた、とフローリングに白い液体が降り落ちた。

「やだ…咲弥ってば、中に出さないでって言ったのに…」

 立ち上がった美久は、僕に見せつけるように、背中を見せて、シャツを捲った。ふっくらとした桃のような愛らしい臀部の狭間から、内腿にたっぷりと白濁としたそれが伝い落ちていくのが見える。白い内腿には、複数のキスマークが映えて見える。
 ど、ど、ど、と鈍い心音が耳奥が嫌に響き、視界を揺さぶる。なんで。どうして、美久がここにいるの。どうして。なに、それ。

「こんなに出されたら、赤ちゃんできちゃうよ…」

 どうしよう、と眉を下げながら、美久は僕に困り顔で振り向いた。その後、勝ち誇ったようににんまりと笑う。爪先が凍ったように冷たい。息も短く、浅くなっていく。
 美久は身体をこちらに向けて、腕を組んで言い放つ。美久の足元で、じゃり、とコップがさらに踏みつけられて粉々になった。

「英雄色を好むっていうから我慢してたけど、咲弥ってベータにも手出してるの?」

 うええ、と舌を出して、苦い顔をする。そして、心底軽蔑した瞳で眉根を寄せて睨まれる。

「ほんと、ベータって図々しくて頭悪くて、最ッ低」

 昔を呼び起こされる感覚だった。
 僕が人を信じられなくなったのも、美久との会話がきっかけだった。
 僕の様子を見て、今度は満足そうに口角をあげて、はっ、と鼻で笑う。

「ベータごときが、僕たちアルファとオメガの間に本気で入れるって思ってんの?」

 ずっと自分に言い聞かせてきたことだった。それでも、どこか否定する自分がいた。目の前で微笑む彼を見て、僕は愛されてるって、自分に反発する自分がいたんだ。
 それを、目の前のオメガにはっきりと言い放たれて、頭が思いっきり殴られたかのように痛み出した。

「ていうか、どうやってここに入ったの? カードキー返してくれる?」

 それ、僕のだから。
 桜貝のように可憐な色をした爪先が僕に向けられた。
 ソファ前のローテーブルの上にカードキーは置いてあった。それをちらり、と見やると美久は、ああ、と口角をあげた。でも、これは、彼が僕のだといって、今朝渡してくれたものだ。
 渡したくない。
 一瞬、自分の中の欲が大きく膨れ上がり、そのカードキーを手の中に収めた。ぎゅう、と強く身体の前で握りしめると、目の前の天使が顔を歪めて、大きく舌打ちをしたあと、何かひらめいたかのように指を立てて、にたりと笑う。

「じゃあさ、咲弥に聞いてみればわかるよ」

 美久が細い指で指す方向に振り返る。リビングと寝室をつなぐドアが解放されていた。
 やめろ、と脳内でずっと警鐘が鳴り響いている。しかし、震える足はどんどんそこに近づいていく。どくん、どくん、と心臓がうるさい。違うかもしれない。その一抹の期待が、僕を動かす。違うって、教えて。
 寝室の入口に立つと、柔らかなベッドランプが暗闇を照らしている。その光の先で、僕たちが交わったキングサイズのベッドの上に、美しく眠る彼がいた。
 首元には、赤い斑点が二つ付いているのが見える。
 間違いなく、今朝、僕と一緒にいた、彼だ。

「わかった?」

 真後ろで声がして振り向くと、にこりと天使の笑顔を張り付けた美久が立っていた。

「勘違いしちゃったの? どこまでも、可哀そうなベータ」

 鈴のような美しい、庇護欲をそそられるような声でひっそりと囁かれて、僕はその場を飛び出した。




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