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Chapter4

ラリマーの崩壊(1)

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 街の中心部に位置する高級ホテルのラウンジ。その個室。
 黒と藍を基調とした落ち着きのある室内は、片側が全面ガラス張りになっている。そこから見えるのは光の群れ。実に煌びやかな街の夜景だ。
 この広々とした空間にスーツ姿の男性がたった二人、窓際に設置された六人掛けのテーブルセットに対座している。場所柄、着用しているのは、どちらも黒の有名ブランドスーツだ。
 テーブルの上には、黒革の分厚い手帳や諸々の書類が無造作に置かれてあった。飲食物といえば、二本のワインのみ。どちらもまったくと言っていいほど手が付けられていない。
 誰しも一度は憧れを抱くであろう美しい場所。にもかかわらず、室内の空気は重く、澱んでいた。
「再三のご説明、大変痛み入ります。……ですが、到底納得できるものではありません。この話は、今日で終わりにしていただきたい」
 少し語気を強めて一方がもう一方に言い放った。言い様は丁寧だが、その言葉はまるで鋭い棘のようだった。さっと立ち上がり、「失礼します」と踵を返す。
 言われたほうがすぐさま必死で引き留めるも、彼はそれに応じなかった。ドアの閉まるカチャリという音がやけに大きく虚しく響く。
 この場に一人残された男性。座ったまま肩を落とし、項垂れた。焦りと怒りが沸々と胸の奥から込み上げてくる。
 ダンッと両手でテーブルを叩くと、ワインをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。飲み慣れているはずなのに、なんとも無味で素っ気ない。
 眼下に広がる憎らしいほどに美しい夜景を睨みつけ、彼はギリッと歯を食いしばった。




 ◆ ◆ ◆




「——と、まあこんな感じです。よろしいですね?」
「……そこは質問する余地を与えてくれるものなんじゃないのか、普通」
 訝しげに見上げたジークの視線の先には、にっこりと微笑むマキシムの姿。
 いつもは、長身のジークをマキシムが見上げる形となるのだが、今はジークが執務机に着いているため、立場が逆転している。二人の表情だけを切り取れば平常運転だ。
 夕刻。ジークの執務室。
 この日、数ヶ月ぶりにマキシムが本部へとやって来た。目的は、ジークと話をするため。二人の関係上、話している最中どうしてもお花が飛んでしまうが(飛ばしているのはマキシムだけだが)、もちろん仕事である。
「まあいい。だいたいわかった。あとは実際に使ってみなければ、なんとも言えないな」
「さすが将軍。飲み込みが早くて助かります」
 話の内容は、総じて来月行われる野外演習のことだった。というより、そこで使用される新兵器に関してだ。
 今度の演習には、マキシムのチームが開発したGPSが使用される。演習とはいえ、初めて実戦で導入されるということもあり、今回ジークの旅団に白羽の矢が立ったのだ。
 ある種未知の領域。これだけで、ジークが残してきた実績と、彼に対する上からの信頼が如何ほどか、容易に推察することができる。
 マキシムがつい先ほどまで説明していたのは、主にメリットとデメリットについてだ。
 地上に存在する、あらゆるものの位置を計測できるという特性上、メリットもデメリットもそれにまつわることは言わずもがな。だが、ジークはやはりデメリットのほうが気にかかっていた。
 マキシム曰く、現段階の性能では、屋内での計測に数メートルから数十メートルの誤差が生じてしまうとのこと。的確な位置を割り出すには、しばらく時間を要すると、上にも報告したらしい。
 とはいえ、たとえ少々誤差があったとしても、把握できないよりはできるほうがいい。判るに越したことはないだろう。
「それにしても、この発明は本当に画期的だな。使い方如何によっては、いろいろと応用できそうだ。……非軍事面でも」
 改めて、ジークは感嘆の声を漏らした。
 マキシムをこの重要任務に推薦したのはジークだ。彼の聡明さや人柄を知っていたからこその人選。けれども、実を言うと、ここまで短期間で形にできるとは思ってもみなかった。
「そうですね。私自身、これ自体の可能性を十分見出せてはいませんので、具体的な用途を今ここで述べるのは、控えさせていただきますが……」
 けっして甘く見ていたわけではない。彼のことは心の底から尊敬しているし、信頼している。
 ただ、彼の研究者としての誇りと国を愛する気持ちが、想像をはるかに超えていたというだけだ。
「『守るため』の民生的使用ならば、それは一概に否定されるべきではないと思います。……ある意味、悲しいことかもしれませんが……」
「……」
 誰もが安心して過ごせる世界を目指すために。大切な人とともに生きられる未来を築くために。
 今回の演習の結果をさらなる精度の向上へ活かす。より良いものへと昇華させる。
「また直前に、詳しい資料等配布いたしますので」
「ああ。よろしく頼む」
 飽くなき探求。果てしない挑戦。
 彼らの研究に、終わりはないのだ。
「では、私はそろそろ失礼しますね」
 本部での所用はこれにて終了。だが、まだ就業時間中ゆえ、これから研究所へと戻らなければならない。
 それに、長居をしてしまってはジークに迷惑がかかる。そう考えたマキシムは、白衣の裾を翻し、扉へと爪先を向けた。
「あ、ちょっと待ってくれないか」
 しかし、足を踏み出す間もなく呼び止められてしまった。それも気を遣った相手によって。
 再度体ごと向き直り、ジークの顔を見る。その表情は、心なしか嬉しそうだった。否、嬉しそうというよりも、愉しそうだ。
「お前に是非とも会いたいと言っている人がいるんだが」
「私に? ……!」
 ここで、年上の彼はハッとした。
 年下の彼がときたま覗かせるこの表情。……知っている。これは、笑顔だ。愉しいものを期待しているときの、至極純粋な笑顔。
「おー、いたいた」
 そして、絶妙なこのタイミングで、とある人物が室内へと入ってきた。
 中将イーサン・オランド。この国のもう一人の鬼神——緋色の鬼神——である。
 イーサンは、軽くジークに挨拶をすると、少年のごとくお馴染みの笑みを遊ばせ、マキシムの隣に並んだ。肩にポンッと手を乗せる。
「久しぶりだな。元気でやってんのか?」
「ええ、おかげさまで」
 イーサンの大きな手のひらに、マキシムの華奢な肩はすっぽりと収まった。
 この二人も既知の間柄だ。例のあの一件以来、もうかれこれ六年の付き合いになる。
 ジークの言う『自分に会いたい人』とは、彼のことなのだろうか。
「そりゃなによりだ。……が、お前のことをどうしても心配してるヤツが一人いてな」
「?」
 どうやら違ったらしい。
 知能指数百八十オーバーの彼も、この状況には首を傾げることしかできなかった。眼鏡の奥のペリドットがさらに大きく丸みを帯びる。童顔がますます童顔になった。
 すると、その直後。
「マキシムさん!!」
 バンッという大きな音を立て、蝶番が外れて飛んでいきそうなほど勢いよく扉が開け放たれた。
 現れたのは、イーサンの妻で軍医のイザベラ・オランド。
 彼女はその勢いを微塵も衰えさせることなく、つかつかとマキシムのもとへ近づいてゆく。ものすごい剣幕だ。
「あれほど健診に来てって言ったじゃない!!」
 それから、自身よりも十センチ余り身長の高いマキシムにずいっと詰め寄り、美しく迫力のある声で怒号を飛ばした。
 マキシムに会いたい人物とは、彼女のことだったのである。
「春の定期健診は受けましたよ?」
「春? 今いつだと思ってるの? もう冬が来てるんだけどっ!?」
 しれっと言い放つマキシムに対し、「寝言は寝ながら言え!!」と言わんばかりに反論するイザベラ。眉と肩をそびやかし、ぷりぷりしている。
 軍では、年に一度、春に定期健康診断が行われている。これを受診することは義務だ。所属部署や業務内容などは一切問わない。
 けれども、危険有害物を取り扱う業務や長時間勤務の者などは、三ヶ月から半年周期で健診を受けることが推奨されている。無論、周期をこれより狭めることも可能だ。
 今でこそ落ち着き払っている彼だが、少し前までは業務が深夜にまで及ぶこともあった。それもほぼ毎日。数年前にぶっ倒れたという前科があるため、イザベラが口を酸っぱくして勧告し続けてきたのだが、ご覧の通り『どこ吹く風』であった。
 そこで、ついに痺れを切らした彼女が、本日ここへ直接乗り込んだというわけなのだ。
「ちょっと触診だけさせてもらいます」
「え? 今? ここでですか?」
「当たり前でしょう?」
 珍しくたじろいだマキシム。彼の三つの疑問符は、イザベラによって瞬時に一蹴された。
「諦めろマキシム。そいつの言うこと聞いとかねぇと、地獄の果てまで追っかけてくるぞ」
「せっかくの貴重な機会だからな。この場に立ち会えて光栄だ」
 目を据わらせた軍医に簡易診察される研究者を横で見つめる将軍二人の図。どの角度からどう頑張って見ても異様だ。
 マキシムと向かい合ったイザベラは、両手で頚部のリンパ節を押したり、下瞼の裏で貧血の具合を確認したりと、それはそれは流れるような手捌きで触診をこなした。
 所要時間わずか一分足らず。さすがは才色兼備の敏腕軍医である。
「……ぱっと診た感じは問題なさそうね。でも近いうちに健診は必ず受けてちょうだいね。諸々検査しないとわからないんだから。……ねっ!!」
 再度マキシムにずずいっと詰め寄ると、彼の痩身を圧するほどの凄まじさで無理やり頷かせた。
「……わかりました」
 白衣のポケットに両手を突っ込み、依然として頬をぷくっと膨らませている彼女だったが、彼のこの返事に一応は納得したようだ。
 目の前で繰り広げられた寸劇をイーサンは存分に堪能していた。実に面白そうに、クツクツと笑いながら。
 一方ジークは、初めて目の当たりにするイザベラの形相に鬼気迫るものを感じたが、それ以上に、彼女に遣り込められたマキシムの有り様が可笑しくてたまらなかった。
 もちろん、マキシムの体調を案じているのはジークも同じだ。けれど、親友の稀有なこのリアクションに、どうしても口角が上がってしまう。
「気ぃ済んだか?」
「まあね。 すみませんでした、少将。お騒がせしてしまって」
「いえ、とんでもない。もとはと言えば、悪いのは彼ですからね」
「……もう何とでも言ってください」
 各々発している言葉とは裏腹に、彼らの周囲は和やかな雰囲気に包まれていた。

 いつまでも、こんなふうに過ごしていたいと。こんな日常が続けばいいのに、と。
 誰一人として口には出さなかったが、皆一様に、心のどこかでそう願っていた。
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