37 / 39
Chapter5
ムーンストーンを心に灯して(2)
しおりを挟む
右の蟀谷に走った鋭い痛み。右肩にも鈍痛を知覚し、全身を衝撃が襲った。
「ぅあっ……!!」
ディアナの口から思わず短い呻き声が漏れた。両手を後ろ手に縛られているため、蟀谷部分を反射的に押さえたくても押さえられなかった。身をよじり、激痛に悶える。首筋や背中にはじっとりと嫌な汗が滲んだ。
ディアナの反駁に激昂したリヴドは、大事な商品であることも忘れ、彼女に手を上げた。彼女の体はテーブルにぶつかり、ワインボトルとグラスを巻き込んで床に激突。その際、割れて散乱したグラスの破片で蟀谷を切ってしまったのだ。
疼く痛みを堪え、寒気を覚えながらも、ディアナはゆっくりと上半身を起こした。負傷した箇所から、何か生温かいものが流れ出ている。それは顔の輪郭を伝い、床へと滴り落ちた。……血だ。
「……忌々しいっ!」
リヴドはディアナに向かってそう吐き捨てると、踵を返し、棚に備え付けられている内線用の受話器を手に取った。
静まらぬ怒りを、そのまま相手に思いきりぶつける。
「何をしている!! 早く船を出せっ!!」
怒号とともに出帆の催促を飛ばす。先ほどまでの余裕はどこへやら。ものすごい剣幕である。
しかし、どうやら彼の望む答えは返ってこなかったようだ。
それどころか。
「……軍艦だとっ!? そんなはずは……っ、お、おいっ!! どうした!! 何があったっ!?」
なにやら彼にとって不測の事態が生じた模様。
通話が途絶えたことで、彼の焦りの色は一気に濃くなった。受話器を叩きつけるように戻すと、何かを確認するべく再び窓に近づき、外へと視線を向ける。
「!? 馬鹿な……っ!!」
信じられないといったふうに、海に広がる光景を凝視しながら、リヴドは息を呑んだ。その片目に渦巻くのは混乱。事態がいまいち飲み込めず、呆然としている。
ディアナが倒れ込んでいる場所からは、彼が目にしているものがいったい何なのか、まるきりわからない。だが、なんとなく、空が明るさを帯びたような気がした。自然的ではなく、人工的な明かりによって。
それに、先ほどからなんだか室外が騒がしい。乗組員がほかにもいることは知っている。無理矢理ここに運ばれたとき、階ごとに何人かと擦れ違った。でも、様子が違う。
何かが近づいてくる。この暗い暗い空間を照らす何かが。
光が……希望が、近づいてくる——
バァァンッ——
突如、大きな音を伴って勢いよく扉が開け放たれた。体にまで伝わってきた振動。激しく空気がうねりを上げた。
隔たりが取り払われ、内側と外側が一つに繋がる。
そのとき、ディアナの目にはっきりと飛び込んできたのは、見慣れた鮮やかな青いロングコートと、美しく長い銀髪。
「……ジー、ク、さま……?」
今、一番会いたいと切望していた、愛する夫の姿だった。
夫と目が合った。
妻と目が合った。
ここに辿り着くまでの間、ジークは不安で不安でたまらなかった。
敵を一人薙ぎ倒すたび、ディアナは本当にここにいるのだろうかと、ちゃんと無事でいるのだろうかと、幾度となく不吉な思考が脳裏をよぎった。
組織を殲滅する。根絶やしにする。彼女を救出する以外のその目的のために、乗組員全員を生きたまま確保する必要があった。少しでも多くの情報を得るために。
とはいえ、彼の心理状態では、力を加減することすら容易ではなくなっていた。気絶させた相手は数知れず。重傷を負わせた相手もいる。おかげで、イーサンからは再三の戒めを受けた。
それらを経て、ようやくここへ到達し、扉を蹴破るに至った。ようやく会えたのだ。
……それなのに。
「……」
なぜ倒れ込んでいる?
「…………」
どうしたんだ、その傷は?
「…………——」
いったい、
「…………——っ!!!!!」
ダ レ ニ ヤ ラ レ タ ?
刹那。
タァンッ——と、ジークが足で床を弾いた。そのしなやかな躯体は虚空を切り裂き、まるで疾風のごとく突き抜けた。
悍ましくも美しく宙に舞った銀糸の束。金色の眼光が狙いを定めたのは、無論、窓際に佇むハンス・リヴドただ一人。
ジークがリヴドの間合いに入るまでの速さは、まさに神速だった。両の金眼が、漆黒の片眼を、貫くように捉える。
たった今、白銀の鬼神が、降臨した。
「止めろジークッ!!」
「ジーク様っ!!」
イーサンとディアナが同時に叫んだ。
今のジークには、混じり気のない、至極純粋な殺意がある。それを危惧したゆえの両者の叫びだった。
恐怖に慄き、声も失ったリヴドに、ジークが大剣を振りかざした。
そして、次の瞬間。
ガキィ、ンッ——
ぱらり……と、壁の粉が微小な欠片とともに散ってゆく。
窓と窓の間。リヴドの顔から真横十数センチに位置する壁面に、猛然と刃先が突き立てられていた。その衝撃波により、リヴドの頬につっと一筋の裂傷が走る。
「あ……あぁ……ぁ……」
実に情けない声を上げながら、リヴドはへにゃりと腰から崩れ落ちた。彼に以前のような勢いはもうない。それでも、ジークは剣を突き立てたまま、体勢を一向に動かそうとはしなかった。
「おら。瞳孔開いてんぞ」
「……」
剣を握ったジークの両腕は、イーサンによってがっしりと掴まれていた。袖で隠れているため確認することはできないが、おそらくジークの腕には、イーサンの手の痕が、くっきりと残っているだろう。イーサンの巨体でもってそれほどの力を加えなければ、鬼神を止めることはできなかった。
乗船する前、イーサンがジャスパーと代わった理由は、ここにあったのだ。
「コイツは俺が締め上げとくから、早く嫁さんトコ行ってやれ」
落ち着いたトーンでイーサンがこう促すと、ジークはやっと腕の力を緩めた。そのまま静かに剣をおさめる。
「……ジーク様」
ぴくり……と、ジークの肩が震えた。耳に馴染んだ愛おしい声が、彼の瞳に精彩を呼び戻す。
先ほど踏み止まることができたもう一つの大きな要因。それは、自身の名を叫んだ妻の声だった。
「——っ、ディアナ……!!」
妻のもとへ駆け寄り、両膝をつくと、夫は全身全霊で彼女の体を抱き締めた。その温もりを、何よりも尊い命を、しかと包み込む。
「遅くなってすまない」
夫のこの言葉に、妻は涙を流しながら何度も何度もかぶりを振った。大粒の真珠が、夫の胸元に染みを作る。
愛する夫が助けに来てくれた。その事実だけで、今の妻には十分過ぎるくらい嬉しかったのだ。
「将軍!」
そこへ、倉庫を捜査し終えたジャスパーが駆け込んできた。それと同時に、船内の照明が一斉に点灯し、闇が打ち砕かれる。
彼の凛然とした声が、室内に響き渡った。
「乗組員全員の身柄を確保! 実行犯と思われる二人組も、拘束いたしました!」
背筋を真っ直ぐに伸ばし、ピッと敬礼しながら、事態がほぼ鎮静したことをジークに報告する。
倉庫の捜索終了後、ジャスパーたち七名はすぐさま乗船。艦艇五隻で応援に駆けつけた部隊と合流し、ジークたち先行部隊の援護に回っていた。隙間という隙間までくまなく調べ上げ、今しがた、船内の制圧を完了させたのである。警察も出動し、現在陸路からこちらへと向かっているらしい。
「ご無事だったのですね……」
ジークの腕に抱かれたディアナを見て、ジャスパーは安堵した。二人が一緒にいるというその幸せを噛み締め、顔を綻ばせる。ディアナもまた、それに応えるように、謝意を含んだ笑みを返した。
が、そんなふうに浸っていられたのもつかの間。ディアナの蟀谷部分に押し当てられた白い布——おそらくテーブルクロスを引き裂いたもの——が、真っ赤に染まっていることに気づいたジャスパーは、ぎょっと目を見開いた。
「怪我をされたのですかっ!?」
「あっ、いえ、大丈夫です。たぶん首から上なので、派手に出血しているだけで……」
平然とそう言ってのけたディアナだったが、傷口を押さえているその白い手にも、縛られた痕が痛々しく残っていた。眉を顰め、心配そうに見つめるジークの表情にも胸が痛む。
「誰か!! 医療班をこちらに呼んでくれっ!!」
室外にいる兵士にジャスパーが大声で支持を飛ばすと、即座に「了解!」という明朗な返事が返ってきた。
外には、港口……もとい、この船を封鎖するように、二隻の戦艦と三隻の支援艇が停泊している。万が一に備えて編成された医療班も、すでに上陸し、待機済みである。
おそらくこれらの艦艇は、元帥自ら命令を下し、こちらに派遣したものだろう。
港は、軍が完全に掌握した。
「……なぜ、この場所がわかった……」
しばし流れた沈黙の後。
イーサンの足下にいまだへたり込んだままのリヴドが力なく呟いた。肩を落とし、項垂れたその姿からは、以前のような若々しい威勢などもはや微塵も感じられない。
この短時間で急速に衰え、霞み、ただの初老に成り下がったリヴドに対し、ジークが吐き捨てるようにこう言った。
「……皮肉だな。貴様が蔑んだヒトの生み出した技術により、その身を滅ぼすことになるとは」
冷酷に放たれた言葉。これには、戦友であり親友である彼への想いが、つぶさに込められていた。
この男のせいで投獄され、貴重な数年を潰されたマキシム。そんな彼が、闇に堕ちることなく身を窶した結果——誇りを失わなかった結果が、今のこの状況に繋がっているのだ。
このとき、ジークたちが装着している通信機からは、かすかに鼻をすする音が聞こえた。
「……っ、私は間違ってなどいない!! 竜人こそ、神に選ばれし至高の存在!! この世界は我々が導き、統べねばならぬと、なぜ解らんっ!!」
この短時間で年相応に老け込んだリヴド。だが、まだその隻眼は死んではいなかった。
ディアナの指摘に異を唱えるように、同族であるジークに共感を求めるように、ほとんど半狂乱に近い状態で、喚き、怒鳴り散らす。
けれど、ジークはこれに応じる代わりに、まるで氷のように凍てついた視線を浴びせかけた。
この男には、話すことなど……話したいことなど、何もない。然るべきところが、然るべき裁きを下すのを、粛々と待つだけだ。
「……連れていけ」
ジークの命令に黙礼したジャスパーが、リヴドの腕を掴み、無理矢理立ち上がらせた。悔しさに顔を歪めながらも、その全身からは覇気がまったく感じられない。
とくに抵抗する素振りも見せることなく、ハンス・リヴド伯爵議員は、この場をあとにした。
たちどころに閑散とした広いスイートルーム。今この部屋に残っているのは、ディアナとジーク、それからイーサンの三名だ。
ディアナの身体を労りながら、間もなく到着するであろう医療班を待つ。
「……大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です。たぶん血も止まって——」
「——ないと思うぞそれは」
先ほどより回復したとはいえ、ディアナの蟀谷からは依然血が流れ続けていた。不安げに顔を悩ませる夫に、両眉を上げて強がってはみたものの、やはりまだ少し疼く。
それでも、夫に抱かれていることで、妻の身体は驚くくらい軽くなっていた。気持ちまでもが癒される。
さらに、彼女にはずっと気になっていることがあった。夫の腕からひょこっと顔を出し、その対象へと目を向ける。
「……オランド中将、ですか?」
ディアナが遠慮がちに話し掛けた相手は、熊が切り株に座り込むごとく窓枠に腰掛けたイーサンだった。
ここで彼を見たときから……ともすれば、数か月前からずっと。
ディアナは、夫の上官であり、夫の口から名前をよく耳にしていた彼と、いつか話してみたいと強く望んでいたのである。
「俺のこと知ってくれてるとは光栄だな」
唐突なディアナの質問に一瞬目を丸くしたイーサンだったが、すぐにいつものように白い犬歯を覗かせた。「よっこらせ」と、窓枠から巨体を持ち上げる。その足で後輩夫婦に近づくと、「できればもっとちゃんとした形で会いたかったけどな」と眉を下げた。そんなイーサンにつられ、夫婦も表情を和らげる。
長い長い夜が、ようやく明けようとしていた。
「あー、始末書考えねぇとなー」
長身をさらに伸ばし、ググッと背伸びをしながらイーサンが言った。これに焦ったジークが間髪容れずに口を開く。
「そんなっ!! この件は私一人の——」
「るっせ。後輩が何言ってんだ。先輩にもかっこつけさせろ」
が、聞き入れられないとばかりにイーサンが言葉を被せた。始末書だけで事が済むとは到底思えないが、それも仕方がない。
可愛い後輩のためなら一肌だって二肌だって脱いでやる。昔から、彼はそう心に決めているのだ。
「……ん?」
不意に複数の足音がイーサンの鼓膜を揺らした。それらはしだいに大きさを増し、こちらへと近づいてくる。
「来たみたいだな。医療班」
「そのようですね」
同じくジークにも聞こえていたようで、腕の中の妻にもう一度容態を確認しようと声を掛けた。
「ディアナ、大丈夫か?」
だが。
「……あ、はい……」
なんだか反応が薄い。目も虚ろだ。
「ディアナ……?」
傷口に当てられた血塗れの布が、するりと彼女の手から滑り落ちた。
「……だい……じょ、ぶ……」
長い睫毛が、ふるりと揺れる。
「……——」
「!? ディアナッ——!!」
彼女の蒼眼は、瞼に覆われた。
「ぅあっ……!!」
ディアナの口から思わず短い呻き声が漏れた。両手を後ろ手に縛られているため、蟀谷部分を反射的に押さえたくても押さえられなかった。身をよじり、激痛に悶える。首筋や背中にはじっとりと嫌な汗が滲んだ。
ディアナの反駁に激昂したリヴドは、大事な商品であることも忘れ、彼女に手を上げた。彼女の体はテーブルにぶつかり、ワインボトルとグラスを巻き込んで床に激突。その際、割れて散乱したグラスの破片で蟀谷を切ってしまったのだ。
疼く痛みを堪え、寒気を覚えながらも、ディアナはゆっくりと上半身を起こした。負傷した箇所から、何か生温かいものが流れ出ている。それは顔の輪郭を伝い、床へと滴り落ちた。……血だ。
「……忌々しいっ!」
リヴドはディアナに向かってそう吐き捨てると、踵を返し、棚に備え付けられている内線用の受話器を手に取った。
静まらぬ怒りを、そのまま相手に思いきりぶつける。
「何をしている!! 早く船を出せっ!!」
怒号とともに出帆の催促を飛ばす。先ほどまでの余裕はどこへやら。ものすごい剣幕である。
しかし、どうやら彼の望む答えは返ってこなかったようだ。
それどころか。
「……軍艦だとっ!? そんなはずは……っ、お、おいっ!! どうした!! 何があったっ!?」
なにやら彼にとって不測の事態が生じた模様。
通話が途絶えたことで、彼の焦りの色は一気に濃くなった。受話器を叩きつけるように戻すと、何かを確認するべく再び窓に近づき、外へと視線を向ける。
「!? 馬鹿な……っ!!」
信じられないといったふうに、海に広がる光景を凝視しながら、リヴドは息を呑んだ。その片目に渦巻くのは混乱。事態がいまいち飲み込めず、呆然としている。
ディアナが倒れ込んでいる場所からは、彼が目にしているものがいったい何なのか、まるきりわからない。だが、なんとなく、空が明るさを帯びたような気がした。自然的ではなく、人工的な明かりによって。
それに、先ほどからなんだか室外が騒がしい。乗組員がほかにもいることは知っている。無理矢理ここに運ばれたとき、階ごとに何人かと擦れ違った。でも、様子が違う。
何かが近づいてくる。この暗い暗い空間を照らす何かが。
光が……希望が、近づいてくる——
バァァンッ——
突如、大きな音を伴って勢いよく扉が開け放たれた。体にまで伝わってきた振動。激しく空気がうねりを上げた。
隔たりが取り払われ、内側と外側が一つに繋がる。
そのとき、ディアナの目にはっきりと飛び込んできたのは、見慣れた鮮やかな青いロングコートと、美しく長い銀髪。
「……ジー、ク、さま……?」
今、一番会いたいと切望していた、愛する夫の姿だった。
夫と目が合った。
妻と目が合った。
ここに辿り着くまでの間、ジークは不安で不安でたまらなかった。
敵を一人薙ぎ倒すたび、ディアナは本当にここにいるのだろうかと、ちゃんと無事でいるのだろうかと、幾度となく不吉な思考が脳裏をよぎった。
組織を殲滅する。根絶やしにする。彼女を救出する以外のその目的のために、乗組員全員を生きたまま確保する必要があった。少しでも多くの情報を得るために。
とはいえ、彼の心理状態では、力を加減することすら容易ではなくなっていた。気絶させた相手は数知れず。重傷を負わせた相手もいる。おかげで、イーサンからは再三の戒めを受けた。
それらを経て、ようやくここへ到達し、扉を蹴破るに至った。ようやく会えたのだ。
……それなのに。
「……」
なぜ倒れ込んでいる?
「…………」
どうしたんだ、その傷は?
「…………——」
いったい、
「…………——っ!!!!!」
ダ レ ニ ヤ ラ レ タ ?
刹那。
タァンッ——と、ジークが足で床を弾いた。そのしなやかな躯体は虚空を切り裂き、まるで疾風のごとく突き抜けた。
悍ましくも美しく宙に舞った銀糸の束。金色の眼光が狙いを定めたのは、無論、窓際に佇むハンス・リヴドただ一人。
ジークがリヴドの間合いに入るまでの速さは、まさに神速だった。両の金眼が、漆黒の片眼を、貫くように捉える。
たった今、白銀の鬼神が、降臨した。
「止めろジークッ!!」
「ジーク様っ!!」
イーサンとディアナが同時に叫んだ。
今のジークには、混じり気のない、至極純粋な殺意がある。それを危惧したゆえの両者の叫びだった。
恐怖に慄き、声も失ったリヴドに、ジークが大剣を振りかざした。
そして、次の瞬間。
ガキィ、ンッ——
ぱらり……と、壁の粉が微小な欠片とともに散ってゆく。
窓と窓の間。リヴドの顔から真横十数センチに位置する壁面に、猛然と刃先が突き立てられていた。その衝撃波により、リヴドの頬につっと一筋の裂傷が走る。
「あ……あぁ……ぁ……」
実に情けない声を上げながら、リヴドはへにゃりと腰から崩れ落ちた。彼に以前のような勢いはもうない。それでも、ジークは剣を突き立てたまま、体勢を一向に動かそうとはしなかった。
「おら。瞳孔開いてんぞ」
「……」
剣を握ったジークの両腕は、イーサンによってがっしりと掴まれていた。袖で隠れているため確認することはできないが、おそらくジークの腕には、イーサンの手の痕が、くっきりと残っているだろう。イーサンの巨体でもってそれほどの力を加えなければ、鬼神を止めることはできなかった。
乗船する前、イーサンがジャスパーと代わった理由は、ここにあったのだ。
「コイツは俺が締め上げとくから、早く嫁さんトコ行ってやれ」
落ち着いたトーンでイーサンがこう促すと、ジークはやっと腕の力を緩めた。そのまま静かに剣をおさめる。
「……ジーク様」
ぴくり……と、ジークの肩が震えた。耳に馴染んだ愛おしい声が、彼の瞳に精彩を呼び戻す。
先ほど踏み止まることができたもう一つの大きな要因。それは、自身の名を叫んだ妻の声だった。
「——っ、ディアナ……!!」
妻のもとへ駆け寄り、両膝をつくと、夫は全身全霊で彼女の体を抱き締めた。その温もりを、何よりも尊い命を、しかと包み込む。
「遅くなってすまない」
夫のこの言葉に、妻は涙を流しながら何度も何度もかぶりを振った。大粒の真珠が、夫の胸元に染みを作る。
愛する夫が助けに来てくれた。その事実だけで、今の妻には十分過ぎるくらい嬉しかったのだ。
「将軍!」
そこへ、倉庫を捜査し終えたジャスパーが駆け込んできた。それと同時に、船内の照明が一斉に点灯し、闇が打ち砕かれる。
彼の凛然とした声が、室内に響き渡った。
「乗組員全員の身柄を確保! 実行犯と思われる二人組も、拘束いたしました!」
背筋を真っ直ぐに伸ばし、ピッと敬礼しながら、事態がほぼ鎮静したことをジークに報告する。
倉庫の捜索終了後、ジャスパーたち七名はすぐさま乗船。艦艇五隻で応援に駆けつけた部隊と合流し、ジークたち先行部隊の援護に回っていた。隙間という隙間までくまなく調べ上げ、今しがた、船内の制圧を完了させたのである。警察も出動し、現在陸路からこちらへと向かっているらしい。
「ご無事だったのですね……」
ジークの腕に抱かれたディアナを見て、ジャスパーは安堵した。二人が一緒にいるというその幸せを噛み締め、顔を綻ばせる。ディアナもまた、それに応えるように、謝意を含んだ笑みを返した。
が、そんなふうに浸っていられたのもつかの間。ディアナの蟀谷部分に押し当てられた白い布——おそらくテーブルクロスを引き裂いたもの——が、真っ赤に染まっていることに気づいたジャスパーは、ぎょっと目を見開いた。
「怪我をされたのですかっ!?」
「あっ、いえ、大丈夫です。たぶん首から上なので、派手に出血しているだけで……」
平然とそう言ってのけたディアナだったが、傷口を押さえているその白い手にも、縛られた痕が痛々しく残っていた。眉を顰め、心配そうに見つめるジークの表情にも胸が痛む。
「誰か!! 医療班をこちらに呼んでくれっ!!」
室外にいる兵士にジャスパーが大声で支持を飛ばすと、即座に「了解!」という明朗な返事が返ってきた。
外には、港口……もとい、この船を封鎖するように、二隻の戦艦と三隻の支援艇が停泊している。万が一に備えて編成された医療班も、すでに上陸し、待機済みである。
おそらくこれらの艦艇は、元帥自ら命令を下し、こちらに派遣したものだろう。
港は、軍が完全に掌握した。
「……なぜ、この場所がわかった……」
しばし流れた沈黙の後。
イーサンの足下にいまだへたり込んだままのリヴドが力なく呟いた。肩を落とし、項垂れたその姿からは、以前のような若々しい威勢などもはや微塵も感じられない。
この短時間で急速に衰え、霞み、ただの初老に成り下がったリヴドに対し、ジークが吐き捨てるようにこう言った。
「……皮肉だな。貴様が蔑んだヒトの生み出した技術により、その身を滅ぼすことになるとは」
冷酷に放たれた言葉。これには、戦友であり親友である彼への想いが、つぶさに込められていた。
この男のせいで投獄され、貴重な数年を潰されたマキシム。そんな彼が、闇に堕ちることなく身を窶した結果——誇りを失わなかった結果が、今のこの状況に繋がっているのだ。
このとき、ジークたちが装着している通信機からは、かすかに鼻をすする音が聞こえた。
「……っ、私は間違ってなどいない!! 竜人こそ、神に選ばれし至高の存在!! この世界は我々が導き、統べねばならぬと、なぜ解らんっ!!」
この短時間で年相応に老け込んだリヴド。だが、まだその隻眼は死んではいなかった。
ディアナの指摘に異を唱えるように、同族であるジークに共感を求めるように、ほとんど半狂乱に近い状態で、喚き、怒鳴り散らす。
けれど、ジークはこれに応じる代わりに、まるで氷のように凍てついた視線を浴びせかけた。
この男には、話すことなど……話したいことなど、何もない。然るべきところが、然るべき裁きを下すのを、粛々と待つだけだ。
「……連れていけ」
ジークの命令に黙礼したジャスパーが、リヴドの腕を掴み、無理矢理立ち上がらせた。悔しさに顔を歪めながらも、その全身からは覇気がまったく感じられない。
とくに抵抗する素振りも見せることなく、ハンス・リヴド伯爵議員は、この場をあとにした。
たちどころに閑散とした広いスイートルーム。今この部屋に残っているのは、ディアナとジーク、それからイーサンの三名だ。
ディアナの身体を労りながら、間もなく到着するであろう医療班を待つ。
「……大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です。たぶん血も止まって——」
「——ないと思うぞそれは」
先ほどより回復したとはいえ、ディアナの蟀谷からは依然血が流れ続けていた。不安げに顔を悩ませる夫に、両眉を上げて強がってはみたものの、やはりまだ少し疼く。
それでも、夫に抱かれていることで、妻の身体は驚くくらい軽くなっていた。気持ちまでもが癒される。
さらに、彼女にはずっと気になっていることがあった。夫の腕からひょこっと顔を出し、その対象へと目を向ける。
「……オランド中将、ですか?」
ディアナが遠慮がちに話し掛けた相手は、熊が切り株に座り込むごとく窓枠に腰掛けたイーサンだった。
ここで彼を見たときから……ともすれば、数か月前からずっと。
ディアナは、夫の上官であり、夫の口から名前をよく耳にしていた彼と、いつか話してみたいと強く望んでいたのである。
「俺のこと知ってくれてるとは光栄だな」
唐突なディアナの質問に一瞬目を丸くしたイーサンだったが、すぐにいつものように白い犬歯を覗かせた。「よっこらせ」と、窓枠から巨体を持ち上げる。その足で後輩夫婦に近づくと、「できればもっとちゃんとした形で会いたかったけどな」と眉を下げた。そんなイーサンにつられ、夫婦も表情を和らげる。
長い長い夜が、ようやく明けようとしていた。
「あー、始末書考えねぇとなー」
長身をさらに伸ばし、ググッと背伸びをしながらイーサンが言った。これに焦ったジークが間髪容れずに口を開く。
「そんなっ!! この件は私一人の——」
「るっせ。後輩が何言ってんだ。先輩にもかっこつけさせろ」
が、聞き入れられないとばかりにイーサンが言葉を被せた。始末書だけで事が済むとは到底思えないが、それも仕方がない。
可愛い後輩のためなら一肌だって二肌だって脱いでやる。昔から、彼はそう心に決めているのだ。
「……ん?」
不意に複数の足音がイーサンの鼓膜を揺らした。それらはしだいに大きさを増し、こちらへと近づいてくる。
「来たみたいだな。医療班」
「そのようですね」
同じくジークにも聞こえていたようで、腕の中の妻にもう一度容態を確認しようと声を掛けた。
「ディアナ、大丈夫か?」
だが。
「……あ、はい……」
なんだか反応が薄い。目も虚ろだ。
「ディアナ……?」
傷口に当てられた血塗れの布が、するりと彼女の手から滑り落ちた。
「……だい……じょ、ぶ……」
長い睫毛が、ふるりと揺れる。
「……——」
「!? ディアナッ——!!」
彼女の蒼眼は、瞼に覆われた。
0
お気に入りに追加
183
あなたにおすすめの小説
この度、青帝陛下の番になりまして
四馬㋟
恋愛
蓬莱国(ほうらいこく)を治める青帝(せいてい)は人ならざるもの、人の形をした神獣――青龍である。ゆえに不老不死で、お世継ぎを作る必要もない。それなのに私は青帝の妻にされ、后となった。望まれない后だった私は、民の反乱に乗して後宮から逃げ出そうとしたものの、夫に捕まり、殺されてしまう。と思ったら時が遡り、夫に出会う前の、四年前の自分に戻っていた。今度は間違えない、と決意した矢先、再び番(つがい)として宮城に連れ戻されてしまう。けれど状況は以前と変わっていて……。
まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
果たされなかった約束
家紋武範
恋愛
子爵家の次男と伯爵の妾の娘の恋。貴族の血筋と言えども不遇な二人は将来を誓い合う。
しかし、ヒロインの妹は伯爵の正妻の子であり、伯爵のご令嗣さま。その妹は優しき主人公に密かに心奪われており、結婚したいと思っていた。
このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。
怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。
※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
実はわたし、お姫様でした!~平民王女ライラの婿選び~
鈴宮(すずみや)
恋愛
王都の隣町で宝石商の娘として暮らしていたライラ。実はライラは、若くして亡くなったこの国の王太子、クラウスの実の娘だった。
クラウスが亡くなったことをキッカケに、次期王位後継者として強引に城へ引き取られることになったライラ。平民出身の彼女にとって王宮暮らしは窮屈だし、礼儀作法を身に着けるのも後継者教育も苦労の連続。おまけにクラウスの妃であるゼルリダは、継子であるライラに冷たく当たる。
そんな中、ライラは次期王配に相応しい人物を婿に選ぶよう、祖父である国王から厳命を受ける。けれど、王配候補の貴族たちも一筋縄ではいかない癖のある人物ばかり。
果たしてライラは、素敵なお婿さんをゲットできるのか?
※不定期、のんびり更新を予定しています。
「お前を愛するつもりはない」な仮面の騎士様と結婚しました~でも白い結婚のはずなのに溺愛してきます!~
卯月ミント
恋愛
「お前を愛するつもりはない」
絵を描くのが趣味の侯爵令嬢ソールーナは、仮面の英雄騎士リュクレスと結婚した。
だが初夜で「お前を愛するつもりはない」なんて言われてしまい……。
ソールーナだって好きでもないのにした結婚である。二人はお互いカタチだけの夫婦となろう、とその夜は取り決めたのだが。
なのに「キスしないと出られない部屋」に閉じ込められて!?
「目を閉じてくれるか?」「えっ?」「仮面とるから……」
書き溜めがある内は、1日1~話更新します
それ以降の更新は、ある程度書き溜めてからの投稿となります
*仮面の俺様ナルシスト騎士×絵描き熱中令嬢の溺愛ラブコメです。
*ゆるふわ異世界ファンタジー設定です。
*コメディ強めです。
*hotランキング14位行きました!お読みいただき&お気に入り登録していただきまして、本当にありがとうございます!
美しい公爵様の、凄まじい独占欲と溺れるほどの愛
らがまふぃん
恋愛
こちらは以前投稿いたしました、 美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛 の続編となっております。前作よりマイルドな作品に仕上がっておりますが、内面のダークさが前作よりはあるのではなかろうかと。こちらのみでも楽しめるとは思いますが、わかりづらいかもしれません。よろしかったら前作をお読みいただいた方が、より楽しんでいただけるかと思いますので、お時間の都合のつく方は、是非。時々予告なく残酷な表現が入りますので、苦手な方はお控えください。 *早速のお気に入り登録、しおり、エールをありがとうございます。とても励みになります。前作もお読みくださっている方々にも、多大なる感謝を! ※R5.7/23本編完結いたしました。たくさんの方々に支えられ、ここまで続けることが出来ました。本当にありがとうございます。ばんがいへんを数話投稿いたしますので、引き続きお付き合いくださるとありがたいです。この作品の前作が、お気に入り登録をしてくださった方が、ありがたいことに200を超えておりました。感謝を込めて、前作の方に一話、近日中にお届けいたします。よろしかったらお付き合いください。 ※R5.8/6ばんがいへん終了いたしました。長い間お付き合いくださり、また、たくさんのお気に入り登録、しおり、エールを、本当にありがとうございました。 ※R5.9/3お気に入り登録200になっていました。本当にありがとうございます(泣)。嬉しかったので、一話書いてみました。 ※R5.10/30らがまふぃん活動一周年記念として、一話お届けいたします。 ※R6.1/27美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛(前作) と、こちらの作品の間のお話し 美しく冷酷な公爵令息様の、狂おしい熱情に彩られた愛 始めました。お時間の都合のつく方は、是非ご一読くださると嬉しいです。
*らがまふぃん活動二周年記念として、R6.11/4に一話お届けいたします。少しでも楽しんでいただけますように。
聖女を騙った少女は、二度目の生を自由に生きる
夕立悠理
恋愛
ある日、聖女として異世界に召喚された美香。その国は、魔物と戦っているらしく、兵士たちを励まして欲しいと頼まれた。しかし、徐々に戦況もよくなってきたところで、魔法の力をもった本物の『聖女』様が現れてしまい、美香は、聖女を騙った罪で、処刑される。
しかし、ギロチンの刃が落とされた瞬間、時間が巻き戻り、美香が召喚された時に戻り、美香は二度目の生を得る。美香は今度は魔物の元へ行き、自由に生きることにすると、かつては敵だったはずの魔王に溺愛される。
しかし、なぜか、美香を見捨てたはずの護衛も執着してきて――。
※小説家になろう様にも投稿しています
※感想をいただけると、とても嬉しいです
※著作権は放棄してません
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる