初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第3話

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 マゼンダの海の中で行った秘密の誓いから、七年が経った頃。

 初等部の中学年になる頃には、もう彼の周りにはたくさんの美しいオメガたちがひしめき合っているようになった。
 もともと、彼の家に取り入ろうと近づいている人が多いが、彼の美しい顔立ち、何をしてもトップでいる圧倒的能力の高さ、そして、人を導くカリスマ性。それらに惹かれて、彼の周りには人だかりが常にあった。

 十歳の時。バース性がはじめてわかったとき。
 彼と僕は、思いを通じ合わせた。
 昼休みや放課後。大きな学校には、たくさんのひっそりとした場所がある。誰も来ないような、静かな場所。そこが、僕たちの居場所だった。
 彼の周りにはたくさんの人たちがいた。その人たちを撒いて、僕たちはその日その日で逢瀬を繰り返した。思いが通じ合ったとしても、僕が大きな声で彼を呼ぶには、勇気がいった。
 アルファだとわかって、さらに彼の周りには人が溢れるようになった。そして、彼が僕を見つけて、綻ぶ顔を見て、見惚れる人もいれば、その表情が僕に向けられたものだとわかると冷たい目で睨みつけてくる人もいた。そうした、人の敵意を初めて触れて、僕はますます萎縮してしまった。大きな声で、彼は僕のです!と言えば良かったのだろうか。人だかりの中で、彼の隣を陣取ることの居心地の悪さを知っている僕は、そんな勇気、到底なかった。
 そういった僕の思いを汲んでくれてか、彼がこうしたこっそりと逢瀬をすることを、嫌がらなかった。むしろ、わくわくしているように見えた。いつも、待ち合わせ場所には、僕が先についていた。本当に来てくれるのだろうか、と不安な時間。
 時には、部活棟の使われていない空き教室。第三学習室。部活がないときの、美術室や理科室。裏庭。中庭の木々の中。そして、僕たちの思いが通じ合った、第二図書室。
 どこも、特別な場所となった。
 誰にも気づかれないように、身体を寄せ合って、本を読んだり、一緒に宿題をしたり、持ってきたゲームをしたりと、僕にとっては一日の中でもっとも楽しい時間だった。そして、ふ、と彼の瞳にいつもと違う色に気づくと、それが合図で、そっと瞼を閉じる。毎日、必ず、僕たちはキスをするようになっていた。彼のキスは、すごかった。ただ、唇をあわせるだけなのに、ふわふわとして、本当に足が地面についているのか不安になった。背中がぞくぞくとして、指先が震えることがあった。そして、瞳が合うと、何度も大切そうに名前を呼ばれた。そうすると、僕は自分の名前が大好きになった。彼にも、同じように思ってほしくて、お返しに何度も、彼の名前を呼んだ。とっても嬉しそうに微笑む彼の笑顔が大好きで、もっともっと、彼のことが好きでたまらなくなった。


 十一歳になった秋に、彼は、児童会に推薦された。
 最初は、聖との時間がなくなる、と渋っていた彼の背中を押したのは、紛れもなく僕だった。
 それは、先生にお願いされたからだった。

「西園寺さん、児童会に推薦されているの。これは滅多にないチャンスです。九条さん、応援してくれるよね?」

 彼のいる一組の先生に、呼び出されて、そう話をされた。本当は嫌だった。僕も、ずっと彼と一緒にいたかったからだ。
 でも、その頃からだった。
 廊下で、すれ違いざまに知らない人たちから、こそこそと何か話されているのを感じるようになったのは。
 彼の近くにいる人たちが、僕を見る目は、常に冷たいものだった。何か笑いながら、指を指されているのがわかった。でも、そうされる理由がわからなかった。何もしていない。何もしていないのに、なぜか、こそこそと何かを話されている。
 その理由がわかったのは、ある男の子に呼び出された時だった。
 いつも通り、彼との待ち合わせ場所に、誰にも気づかれないように向かおうとしていた時、教室を出たところで急に呼び止められた。

「九条聖だよね?ちょっと来て」

 振り返ると、絵本の天使かと思うような、美しい少年が立っていた。細い金の髪は光に反射し、まばゆい星の粉を見せているかのようだった。大きな瞳は吸い込まれそうなほど美しい。白い肌に、桃色の唇が、つやんと主張していた。ぱちぱち、とまばたきを繰り返して、突っ立っていると、少年は、舌打ちをして、にらみつけてきた。その冷たい表情に、ひゅ、と息をつまらせて、急いで後を追った。
 人影のない、渡り廊下に連れてこられて、振り返って彼は話した。

「君さ、一体何なの?」

 腕組みをして、僕の前に立つ彼は、光の無い目で僕を見ていた。ぎゅ、と通学バックの紐を握りしめる。

「君がさ、咲弥くんに纏わりついているせいで、児童会の話が進まないんだよね」

 彼の名前が出てきて、下がっていた目線が自然とあがってしまう。そして、凍てつくような瞳とぶつかって、じり、と冷たい汗がにじむのを感じた。

「この学校の児童会を務めるってことは、中等部、高等部の生徒会を務めるのと同じなわけ。そうすると、自ずと将来、大人になったときのコネクションも増えるわけ」

 こねくしょん、という難しい言葉がわからなくて、小首をかしげると、目の前の少年は、眉間にぎゅっと皺を寄せて、僕との距離を詰めてきた。

「咲弥くんの未来を、君が邪魔して、何が目的なの?」

 僕が、邪魔…?

 ざあ、と風が吹き抜け、雲が太陽を隠した。辺りが暗くなると、より焦燥感が駆り立てられる。少年は変わらず、僕に詰め寄る。

「あんたのせいで、咲弥くんは迷惑してんの。その小さい脳みそでわかんないの?」

 こんなにもまっすぐ、悪意をぶつけられたことが初めてで、どうして良いのかわからなくなってしまう。呼吸が浅くなり、汗がこめかみを伝い落ちるのが不快でたまらない。逃げ出したいのに、足が固まってしまったかのように、動かない。

「本当は、あんたみたいなブスで自己中なやつ、咲弥くんの視界に入るのも許されないんだから」

 虫けらでも見るように少年は、そう言い残して、来た道を帰っていった。
 彼の姿が見えなくなっても、僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。
 僕って、ブスで自己中なんだ…。
 今まで、思いもしなかったひどい言葉に、思ったよりも、心がずたずたに傷ついているのが、だんだんとわかってきた。
 そうか、彼を独占することは、自己中なんだ。
 自分の見た目の醜悪はわからない。生まれた時から見ている顔だから。それでも、僕は、彼がかわいいと言ってくれるから、自分の顔が好きだった。でも、それは、人によっては、ブスで醜い顔なんだと、気づかされた。

 本当は、僕のこと、迷惑だったのかな。
 そう、あの天使のような見た目の少年は言っていた。
 確かに、一組の先生も、話をした時に、迷惑そうな顔をしていたかもしれない。
 僕は、友達も少なくて、人の気持ちを汲み取るのがへたくそなんだと思う。だから、自己中に考えていて、人の迷惑なんかに気づけないのかもしれない。
 だから、みんなが僕を指さして、こそこそ話しているのかもしれない。
 あいつのせいで、彼が迷惑している。みんなが、大好きな彼のために、悪者の僕を懲らしめようとしているのかもしれない。
 そう思ったら、背筋がぞっと冷たくなってきた。自分を抱きしめて、その場にうずくまる。視界が細かく揺れていて、自分の身体が震えていることに気づいた。

「ひーじりっ」

 その時、急に後ろから抱き着かれた。いきなりの重みにもちろん耐えきれるはずもなく、地面にべしゃりと倒れてしまう。は、と急いで振り向くと、すぐそこに、だらしなく笑う彼がいた。僕と目が合うと、どんどん険しい顔つきになり、僕の肩をつかみ、全身をくまなく視線でチェックした。大きな手のひらで、額を撫でられて、その温かさによって、ようやく血の気が引いていたことに気づく。

「何があった?」

 声を低くして、彼は僕に聞いた。眼光が鋭くなり、怖くて肩をすくめてしまう。そんな僕の反応に気づいてか、急いで彼は表情を崩し、立てる?と聞いたあと、僕の手首を握り、近くの埃っぽい空き教室へと身を寄せた。
 窓からは、色を変え始めた楓がさわさわと風に揺れていた。並んで腰を下ろすも、彼は僕の手をずっと握りしめていた。僕の右手を大切そうに、両手で包む。

「何があったの?」

 彼は、先ほどよりも柔らかい声になるように努力して僕に声をかけた。大丈夫だよ、とでも言うかのように、優しく手を何度も撫でられる。硬くなっていた身体が少しずつ、和らぐのがわかる。ふ、と息をついて、まだ混乱している小さな頭をなんとか、必死に回して言葉を並べる。

「ううん、なんか、急にふらっとしただけ」

 さくに会ったら、元気になってきた。と、にこりと笑うと、彼は目を見開いてから、頬を染めて、ゆるく笑んだ。

「本当?」
「うん。昨日、夜遅くまで宿題してたからかも」

 それは、本当だった。昨日、彼と宿題をしようとしたが、彼が持ってきた本があまりにおもしろくて、宿題どころではなかったのだ。その分を、夜、自宅で頑張ることとなってしまったのだ。

「さくは、おもしろいものを見つけるのが得意だから、困る」

 包んでいる両手の上に、左手を乗せて、笑いかけると、彼もいつも通りに笑ってくれた。その様子に、ほ、とした。笑ってくれているってことは、大丈夫なはず。きっと、迷惑、ではない。はず。心の中で生まれた黒い靄は、じわじわと迫ってくるのを感じる。急いでそれに気づかないふりをして、笑顔を貼り付ける。

「それよりも、さくさ、あれ、やりなよ」

 きゅ、と指先にかすかに力が入ってしまった。しかし、彼は首をかしげている。おそらく、気づかれてはいない。

「あれって?」
「ほら、児童会」

 ぴく、と彼の眉が動き、眉間に皺が寄り出す。あ、これは、まずいことを言ってしまったかもしれない、と背中がひや、と冷たくなった気がした。でも、僕には、なんとしてでも、彼に児童会に入ってもらわないといけない。表向きは、先生にお願いされたから。だけど、本当は。彼の輝かしいであろう将来が僕なんかのせいで、奪われないために。

「なんで?誰かに言われた?」

 先ほどの作っていた優しい声色ではなく、はっきりと冷たい声で低く彼がつぶやいた。最近声変わりをして、ややかすれ気味であるため、より迫力がある。さすがに、ぎく、と指先が固まってしまったのを感じ取られてしまっただろう。びり、と彼から威圧されているのを全身で感じる。

「ち、ちがうよ…その方が良いって、思ったから…」
「嘘だ」

 ぎゅ、と強い力で手を握られて、思わず、声が漏れてしまう。その声に、は、と意識が戻ってきたようで、ごめん、と手を握りしめ直し、撫でられる。それでも、彼からの威圧の怖さは残っている。彼は、僕の手を見つめながら、小さくつぶやくように問いかけた。

「聖は、俺と会う時間が減っても、いいのか」

 うなだれる彼は、しょんぼりしているように見えた。気がする。自信はないけど、なんだか寂しそうに見えたのだ。きゅう、と胸の奥がしぼられるような苦しさがうまれた。

「嫌だよ…」

 でも、僕は、彼のために、背中を押さないといけない。
 彼が顔をあげると、いつも自信満々の瞳が揺らいでいた。

「だから…」
「でも、僕たちは、いつだって会えるから、大丈夫」

 力を振り絞って、なんとか笑う。ちゃんと、きれいに笑えているのだろうか。

「それよりも、誰か困ってたり、助けを求めていたりする人が、この学園にはいるかもしれない。そういう人を、救えるのは児童会だと思うから。それが出来るのって、さくしかいないなって思ったんだ」

 これは、嘘じゃない。
 実際に、いつもあれだけの大人数に囲まれている人を、僕は彼以外に見たことがない。それって、すごいことなんだと思う。だから、もし、児童会とかそういうトップの立場になれるのは、彼しかいない。それは、わかっていた。でも、素直に応援できなかったのは、彼を独り占めしたいという、僕の醜い、自己中なわがままだった。今まで、たくさん彼からしあわせをもらったから、みんなにそれを返さないといけないと思ったんだ。
 それに、学園には、助けを求めている人がいる。

「聖…」

 眉根を寄せて、苦し気に僕の名前をつぶやく。瞳は、すがっているようにも見えた。でも、やってみたいというエネルギーも感じられる。

「大丈夫だよ。僕は、たっくさん、さくからしあわせをもらったから、今度は、みんなに分けてあげて」

 ね、と微笑みかけると、彼は顔をふせた。どういう気持ちでいるのだろう。きっと、葛藤しているのではないかと思う。きっと。

「…じゃあ、約束して」

 しばらくの沈黙のあと、彼から言葉が発せられた。ん?と顔を覗き込むと、顔をあげた彼は、まっすぐ僕を見つめていた。

「嘘はつかないこと」

 ぎく、と、心臓が固まった気がした。あまりにも力強い真摯な瞳だった。でも、うなずくしか、僕には選択肢がなかった。

「休日は、俺のために時間つくれ」
「うん」
「あと、頑張ったらご褒美」
「う、ん?」

 ご褒美って、なんだろう。
 お小遣いはあまりもらっていないし、彼みたいなおもしろい何かを知る力やアンテナの高さがあるわけではない。そういうことは、彼の方が何倍ももらっているし、知っているだろう。
 そう考えていると、そっと抱きしめられた。すり、と柔らかな頬が、こめかみを撫でる。

「惚れた弱みってやつか…」

 ぼそ、と小さな声で何かがつぶやかれたが、僕には聞き取れなかった。何?と聞き返すが、彼にはぐらかされてしまった。

「じゃあ、テストな」

 楽しそうな声で彼は僕をのぞきこんだ。いつも通りの瞳の輝きに戻っていて、胸をおろした。

「約束守れるかどうかのテスト」
「うん」
「俺のこと、好き?」

 え、と固まってしまう。即答できてしまう答えなのだが、まさかそんなことを聞かれるとは思っておらず、彼を見つめていると、かか、と顔に熱があっという間に集まってくるのが自分でもわかる。にやにや、と意地悪い笑みを浮かべて、僕の反応を楽しんでいる。

「なあ、聖」
「んぅ…」

 火照った頬を、ちう、と吸われて、肩をすくめる。熱を吸い取るようにキスをしてきたのに、余計にその場所に血液が集まっていく。吸われた頬を手で隠して、彼を見上げると、ゆるゆると口角をあげていて、優しいまなじりで僕を見つめていた。

「う、ん…」
「うんって、どういうこと?」

 はっきり言って、と頬を隠した手の甲に、ちゅ、とまた唇が押し当てられる。恥ずかしくて、視界が潤む。

「…す、き」
「本当?」

 心臓がばくんばくん、と大きく跳ねあがる。息もつまって苦しい中、なんとか声に絞り出したのに、彼は、追い打ちをかけてくる。どうしよう、と困って、彼をまた見上げると、嬉しそうに微笑んでいて、僕はこの笑顔に弱いんだと諦めて、もう一度、大きく息を吸う。

「さくのこと、好き…」

 気づいたら、僕よりも大きくて、骨っぽくなってきた手が、僕の手を包み、指先を絡めてくる。その指先を挟んで、唇を押し当てあう。自然とさがってしまう目線を、じりつきながら、上げると、僕を見つめる彼の宝石のような瞳に捕まってしまう。

「…俺、聖のために、頑張るから」

 さらさらと前髪を撫でつけられて、耳のかける。耳朶をする、と撫でられると、首裏がぴりぴりとして、身体の中で熱がくすぶる。きゅ、と目をつむると、その隙に唇に温かく湿ったものが吸い付く。

「聖…」

 逃げる僕の顎を捉えて、二度、三度、うっとりと唇をあわせる。幸せで、身体の奥底からじんわりと熱くて、指先がかすかに震えるのを、慰めるように、何度も彼が長い指で撫でてくれる。

「好きだ…」

 手のように、骨ばったような硬くなってきている彼の身体に包みこまれると、心底安心する。硬くなっていた心がどんどんと溶かされていく。
 このまま、どろどろに溶けて、彼の一部になれればいいのに、と怖いことすら考えついてしまう。

「ずっと、俺のものだから…」

 力強く抱きしめられて、低くうなるような、独り言のようにつぶやかれたが、僕は、彼の胸元で小さくうなずいた。



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