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第26話
しおりを挟むもう、ここにいてはいけない。
目を覚ますと、いつも通りに彼はいなくて、僕はきれいな身体で清潔なパジャマを着て寝ていた。起き上がると、腰がじんわりと甘く痺れる。
昨夜、彼に久しぶりにたくさん名前を呼ばれた。嬉しくて、しあわせで、涙が止まらなかった。求めると彼は、何度も僕を快感の渦へと落としてくれた。その愛撫はすべて、今までとは真逆で、優しくて、甘くて、しあわせだった。
だからこそ、だと思う。
だからこそ、これを最後の思い出としてもらったから、僕は彼から今度こそ離れないといけないと思った。
前回は悲しい終わり方をしてしまった。今回は、彼に愛されたと思う、今の気持ちのまま、離れたいと思った。
ずっと彼とは一緒にいられない。オメガとして一生消すことのできない身体の契りを交わすことも、アルファとして堂々と伴侶して一生を過ごすこともできない。彼に飽きられたら、捨てられるだけの僕。
梅雨は開けたのに、今日は曇天だった。木々の隙間から空を見上げるけれど、いつものような優しい光は見えなかった。
気怠い身体で洗面所に向かう。鏡を見ると、涙を流している自分の顔があって、首をかしげる。なんで、泣いてるんだろう。他人事のように思って、笑ってしまう。さっぱり洗顔して、たたまれていた僕の制服に袖を通す。一週間ほど着ていないだけだったのに、なんだかひどく懐かしく感じられた。ここに来た時、乱暴に裂かれたシャツは新品だったが、僕にぴったりと着られていた。
僕がこの部屋に持ち込んだものは、これだけだった。
この制服だけ。
最後に、もう一度、あの本がたくさん並んだ書斎に足を踏み入れる。ずらりと並ぶ本は圧巻だった。本棚の間にあるスペースには、花が生けられている。小ぶりな淡い桃色をした薔薇が数輪刺されていた。渋い色に囲まれて、そこだけ世界が違うかのように、可憐に咲く薔薇が愛おしく思えた。本に触れると、まだここにいたくなってしまう気がして、そっとドアを閉じた。
玄関のドアは簡単に開いた。そして、僕は、寮の外へと足を踏み出した。
なんて、あっけないんだろう。
まるで、この一週間が夢のように感じられた。じっとりと高い湿度が僕に纏わりついて、ずっと空調の利いた居心地の良い場所にいたからこそ、現実なのだとまざまざと実感させられた。
むっとする風が大きく木々を揺らし、僕を寮から遠ざけるように背中を押した。
とりあえず、荷物を回収しよう。それから、寮の自室に帰ってしまえば良い。基本的に、バースごとに分けられている寮に、他のバース性の生徒が入るとこは、よほどの特別な事情がない限りありえない。そのよほどの特別な事情、というやつには、ベータは関係がないのだ。
誰かのいる道を出来る限り避け、足音を殺して第二図書室に入り込んだ。今日は、司書の休みの日だったらしく、中はがらんと暗く、静かだった。喉の奥が、ぐう、と詰まったような感覚がする。もう初夏だというのに、ひんやりと冷たいその部屋に入り、いつも荷物を置いてある場所を覗くが、見当たらなかった。いつも座っている自習机の前に立つと、付箋が貼ってあった。
『荷物は預かっています。一度、ちゃんと話をさせてください。柊』
あんなに大きい身体なのに、角張って線の細い字を書く後輩を思い出す。その字に、そっと指を這わす。
(柊は、どんな顔でこれを書いたんだろう…)
僕が来ない間も、ずっと、この寂しい図書室で、一人待っていたのだろうか。
僕がわがままで、彼への恋情を捨てきれない欲のせいで、柊を巻き込んでしまったのに、柊は自分を責めていたのだろうか。
そう思うと、ますます罪悪感が募る。
(柊に会わないと)
心の中で決断すると、丁度よく授業終わりのチャイムが鳴り響いた。
緊張で早まる心臓を撫で、一息大きな深呼吸をしてから、図書室のドアを開いた。
柊のいる教室は本棟と最上階の端っこだった。出来るだけ人に会わないルートを選んだはずだが、何人かの生徒とすれ違う。その度に、じっと視線を送られてしまい、それを避けるように柊のもとへと急いだ。ざわつく一年生の廊下に出て、僕に気づいた生徒たちが複数人声をあげる。悲鳴ともとれる声に、辟易としてしまいながら、さっさと用事を済ませてしまおうと思う。
柊に会う。荷物を返してもらうのと、ちゃんと、柊に謝りたかった。柊のせいじゃないよ、だから自分を責めないでね。と伝えたかった。もう友達でいられなくても、嫌われていても、それだけは伝えようと、震える指先を誤魔化すように握りしめて、柊の教室を覗く。人が多くて、わからなかった。
「ねえ」
「え!? 聖様?!」
「ヒィッ! 本物!?」
入口近くにいた、小柄な生徒二人組に声をかけると、大声を出されてしまう。高い声に耳をつんざかれて、固まっていると、教室内が一気に僕へと視線を集め出す。僕は名前も知らない生徒に、名前を認識されていて、不思議だと思っていると、大きな人影が強い力で腕を引いた。
「え?! なんで北条くんと聖様が?!」
なんでなんで、と背中でたくさんの悲鳴を聞きながら、僕は目の前の大男に引きずられるがままに足を動かした。教室脇にある非常口から外に出て、鉄の階段の踊り場で柊は止まった。何も言わずに、ただ背中を見せる柊に、なんと声をかければ良いかわからなくて、開けた口を閉じたり、また開いたりを繰り返して、躊躇うが、近くでアブラゼミがジジジ、と鳴いたのを皮切りに名前を呼んだ。
「柊…あの…」
「なんで来たの」
感情の見えない、硬い声色だった。視線をあげると、柊はゆっくりと振り返り、僕を見下ろす。眼鏡が反射して、あの美しい瞳は見えない。いつもの可愛い笑顔もない。ただ、無感情にしか見えない顔で僕の答えを待っていた。
「あ…」
怒っている。
きっと、柊は、怒っている。僕が勝手に会いに来たら、迷惑で怒っているんだ。
そう思うと、身体が震えてきて、蝉が鳴いているというのに、冷や汗がにじんでくる。視線が勝手に下がってしまい、視界も揺れてくる。
「カバン、取りに来たの?」
僕の異変に気付いてか、先ほどよりも柔らかい声で、子どもをあやすように問いかけて、促してくれた。
そう。そうなんだけど、それよりも…。
「柊に、謝り、たくて…」
「謝る…?」
素直に言葉にすると、柊は、眉根を寄せた。険しくなった顔に、やっぱり怒っているんだと気づいた。急いで離れないと、後退りながら、口早に伝える。
「今まで、迷惑かけてごめんね…柊と一緒にいられて、僕は楽しかったよ」
ありがとう、と言いながら、へらりと笑った。
大丈夫。今までずっと、一人で過ごしてきたんだから。それが、元に戻るだけ。
やっぱり僕は、人と関わらない方が良いんだ。わがままで自己中な僕は、相手に迷惑をかけてしまうのだから。
「カバンは図書室に置いておいて。そのうち、取りに行くから」
出来るだけ早い方がありがたいけど、と笑って、僕は最後に柊をもう一度見上げた。ビン底眼鏡は、相変わらず宝石を隠してしまい、表情を読めなくしてしまう。最後に、僕の大好きな柊の笑顔を見たかったなと思いながら、振り返って一歩進んだ時だった。
後ろから大きな身体に捕らえられてしまう。密着する身体はあまりにも熱くて驚いてしまう。離れようと手を指しこもうとしても、一歩遠ざかろうとしても、強い力で抱き寄せられてしまい、息すら苦しくなる。
「しゅ、柊…?」
どうしたのだろうか。
また、僕は、何か間違えてしまったのだろうか。
頭をぐるぐると考えさせている内に、柊の手が震えていることに気づいた。そして、耳元に、揺れる吐息がかかると、鼻をすする音がする。
「柊…? どうしたの…」
首を動かして振り向こうとすると、柊は僕の肩に額をつけるように項垂れた。
「僕が…っ」
柊が声を絞り出すが、嗚咽が混ざって聞こえなくなってしまう。
どうして、こんなに柊は泣いているのだろう。
ただ、僕に触れてくるということは、嫌ではない、ということで良いのだろうか。僕に絡みついている太い腕を撫でると、しっとりと汗ばんでいた。
「僕が、先輩のことを、好き、だからですか…」
うるさかった蝉が、急に鳴くのを止めた。
柊の言葉の意味が、うまく理解できずに固まってしまう。
「僕を捨てて、あの人を、選ぶからですか?」
嫌だ、そういって、柊はますます僕を抱く力を強める。さすがに骨が軋んで身をよじるが、柊はそれすら許さない。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だっ」
「しゅ、柊…っ!」
垂れた頭を軽く叩くと、ぎゅうと僕をしばらく抱きしめたあとに、腕を少しだけ緩めてくれた。その中で身体を反転させて、彼と向き合うようにすると、眼鏡はずれて斜めになっていた。美しいエメラルドは涙できらきらと光り、大粒の雫がぼろぼろと頬を伝っていた。鼻先は真っ赤で、まだずびずびと鼻を出している。せっかくのきらいな顔が台無しだった。
「柊…」
ずれた眼鏡を大人しく取られる。長い睫毛が伏せられると、また大きな涙が溢れる。それを手の甲で拭うが、身体に見合って涙の量も果てしなく多い。
「嫌だよぉ…先輩と、離れたくない…っ」
どうして僕から逃げるの。と子どものように泣きじゃくる目の前の大きな男が、だんだん愛おしくなってくる。
「だって、僕のこと、気持ち悪いでしょ?」
あんなことをさせてしまったのだから。
言葉にするとさらに僕の心を深くえぐった。でも、事実なのだから。
しかし、柊は目を見張って僕の肩を掴んだ。
「そんなわけない! どうしてそうなるの!?」
あまりにいきなりの大声だったので、驚いて固まってしまうと、柊は、僕が怯えていると思って、ごめん、としょんぼり謝った。
「あ、あんなこと、柊に付き合わせちゃったし…」
気持ち悪かったでしょ…?
ダメだとわかっていながらも、呆気なく快感に飲み込まれてしまった情けない淫乱な自分。
俯きながら言葉が濁っていく。思っているのと、言葉にしてしまうのとでは、また負う傷の深さが違うことを実感してしまう。
「違う違う! あれは、僕が…」
眉を吊り上げて怒るように声を張り上げた柊は、眉根を寄せて声を落していった。
優しい後輩。
僕のせいなのに、自分を責めている。そんなことしなくていいんだよ。
勝手に頬がゆるんで、柊の頭をそっと撫でた。柊は、視線を上げると僕を見て瞠目していた。
「いいんだよ、柊。気にしないで」
僕が悪いんだから。だから、傷つかないで。
長くて野暮ったい前髪が柊のきれいな宝石を隠そうとするのを流して、耳にかけるように撫でつける。慰めるつもりでやっているのに、柊の顔つきはどんどん崩れて、涙がまたこぼれ始めてしまった。
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