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Chapter5

ムーンストーンを心に灯して(3)

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 ——声が聞こえる。
 低くて落ち着いた声。とてもとても耳に馴染む声。大好きな、声。
 愛する、彼の——



「……」
 瞼を持ち上げると、最初に飛び込んできたのは真白い天井だった。明かりに慣れていないせいか、まともに目を開けることができない。反射した光の粒が天井の白で増幅され、眼球が刺激される。何度かしぱしぱと瞬きを繰り返したすえに、ようやく開いたまま維持できるようになった。
 ——声が聞こえる。
 その方向へと頭をもたげ、そのぬしの名を呼ぶ。
「……ジ……ク、さ……」
 喉が開かず、思うように声を出すことができなかった。口も重い。精一杯絞り出せたのが、今にも消え入りそうなこの微弱な声。
 にもかかわらず、彼はちゃんと気がついてくれた。
「ディアナ……!!」
 妻の呼ぶ自身の名をしかと受け止めたジークは、話の最中だったが、それを遮り駆け寄った。
 妻の蒼玉に、自身の黄水晶が、ゆらりと映り込む。
「……ここ、は……?」
 見知らぬ場所に、ディアナは少々戸惑った。ジークがいることで不安は緩和されているけれど、自分が置かれている状況はやはり気になる。
 軍服ではなく私服姿の夫は、妻が横たわっている傍らに設けられた椅子に腰掛けると、頬を緩めて柔らかくこう言った。
「軍の病院だ。……あれからおよそ一日半、お前はずっと眠ったままだった」
 妻の頭にそっと手を当て、指を絡ませながらくように撫でる。蟀谷こめかみに施されたガーゼに心が痛むが、こうして触れられる距離にいてくれることが、夫にとっては何よりの喜びだった。
「……一日半……」
 靄がかかったように茫とし、上手く機能しなかったディアナの思考回路。だが、夫が現状を述べてくれたことにより、その靄はとたんに消えてなくなった。
「……!?」
 おかげで状況が把握できた。……できてしまった。慌てふためいたディアナの脳内を、『家事たち』が超高速で駆け回る。
 食事に洗濯に掃除にガーデニング——やらなければならないことが怒涛のごとくリストアップされた。寝ている場合ではないと、脳内が狼狽したその勢いのままガバッと起き上がる。
「っ……!!」
 その瞬間、急激な痛みが頭部を襲った。
 一定間隔で押し寄せる鈍痛の波。頭が内側から叩き割られそうだ。
「ディアナ!!」
 反射的に頭を抱え込み、うずくまった妻を、とっさに立ち上がったジークが支えた。背中に手を当て、その上半身をゆっくりとベッドに戻す。
 と、その様子を見ていたある人物が、美しく伸びやかな声を発しながら夫婦のもとへとやって来た。
「あー、ダメダメ! まだ起き上がっちゃダメよ」
 タイミングはジークが叫んだのとほぼ同時。
 先ほど——ディアナが目を覚ます直前——までジークが話をしていた彼女である。
「今ベッド起こしてあげるから、ちょっと待ってちょうだい」
 一つに束ねた水色の髪。つややかにうねるそれを揺らしながら、彼女は手際よく療養ベッドの角度を変えた。ディアナの目線が、徐々に上へと移動する。
 体勢が安定したことで頭痛も治まってきた。が、ここで気になることが一つ。
 目の前の知的美人はいったい誰なのか。白衣を羽織っているところから察するに、どうやら彼女はドクターのようだ。
 そのあまりの美しさに、ディアナは思わず見惚れてしまった。
「医師のイザベラ・オランドよ。はじめまして、ディアナちゃん」
 花が淑やかに開くように頬笑むと、彼女——イザベラは、初対面のディアナに自己紹介した。
 鮮やかな萌葱色の虹彩と水色の髪が、纏った白によく映える。
「あ……はじめ、まして」
 緊張しながらも、なんとか挨拶を交わすことができたディアナだったが、ここで気になることがもう一つ。
「……オラン、ド?」
 彼女の名字。それを反芻する。
 これは、夫の上官であるイーサンと同じ名字だ。珍しい名字だが、偶然だろうか。
 ひょっとして……
「ウチの大熊は役に立ったかしら?」
 ……ひょっとした。
 ディアナが何に引っかかっているのかを即座に感知したイザベラは、愛嬌したたる笑い顔でヒント(というよりむしろ答え)を提供した。
 彼女とイーサンは夫婦。この関係を認識することができたディアナは、なんて素敵な組み合わせなのだろうと憧憬の念を覚えた。
 どちらも顔を合わせたのはごく短時間だが、それだけで十分伝わるほどに、二人はとても魅力的だったのである。
 と同時に、が頭をよぎった。
 それは、二人を見たことのある人物ならば、十中八九なめらかに頭を流れるであろう魔法の言葉。
 ——美女と野獣。
「!」
 なんて失礼なことを!
 ハッと我に返ると、自分で自分を静かに戒め、ディアナは顔を赤らめた。
 妻のその心情を瞬時にまるっと悟ったジーク。「大丈夫、お前だけじゃない」と、これまた静かにエールを送った。
「気分はどう? 痛いところとかない?」
「あ、はい。大丈夫です」
 自覚症状を問診してくれたイザベラに、ディアナは今の状態を包み隠さず申告した。
 大丈夫——これが、彼女の本心だ。
「本当か? 我慢せずに、ちゃんと話せ」
 けれども、それをすんなりと信用できなかったジークによって、間髪容れずにカンッと釘を刺されてしまった。
 今から遡ること一日半前。大丈夫だと言いながら意識を失った妻を目の当たりにしたのだ。夫の心理としては、至極当然だろう。
「ほ、本当です! 切ったところも痛くないし、身体もだいぶ軽くなったしっ……!」
 憂いの色を滲ませたジト目の夫に対し、妻が必死で訴えかける。それでも、夫は目元を緩めてはくれなかった。妻の本心が、よろりとよろめく。
「心配しなくて大丈夫ですよ、少将。傷は痕に残ることもないと思いますし、高カロリー輸液を点滴しているので、身体はかなりラクになっていると思います」
 そんな妻に、イザベラが助け舟を出してくれた。若い夫婦の微笑ましい光景に目を細めながら、不満そうな夫を宥める。
 イザベラがそう言うのならそうなのだろうと、ジークはとりあえず納得した。……納得した、のに。
「ディアナちゃん、ご飯あんまり食べてなかったでしょ?」
「えっ!?」
 なんとも衝撃的な事実に、今度は彼の精神がよろめいた。自身の視線をイザベラから妻へと移し、驚きを盛大に音にする。
 茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべたイザベラに、目を見開いたまま固まってしまったディアナ。
 三者の多様な感情が、しばしの沈黙を生み出した。
 そして。
「……はい」
 自身の体たらくをズバリ言い当てられたディアナが、しゅんと項垂れ、肯定した。
 ディアナが倒れた理由を端的に言うと、栄養失調だ。ここ数日、彼女はろくな食生活をしていなかった。事件に巻き込まれた日も、昼食(と呼べるかどうかも怪しい程度)に野菜スープをちょこっと喉に通しただけ。それから連中に連れ回され、疲労がオーバーフローしたうえでの出血とあれば、倒れるべくして倒れたといっても過言ではなかった。
 夫の顔がまともに見られない。
 自身の顔が、上げられない。
「一人じゃなかなか料理する気にもなれないわよね。ウチは主人がいなくても子どもたちがいるから作るけど……私一人じゃ、きっと適当に済ませてると思う。退院したら、少将に何か美味しいもの作って食べさせてもらうといいわ。せっかくの機会だもの。私も、今は主人に作ってもらってるから」
「……?」
 すると、またまたイザベラが助け舟を出してくれた。けれど、ディアナの頭上に浮かんだのは疑問符だった。
 彼女の舟に積み込まれたディアナにとって予期せぬもの。『せっかくの機会』とはいったいどういうことなのか。
 そういえば、と夫に視線を戻す。
 そういえば、なぜ夫は私服を着ているのだろうか。今日は平日のはずなのに。
 ……平日? ……いや。そもそも夫がこんなところにいるはずない。だって、今はまだ……
「……遠征、は?」
 演習が中止になったことを知らないディアナは、不思議そうな面持ちでジークに問いかけた。
 当初の予定だと、現時点であと数日残っている。ディアナはまだその心積もりでいたのだ。夫はまだ遠征中のはずであると。
「……演習は中止になった。今は、休暇中だ」
 どことなく物憂げな貌に微笑を織り交ぜ、夫は自身の現況を告げた。これに対し、『休暇なんて珍しい』とでも言うように、妻はそのつぶらな瞳をさらに丸くした。
 ——休暇中。ジークはそう言ったけれど、実のところはだ。
 今回の件で、ジークとイーサン、そしてマキシムの三名には、二週間の謹慎処分が下された。現在謹慎二日目。処分としては異例の軽さだった。
 GPSを無断で使用したことは厳罰の対象だ。これは否めない。しかし、一連の事件の首謀者であるリヴドの捕縛に成功したことが、何より高く評価されたのである。
 ……というのは建前で、実際はセオドアによる最大限の恩情なのではないかと、ジークは密かに思っていた。家族とともに過ごすための、彼なりの精一杯の計らいなのではないかと。
 本当に、彼の懐の深さには、ただただ敬服するばかりだ。
「じゃあ、私はこれで。また夕方回診に来るけど、それまでに何かあったらすぐに呼んでくださいね」
「ありがとうございました、イザベラさん」
「ありがとうございました……!」
 清楚な白衣を翻し、たおやかな歩みで病室をあとにするイザベラに、夫婦揃って謝辞を述べる。夫婦水入らずでどうぞごゆっくり——彼女の背中には、そんな温かさが滲んでいた。
 病室に二人きり。
 べつに気まずいわけではないけれど、なんとなく会話には発展しなかった。緩やかな時間の流れに、心地好さすら覚えてしまう。
 ふと、ジークは窓の外を見遣った。ここは三階。眼前には、太い幹の大きな桜の木が幾本も並んでいた。
 時季柄、当然のごとく枝に葉は一枚も残っていなかったが、そのしなやかさと逞しさに、なんともいい得ぬ美しさを感じた。
 ただ、真昼にもかかわらず、空はどんよりと曇っていた。今にも雪が降り出しそうだ。
「あ、あの……っ」
「……どうした?」
 突如、何かを思い立ったようにディアナが口を開いた。
 なにやら必死な様相の妻に、夫が優しく聞き返す。
「あの……言いつけを守らず、勝手なことしてすみませんでした。ジーク様だけではなく、皆さんにご迷惑を……」
 妻の口から紡がれたのは謝罪の言葉。申し訳なさそうに目を伏せ、眉を顰めている。
 彼女は、自分の置かれた状況、さらには、夫やその周囲の人々が置かれた状況を、かなり正確に把握していた。自分のせいで夫の演習は中止され、イーサンまでもが『休暇』になったのだと。
 いくら謝罪をしても足りない。そんなことは百も承知だが、これくらいしか、病床の自分にできることが思いつかなかった。
 だが、そんな妻に対し、夫はかぶりを振ると彼女の言葉を否定した。
「迷惑なんかじゃない。そんなこと、誰も思ってない」
「で、でもっ……!」
「お前が無事でいてくれて良かった」
 すべてはこの一言に尽きる。
 彼女が謝罪をする必要などない。自分の仲間たちも、皆一様にこう思ってくれている。自分のことのように喜んでくれているのだ。
 本当に謝罪をしなければならないのは、自分のほうだ。
「……私のほうこそ、お前に謝らねばならん」
 ざわめく心を落ち着けるようにゆっくり深呼吸すると、ジークは静かに瞳を閉じた。
 ディアナには、話したいことが、話さなければならないことが、たくさんある。体調の優れない今の彼女に打ち明けるのは非常に心苦しいが、伝えるのはこの時だと自分に言い聞かせた。
 ちらりと、ベッド脇に備え付けられている棚に視線を向ける。そこには、外された妻のピアスが一対、小さなアクセサリーケースに保管されていた。
 片方のピアスを彼女が着けることはもうない。これは、今日中に軍が回収することになっている。
「夏に、ピアスを渡しただろう?」
「え? あ、はい……」
「あの港にお前がいるとわかったのは、そのピアスのおかげだ。そのピアスは、どこにいても持ち主の居場所を知らせてくれる発信機になっている」
「発信機……」
 できるだけわかりやすく、あまり詳細になり過ぎないように、言葉を選びながら説明する。
 妻の表情がこれからどのように変化していくのか。怯えながらも、ジークは彼女を見つめ、言葉を続けた。
「お前を想ってのことだった。だが、結果としてお前を監視する形になってしまった。……本当に、すまない」
 謝罪とともに、ジークは低く深く頭を下げた。
 申し訳ないという気持ちはもちろんある。けれど、これ以上妻と顔を合わせていられないというのが本音だった。
 緊張で口内が渇く。皮膚が引き攣り、ピリピリする。
 自責の念に駆られながら、膝の上で作った両の拳をグッと握り締めた。
 そのとき。
「……頭を、上げてください」
 ふわり……と、夫の頭上に妻の声が降り注いだ。彼女の温かな声音に感化され、ゆっくりと重たい頭を持ち上げる。
 夫の瞳に映ったのは、彼が愛してやまない、溢れんばかりの妻の笑顔だった。
「助けに、来てくれたじゃありませんか」
 妻の口から織りなされる優渥な言葉。その一つ一つには、今自分がこうして生きていられるという感謝の気持ちが、つぶさに込められていた。
 勝手にいなくなった自分を、夫はちゃんと見つけてくれた。助けに来てくれた。
 機械や技術云々のことは、自分にはわからない。でも、確実にわかることがある。
 彼が自分にしていたのは『監視』なんかじゃない。自分のことを『見守って』くれていたのだ。
 それだけは、ちゃんとわかる。
 彼の想いは、ちゃんと伝わっている。
「だから、そんな顔なさらないでください。貴方が罪悪感を感じる必要なんか全然ないんです」
 そう言って、ほんの少しだけ身を乗り出すと、夫の肩に自身の手をそっと乗せた。心なしか震えるその肩を、小さな手のひらで懸命にさする。夫の罪悪感がなくなるように。不安が消えるように。
 それでも、夫が険しい表情を緩めることはなかった。
 彼にはもう一つ危惧していることがあったのだ。
 自身の肩に添えられた妻の手をキュッと握り、新たに覚悟を決めてその『もう一つ』を語る。
「今回の事件の被害者として、近いうちに警察から事情を聴かれるだろう。時期が来たら、法廷に出廷しての証言も求められる。……また、嫌な思いをさせてしまう」
 警察の事情聴取。裁判での証言。
 この二日間、散々苦しめられたにもかかわらず、また痛みを蒸し返してしまう。忌々しい記憶の喚起を強いられることで、二重に苦しめてしまうことになるのだ。
 しかし、妻の口から迷いなく告げられた言葉に、夫は思わず目を見開いた。
「その義務は、しっかり果たします。わたしにしか、できないことだから」
 翳りのない妻の眼差し。力強く煌めく真っ直ぐな眼差しが、夫の双眸を明るく照らす。
 そこには、彼女のある強い想いがあった。
「今度こそ、ちゃんと裁かれるように」
 過去に二度も踏み躙られた正当な望み。もう二度とあんな思いはしたくない。してはならないのだ。
 失われた多くのモノのために。かけがえのないモノのために。
 今度は絶対、潰えさせたりなんかしない。
「それに、わたしは大丈夫です」
 それに、こんなことで弱音を吐いてなどいられない。
 彼とともに誇りを抱いて生きてゆく。そう、心に誓ったのだ。
「だって、わたしは——」
 彼の——
「——貴方の妻ですから」

 ——妻として。
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