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Chapter5
クリスタルにベーゼと祈りを(2)
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ティーセットと夕刊を片し、この日は早々に寝床へとついた。なるべく明日に響かないように、というディアナからの提案。それも、かなり張り切った提案だった。
しかし、いつもより早い時間の入眠というのは、体が慣れていないせいか、実際に行うことはなかなか難しい。
眠れぬままディアナが布団の中でもぞもぞとしていると、同じく起きていたジークが腕を伸ばし、ベッドサイドランプを点灯した。
「だから無理せずいつもの時間でいいと言ったのに」
「……~~っ」
サンセットカラーに淡く浮かび上がった対照的な夫婦の姿。
上半身を起こし眉を下げて笑う夫に対し、妻はうつ伏せの状態で枕に顔面をぼすんと埋めていた。「それでは息ができんだろう?」と、夫が妻を枕からぺりっと剥がす。
その枕をヘッドボードに立て掛け、ぽすんと背中を預けると、少々バツの悪そうな妻を後ろから抱え込んでベッドに座った。妻の体を冷やさぬよう、彼女の肩の辺りまで羽毛布団を持ち上げてやる。
先ほどと同様、互いに前を向いているため妻の表情は見えないが、後ろから見下ろした感じでなんとなくわかる。
このように座らされている今の状況は大変不本意である——そう、後頭部が語っている。
滅多にお目にかかれない妻のレアな姿。そのあまりの愛らしさに、夫は思わず苦笑を漏らした。
「……すみませんでした」
しかし一変。今度は、まるで叱られて耳を伏せた子犬のように、しょんぼりと項垂れてしまった。
貴方の言うとおりにするべきでした——そう、後頭部が語っている。
「謝らなくていい。私は嬉しいぞ。お前と少しでも話ができて」
そんな妻に、夫は今の率直な気持ちを伝える。指通りの良い金糸を梳くように撫でてやると、ようやく彼女は頭を上げてくれた。
身体を労ってくれるその気遣いはありがたい。本当にありがたいのだが、正直なところ、夫は少しでも長く妻と声を交わしていたかった。
寂しい気持ちは、お互い様だ。
「あの……」
「どうした?」
と、不意にディアナが自身の頭頂部を夫の胸に凭せ掛けた。ぐいっと顎を持ち上げ、夫と視線を合わせる。
夫の眼に映った妻の双眸は、水平線に沈む夕日に照らされた海のごとく、揺らめき、輝いていた。
「わたし、ジーク様にずっとお聞きしたいことがあって、ですね」
「聞きたいこと?」
「はい。今このタイミングで……というのは、いかがなものかと自分でも思うのですが」
自分から言い出したものの、まだどこかで睡眠時間を気にしていたディアナ。けれど、ジークにしてみれば『聞かない』という選択肢などありえなかった。ふわりと微笑み、彼女が話しやすい雰囲気を作ってやる。
「いや、構わん。話してくれ」
夫に促された妻は、頭を戻し、足を横に流すと、上半身だけ彼のほうへ向き直った。彼にその身を預けたまま、逞しい胸元に自身の両手を置き、腰を捻るようにして目線を結び付ける。
それから、なるべく丁寧に考えを纏めるよう意識し、ゆっくりと瑞々しいその唇を開いた。
「ジーク様の理想、といいますか、その……二つの種族が、本当の意味で共生できる社会を実現するために、貴方が尽力されているその理由を、聞かせていただきたいな……と」
意識し過ぎるあまり、訥々とした口調になってしまったけれど、なんとか言葉にすることはできた。
ディアナが結婚当初からひっそりと抱いていた疑問。
ヒトと竜人の共存共栄——この施策に対するジークの姿勢を見ていると、国の方針だからという単純な理由だけで彼が動いているとは到底思えなかった。
結婚しておよそ十ヵ月。ずっと見てきた。彼のことを。
身を粉にし、この施策と真摯に向き合う彼の姿を。
だからこその疑問だった。
「……」
「……ジーク様?」
「うーん……? 改めて説明しようと思うと、意外に難しいものだな」
これを受けたジークは、目をぱちくりとさせ、ほんの少しフリーズしたあと、眉を顰めて首を傾げた。彼にとって、まったくもって予期せぬ質問。視線を左上に向けたり、目を瞑ったりして、必死に何かを捻り出そうとしている。
当然のごとく、というべきか。妻は夫の腕の中で衝撃に見舞われた。
「す、すみませ……っ」
これほどまで夫が呻吟するとは思わなかったゆえ、なんともいい得ぬ申し訳なさに苛まれた。このままさらに布団を引き摺り上げ、頭からすっぽりと被ってしまいたい。
……潜りたい。
「ああいや、責めているわけじゃない。……そうだな。そんなに複雑なことではないんだが」
こう前置きすると、オロオロする妻を宥め、夫は静かに語り始めた。
いまいち彼女の質問を自身の中で消化しきれていないため、彼女の意に沿えるかどうかはわからないが、とりあえず自身の言葉で綴るよう心掛けてみる。
彼女の言う、自身の『理想』を。
「幼い頃から、『ヒトだから』、『竜人だから』という理由だけで括りを設けることには抵抗があった。おそらく、これは両親の影響だろうな」
物心ついた頃には、自然に備わっていた感覚。『教育方針』と呼ぶほど仰々しいものではなかった。周囲の貴族にとって『当たり前』ではないことが、ジークにとっては『当たり前』だったという、ただそれだけのこと。
何故と訊かれ、改めて説くことが難しい所以は、きっとこのせいだ。
「以前、シュトラス元帥に会ったことがあるだろう? 彼と父は親友同士で、頻繁に家族ぐるみの付き合いをしていた」
非常に懇意な間柄であったフレイム家とシュトラス家。互いの家を行き来したことも何度もある。
セオドアの子供たちとはとても気が合い、よく一緒に遊んだりもした。無駄に尖った貴族の御子息や御令嬢と付き合うよりもよほど楽しかったし、充実した時間を過ごすことができた。
その充実した時間の中には、自分のことを本当の息子のように可愛がってくれた、彼の妻の存在があった。
「彼の奥さんはヒトでな。私もずいぶんと世話になったが、特別意識したことなど一度もないし、意識すること自体ナンセンスだと思っている」
両親が不在のときは、彼女が面倒を見てくれたことも多々あった。
飾り気のない実にさばさばとした性格で、麗しい外見とは裏腹に、その内側には一本の大きな幹が聳えているような、そんな印象だった。
彼女もまた、軍人を支えるヒト——厳しくも優しいヒトなのだ。
セオドアの妻、花屋の棟梁一家、マキシム、ジャスパー、イザベラ……昔から、ジークの周りには常にたくさんのヒトがいたが、彼らのことを特別視したことも蔑視したことも、一度としてない。
異なる種族であることは認識しているし、それに伴う『違い』を否むつもりもない。
それでも、種族間での優劣など誰にも決められないし、そもそも判断のつけようがない。そう思っている。
「お前と結婚したのも、たまたまお前がヒトだっただけだ。仮にお前が竜人だったとしても、私はお前に結婚を申し込んでいた」
種族よりも個々に目を向け、個々を尊重し合い、個々が為せることを為せるかぎり懸命に取り組めばいい。今までだって、そうしてきたのだから。
立ち止まって、挫けて、躓いて、転んで。
足りないものを互いに補い合ってきたからこそ、この世界はここまで発展を遂げた。
振り返って、もがいて、抗って、立ち上がって。
二つの種族が存在したからこそ、自分たちは、今こうして生きていられるのだ。
「種族や身分に捉われることで、大切な者と過ごすその選択肢を狭めたくはない。それらに捉われ、あらゆる可能性を潰し、芽を摘み取るのは、あまりに虚し過ぎるからな。それに……」
そうして、これからも生きてゆく。
「そんな世界など、つまらんだろう?」
命を、繋いでゆく——
刹那。
ジークの話に終始一貫してじっと耳を傾けていたディアナだったが、夫が話し終えるやいなや、勢いよく彼に抱き付いた。
彼の首の後ろに両腕を回し、しがみ付くように、ぎゅっと。
「……ど、どうした?」
唐突な妻の挙動に驚き、一瞬まごついてしまったものの、夫はそれにちゃんと応えた。右手を背中に当て、左手を頭に添える。
力を入れ過ぎているせいか、小さなその体は、心なしか震えていた。彼女の口元が鎖骨に当たっている感触はあるのだが、おかげでその顔色を読むことはできない。
いったいどうしてしまったのか。何かアクションがあるかと待ってみても、顔をあげる気配も、声を上げる気配も、一向にない。
もしかすると、自分の主張や言葉の中に、彼女の気に障ることがあったのだろうかと不安になってみたり。
そのとき、
「わたし……」
ようやくディアナが声を発した。
まるで雨粒のようなそれは、ジークの鎖骨にぽたりと落ち、柔らかな温もりへと変貌を遂げる。
戸惑うあまり腕の力を緩めてしまった夫に、彼女はそのままの体勢で言葉を滴下し続けた。
「わたし、今まで『こうしたい』とか『ああしたい』っていう願望を持ったことがほとんどないんです。……たとえ持ったとしても、それほど強く思えるものって、あまりなくて……」
「……」
ぽたり、ぽたり。
落とされた妻の一言一言が、夫の心に波紋を作った。幾重にも重なったそれらが、夫の心奥の琴線を弾き、愛おしさとともに共鳴する。
「……でも」
ぽた——
「でも、今とても強く思います。ジーク様の理想が実現するように祈りたいって……理想を実現する貴方を、隣で支えたいって」
「ディアナ……」
夫の瞳を真っ直ぐに見つめる弛みない妻の眼差し。
澄み切った今の彼女の双眸には、愛する彼の姿しか映ってはいなかった。
「貴方のような素晴らしい方と結婚できたこと……貴方の妻でいられること……わたしは、心の底から誇りに思います」
「……——っ」
身体の奥底からとめどなく込み上げてくる熱い感情。狂おしいほどに滾るこの感情を、上手く表現する言葉が見つからない。
もどかしくて、苦しくて、切なくて、優しくて。
気がつけば、二人の世界は反転し、自然と唇が重なり合っていた。しだいに荒くなる息遣いが、交わり、互いの体内へと流れ込む。
肌が、心が、焼けるほどに熱い。
今にも、溶けてしまいそうなほど。
「……っ、ジ……ク、さまっ——」
触れられた部分に咲いた赤い花。この花がずっと消えなければいいのにと、ディアナは思った。
この痛みも、熱も、苦しみも……全部、全部。
彼が戻ってくるまでずっと……ずっと、消えなければいいのに、と。
消えないでほしい、と。
そう、祈った。
しかし、いつもより早い時間の入眠というのは、体が慣れていないせいか、実際に行うことはなかなか難しい。
眠れぬままディアナが布団の中でもぞもぞとしていると、同じく起きていたジークが腕を伸ばし、ベッドサイドランプを点灯した。
「だから無理せずいつもの時間でいいと言ったのに」
「……~~っ」
サンセットカラーに淡く浮かび上がった対照的な夫婦の姿。
上半身を起こし眉を下げて笑う夫に対し、妻はうつ伏せの状態で枕に顔面をぼすんと埋めていた。「それでは息ができんだろう?」と、夫が妻を枕からぺりっと剥がす。
その枕をヘッドボードに立て掛け、ぽすんと背中を預けると、少々バツの悪そうな妻を後ろから抱え込んでベッドに座った。妻の体を冷やさぬよう、彼女の肩の辺りまで羽毛布団を持ち上げてやる。
先ほどと同様、互いに前を向いているため妻の表情は見えないが、後ろから見下ろした感じでなんとなくわかる。
このように座らされている今の状況は大変不本意である——そう、後頭部が語っている。
滅多にお目にかかれない妻のレアな姿。そのあまりの愛らしさに、夫は思わず苦笑を漏らした。
「……すみませんでした」
しかし一変。今度は、まるで叱られて耳を伏せた子犬のように、しょんぼりと項垂れてしまった。
貴方の言うとおりにするべきでした——そう、後頭部が語っている。
「謝らなくていい。私は嬉しいぞ。お前と少しでも話ができて」
そんな妻に、夫は今の率直な気持ちを伝える。指通りの良い金糸を梳くように撫でてやると、ようやく彼女は頭を上げてくれた。
身体を労ってくれるその気遣いはありがたい。本当にありがたいのだが、正直なところ、夫は少しでも長く妻と声を交わしていたかった。
寂しい気持ちは、お互い様だ。
「あの……」
「どうした?」
と、不意にディアナが自身の頭頂部を夫の胸に凭せ掛けた。ぐいっと顎を持ち上げ、夫と視線を合わせる。
夫の眼に映った妻の双眸は、水平線に沈む夕日に照らされた海のごとく、揺らめき、輝いていた。
「わたし、ジーク様にずっとお聞きしたいことがあって、ですね」
「聞きたいこと?」
「はい。今このタイミングで……というのは、いかがなものかと自分でも思うのですが」
自分から言い出したものの、まだどこかで睡眠時間を気にしていたディアナ。けれど、ジークにしてみれば『聞かない』という選択肢などありえなかった。ふわりと微笑み、彼女が話しやすい雰囲気を作ってやる。
「いや、構わん。話してくれ」
夫に促された妻は、頭を戻し、足を横に流すと、上半身だけ彼のほうへ向き直った。彼にその身を預けたまま、逞しい胸元に自身の両手を置き、腰を捻るようにして目線を結び付ける。
それから、なるべく丁寧に考えを纏めるよう意識し、ゆっくりと瑞々しいその唇を開いた。
「ジーク様の理想、といいますか、その……二つの種族が、本当の意味で共生できる社会を実現するために、貴方が尽力されているその理由を、聞かせていただきたいな……と」
意識し過ぎるあまり、訥々とした口調になってしまったけれど、なんとか言葉にすることはできた。
ディアナが結婚当初からひっそりと抱いていた疑問。
ヒトと竜人の共存共栄——この施策に対するジークの姿勢を見ていると、国の方針だからという単純な理由だけで彼が動いているとは到底思えなかった。
結婚しておよそ十ヵ月。ずっと見てきた。彼のことを。
身を粉にし、この施策と真摯に向き合う彼の姿を。
だからこその疑問だった。
「……」
「……ジーク様?」
「うーん……? 改めて説明しようと思うと、意外に難しいものだな」
これを受けたジークは、目をぱちくりとさせ、ほんの少しフリーズしたあと、眉を顰めて首を傾げた。彼にとって、まったくもって予期せぬ質問。視線を左上に向けたり、目を瞑ったりして、必死に何かを捻り出そうとしている。
当然のごとく、というべきか。妻は夫の腕の中で衝撃に見舞われた。
「す、すみませ……っ」
これほどまで夫が呻吟するとは思わなかったゆえ、なんともいい得ぬ申し訳なさに苛まれた。このままさらに布団を引き摺り上げ、頭からすっぽりと被ってしまいたい。
……潜りたい。
「ああいや、責めているわけじゃない。……そうだな。そんなに複雑なことではないんだが」
こう前置きすると、オロオロする妻を宥め、夫は静かに語り始めた。
いまいち彼女の質問を自身の中で消化しきれていないため、彼女の意に沿えるかどうかはわからないが、とりあえず自身の言葉で綴るよう心掛けてみる。
彼女の言う、自身の『理想』を。
「幼い頃から、『ヒトだから』、『竜人だから』という理由だけで括りを設けることには抵抗があった。おそらく、これは両親の影響だろうな」
物心ついた頃には、自然に備わっていた感覚。『教育方針』と呼ぶほど仰々しいものではなかった。周囲の貴族にとって『当たり前』ではないことが、ジークにとっては『当たり前』だったという、ただそれだけのこと。
何故と訊かれ、改めて説くことが難しい所以は、きっとこのせいだ。
「以前、シュトラス元帥に会ったことがあるだろう? 彼と父は親友同士で、頻繁に家族ぐるみの付き合いをしていた」
非常に懇意な間柄であったフレイム家とシュトラス家。互いの家を行き来したことも何度もある。
セオドアの子供たちとはとても気が合い、よく一緒に遊んだりもした。無駄に尖った貴族の御子息や御令嬢と付き合うよりもよほど楽しかったし、充実した時間を過ごすことができた。
その充実した時間の中には、自分のことを本当の息子のように可愛がってくれた、彼の妻の存在があった。
「彼の奥さんはヒトでな。私もずいぶんと世話になったが、特別意識したことなど一度もないし、意識すること自体ナンセンスだと思っている」
両親が不在のときは、彼女が面倒を見てくれたことも多々あった。
飾り気のない実にさばさばとした性格で、麗しい外見とは裏腹に、その内側には一本の大きな幹が聳えているような、そんな印象だった。
彼女もまた、軍人を支えるヒト——厳しくも優しいヒトなのだ。
セオドアの妻、花屋の棟梁一家、マキシム、ジャスパー、イザベラ……昔から、ジークの周りには常にたくさんのヒトがいたが、彼らのことを特別視したことも蔑視したことも、一度としてない。
異なる種族であることは認識しているし、それに伴う『違い』を否むつもりもない。
それでも、種族間での優劣など誰にも決められないし、そもそも判断のつけようがない。そう思っている。
「お前と結婚したのも、たまたまお前がヒトだっただけだ。仮にお前が竜人だったとしても、私はお前に結婚を申し込んでいた」
種族よりも個々に目を向け、個々を尊重し合い、個々が為せることを為せるかぎり懸命に取り組めばいい。今までだって、そうしてきたのだから。
立ち止まって、挫けて、躓いて、転んで。
足りないものを互いに補い合ってきたからこそ、この世界はここまで発展を遂げた。
振り返って、もがいて、抗って、立ち上がって。
二つの種族が存在したからこそ、自分たちは、今こうして生きていられるのだ。
「種族や身分に捉われることで、大切な者と過ごすその選択肢を狭めたくはない。それらに捉われ、あらゆる可能性を潰し、芽を摘み取るのは、あまりに虚し過ぎるからな。それに……」
そうして、これからも生きてゆく。
「そんな世界など、つまらんだろう?」
命を、繋いでゆく——
刹那。
ジークの話に終始一貫してじっと耳を傾けていたディアナだったが、夫が話し終えるやいなや、勢いよく彼に抱き付いた。
彼の首の後ろに両腕を回し、しがみ付くように、ぎゅっと。
「……ど、どうした?」
唐突な妻の挙動に驚き、一瞬まごついてしまったものの、夫はそれにちゃんと応えた。右手を背中に当て、左手を頭に添える。
力を入れ過ぎているせいか、小さなその体は、心なしか震えていた。彼女の口元が鎖骨に当たっている感触はあるのだが、おかげでその顔色を読むことはできない。
いったいどうしてしまったのか。何かアクションがあるかと待ってみても、顔をあげる気配も、声を上げる気配も、一向にない。
もしかすると、自分の主張や言葉の中に、彼女の気に障ることがあったのだろうかと不安になってみたり。
そのとき、
「わたし……」
ようやくディアナが声を発した。
まるで雨粒のようなそれは、ジークの鎖骨にぽたりと落ち、柔らかな温もりへと変貌を遂げる。
戸惑うあまり腕の力を緩めてしまった夫に、彼女はそのままの体勢で言葉を滴下し続けた。
「わたし、今まで『こうしたい』とか『ああしたい』っていう願望を持ったことがほとんどないんです。……たとえ持ったとしても、それほど強く思えるものって、あまりなくて……」
「……」
ぽたり、ぽたり。
落とされた妻の一言一言が、夫の心に波紋を作った。幾重にも重なったそれらが、夫の心奥の琴線を弾き、愛おしさとともに共鳴する。
「……でも」
ぽた——
「でも、今とても強く思います。ジーク様の理想が実現するように祈りたいって……理想を実現する貴方を、隣で支えたいって」
「ディアナ……」
夫の瞳を真っ直ぐに見つめる弛みない妻の眼差し。
澄み切った今の彼女の双眸には、愛する彼の姿しか映ってはいなかった。
「貴方のような素晴らしい方と結婚できたこと……貴方の妻でいられること……わたしは、心の底から誇りに思います」
「……——っ」
身体の奥底からとめどなく込み上げてくる熱い感情。狂おしいほどに滾るこの感情を、上手く表現する言葉が見つからない。
もどかしくて、苦しくて、切なくて、優しくて。
気がつけば、二人の世界は反転し、自然と唇が重なり合っていた。しだいに荒くなる息遣いが、交わり、互いの体内へと流れ込む。
肌が、心が、焼けるほどに熱い。
今にも、溶けてしまいそうなほど。
「……っ、ジ……ク、さまっ——」
触れられた部分に咲いた赤い花。この花がずっと消えなければいいのにと、ディアナは思った。
この痛みも、熱も、苦しみも……全部、全部。
彼が戻ってくるまでずっと……ずっと、消えなければいいのに、と。
消えないでほしい、と。
そう、祈った。
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