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第12話
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あっという間に二月は過ぎた。
上旬は期末試験に浸食され、残りは研究に明け暮れた。帰宅すれば深夜、なんてこともあった。
気づけば、世間は三月に。今月の中旬には、いよいよ春休みに入る。
四月からは、薬学科の五年生だ。
てんてこ舞いだった先月は学業を優先し、バイトの時間数を減らしていたのだが、今月はシフトをまた元に戻してもらった。
まだ寒さが厳しいので体調を崩す人は多く、この日も患者さんが途切れることはなかった。
調剤室では、大名先生をはじめとする薬剤師の先生たちが、四人態勢でフル稼働している。みな一様に髪を振り乱し、処方箋と睨み合っていた。薬を用意する手は、目にもとまらぬスピードだ。
バイト一年目にはじめてこの光景を目にしたときは、先生たちの気迫に少々怖気づいてしまった。やや殺伐としているけれど、この時期は仕方がない。
心の中で調剤室にエールを送りながら、私も自身の業務に集中した。
営業時間中の主な私の業務は、会計と接客。どんなに忙しく、どんなに余裕がなくても、病気に罹患し、苦しんでいる患者さんに対して寄り添うよう心がけている。
「お大事に」
彼らの不安を少しでも取り除くこと。それが、医療従事者としての責務だと、私は思っている。
病院の診療時間が終了したのだろう。次第に人足は減ってきた。まもなく、ここも閉店時間だ。
そんな中やってきたのは、
「あ」
「?」
「茉莉花ちゃん」
「神田さん!」
なんと、朔哉さんの親友——神田樹さんだった。
スーツではなく、私服姿の彼。ファー付きフードの黒いダウンジャケットを着用し、ブラックジーンズをはいている。足元は、有名スポーツメーカーのおしゃれなスニーカー。……もはや大学生にしか見えない。
彼の隣には、手を引かれ、とぼとぼと歩く小さな女の子が。肩に付くくらいまで真っ直ぐに伸びた柔らかそうな髪。てっぺんには、見事な天使の輪っかが光っていた。赤いダッフルコートがよく似合っている。
前髪とマスクの間から覗いた愛らしい目ですぐにわかった。この子は、彼の娘さんだ。
彼から処方箋を受け取り、調剤室へと回す。処方箋に記載されていた担当医は、速水総合病院の小児科医だった。
神田みのりちゃん、七歳。
昨日の夜から元気がなく、今朝は微熱もあったとのことで、この日は学校を欠席したらしい。夕方になって熱をはかってみると、なんと三十八度まで上昇しており、急いで病院を受診したのだそうだ。
「インフルエンザかもって思って焦ったよ。ただの風邪みたいだから、とりあえずホッとした」
そう安堵した彼の表情は、まさに父親のそれだった。
ほかに患者さんもいなかったので、調剤をしている間、私は二人と待合スペースで座ることに。
相当つらいのだろう。みのりちゃんは、神田さんの膝の上に座り、くてんと凭れかかっていた。車内で待つように言ったらしいのだが、強引についてきたのだという。きっと、身体のつらさよりも、心細さのほうが勝ったのだろう。
現に、彼女の右手は、父親のジャケットをひしと掴んでいる。
「つらいね」
私のこの問いかけに、みのりちゃんは、こくんと頷いた。
「でも、お父さんが一緒にいてくれてよかったね」
この問いかけにも、みのりちゃんは、こくんと頷いた。ほんのちょっと照れくさそうに。
今日は、彼が一日看病をしていたらしい。
子どもにとって、親はなによりの支えだ。つらいとき、そばにいてくれるだけで……それだけで、安心できる。
普段、親が仕事で家を空けているなら、その感慨はひとしおだ。
「……あ。みのりちゃん、飴ちゃんいる?」
待合室のテーブルの上。そこに、『ご自由にお取りください』と書かれたガラスの容器がある。その中に入っているのは、数種類のキャンディー。『飴ちゃん』と言ってしまうあたり、関西人のサガを感じてしまう。
これに対し、彼女は目を輝かせ、それまで以上に首をコクコクと数回振った。
甘いものが嫌いな子どもは、まあいないよね。
私は、その容器を手に取り、彼女のもとへ持っていった。『どれでも好きなの選んでいいよ』と声をかけると、悩んだすえ、遠慮がちにマスカット味のキャンディーを一つ取った。
なので、それにピーチ味とオレンジ味も加えてあげる。すると、彼女の顔色が一気に華やいだ。申し訳なさそうに謝る神田さんに、笑顔でかぶりを振る。
キャンディーを頬張る際、マスクを下にずらし、明らかとなった顔の全貌。
私は確信した。『間違いなく、この子は綺麗なお姉さんになる!』と。
ここで、調剤室から大名先生が出てきた。その手には、袋づめした薬。先生は、神田さん親子に、本日の処方内容を丁寧に説明していた。
レジを打ち、会計を済ませる。そのあと、二人を見送るために、私は薬局の外へ立った。
皮膚を刺すような冷気。三月に入ったにもかかわらず、空からは白い雪がちらちらと舞っていた。
動くのが億劫なのだろう。両腕を上に伸ばし、『だっこして』と、せがむみのりちゃん。もちろん、優しいパパは、そのお願いを『はいはい』と聞いてあげていた。
「ありがとう、茉莉花ちゃん。ほら、みのりも。お姉ちゃんにご挨拶して」
「ありがとー」
「どういたしまして。しっかりご飯食べて、お薬飲んで、早く治そうね」
そう言って頭を撫でると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。そのほっぺたには、まだキャンディーが残っていて、ぽこっと膨らんでいる。
可愛い……!!
胸がきゅうんとなり、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。
天使だ………天使がここにいる……!!
「今日、朔と会うの?」
みのりちゃんにメロメロになっていたとき、神田さんからこんな質問をされた。『よこしま』という名の風船がパンッと破裂し、我に返る。
「あ、はい。バイトが終わったら、彼のマンションに行きます」
「そっか」
私が朔哉さんと付き合っていることは、神田さんももちろん知っている。付き合いはじめてすぐ、私が陽菜ちゃんに話したのと同様に、朔哉さんもまた、神田さんに話をしていた。
年齢差に関して、からかわれこそしたらしいが、『やっとあいつの不安要素を取り除いてやれた』と、朔哉さんは言っていた。
「ほんと、よかったよ。朔が茉莉花ちゃんと出会えて。……これからも、あいつと一緒にいてやってね」
彼の言葉、その重みが、私の心に圧しかかる。
鈴原先生が亡くなり、朔哉さんを公私ともに一番近くで支えてきたのは、きっと彼だ。ある意味、朔哉さんのことを一番心配していたのも、彼かもしれない。
私は、その双眸を真っ直ぐに見据え、静かに頷いた。
どこか安心した様子で柔和に微笑むと、私と別れの挨拶を交わし、神田さんは裏の駐車場へとあゆみを進めた。
みのりちゃんは、『ばいばい』と、父親の肩越しにその小さな手を振ってくれている。
「ばいばい、みのりちゃん。お大事に」
二人の姿が見えなくなったのを確認し、私は薬局の中へ戻った。
昔から、国内外を問わず、ドラマを見るのは好きだった。現代ものはもちろん、時代劇も。
その中の、国民的大人気長寿シリーズ。このクライマックスシーンの従者による決め台詞は、だれもが知っているだろう。
こちらにおわすおかたをどなたとこころえる。
「あ、あの……お茶、です……」
「ああ、すまない。ありがとう」
見るからに高級な黒のスリーピース・スーツをお召しになり、ソファにお掛けになっておられるこの男性。
白髪まじりのオールバックに、少しだけしわが刻まれた精悍な顔立ち。そして、溢れんばかりのエンペラー・オーラを身に纏っていらっしゃる。
わたくし、恐れ多くもさきほど名刺をいただきました。
医療法人速水総合病院
院長 速水龍一朗
朔哉さんの、お父上様にあらせられます。
現在、朔哉さんのマンションで院長先生と二人きり。バイト先がバイト先なので、名前は知っていたが、顔を見るのは初めてだ。
喉まで心臓上がってきてるんですけど。
どうしてこうなった?
それは、さかのぼること十数分前。バイトを終え、彼のマンションに到着したときのことだった。
本日お邪魔することは、三日ほど前から決まっていた。大学のほうが落ち着いたので、久々にゆっくり夕飯を食べようと、彼と二人で約束をしたのだ。
しかし、今朝になって、急に夕方所用ができてしまったと彼から連絡があった。長引くような案件ではないので、合鍵を使用してマンションで待っていてほしい、と。
彼に言われた通り、はらはらと舞う雪の中、傘を差してここまで歩いてきた私。
そして、見つけたのです。入り口で佇んでいる院長先生を。
最初は、もちろん院長先生だとは気づかず、軽く挨拶をしただけだった。……が、なにやらお困りのようだったので、事情を聞いてみると、五ターン目くらいに名刺を差し出され、私の目玉が飛び出したというわけなのである。
息子の朔哉さんに会いにきたという院長先生に対し、知らんぷりもできず、ごまかすこともできず。なにより、この寒空の下、放っておくことなど到底できなかった。
わたくし、言ってしまいました。『もうすぐ戻ってくると思うので、中でお待ちになりますか?』って。
ええ。聞き返されましたよ。『え?』って。
だから、名を名乗ったあとで申し上げましたとも。
『朔哉さんと、お付き合いさせていただいています』
こんなに緊張したの生まれて初めてよっ!! 大学受験の数百倍は緊張したわっ!! しかも、それから院長先生ろくに喋ってないからねっ!! 怒って……はなさそう。……もしかして呆れてるっ? 呆れてらっしゃるっ!? あーもー、どうしようっ!!
パニックに陥りながら、この状況を朔哉さんに知らせるため、メッセージを送った。『一秒でも早くとかそんな贅沢言わないんで!! 一分でいいんで!! とにかく早く帰ってきてくださいっ!!』との念を込めて。
こうして、今に至る。
「……」
「……」
会話……。
「…………」
「…………」
何か会話…………。
「………………」
「………………」
私なんかが話題を提供できるわけありませんよねっ!!
若干涙目になりながら、院長先生の前に緑茶を置いた。ぱっと視界に入ってきたのは、えもいわれぬ現象。
今の私の姿を嘲笑うかのように、なんとプカプカ茶柱なんぞが立っている。
絶対バカにしてんでしょっ!?
私なんて、この空間で呼吸をするだけで精一杯なのに……。
「羽柴茉莉花さん……といったかな?」
「えっ!? あっ、はいっ!!」
いきなり院長先生に名前を呼ばれてしまった。朔哉さんとよく似た低音ボイス。
胸の前でお盆を抱えたまま、両肩を上げ、反りかえってしまいそうなほど背筋を伸ばす。
「見たところお若いようだが……学生かな?」
「は、はい……。薬学部の、四年生です」
「薬学……」
はじめ声がうわずってしまったが、どうにか受け答えすることはできた。
でも、そろそろ限界だ。思いきり心臓をプレスされている気分。
そのとき、玄関のドアが開閉する音が聞こえた。耳がそちらにピクリと動く。
「来るなら来ると、連絡ぐらいしてくださいよ」
リビングに入り、院長先生の顔をみるやいなや、呆れ顔で彼がこう言った。
今なら身に沁みてわかる。主人が帰ってきたときの犬の気持ち。ブンブンと勢いよく尻尾を振り、全身で喜びを表現するあの気持ちが。
やっと帰ってきてくれた……!!
「たまたま時間ができたから、顔を見に寄ってみただけだ。それより、お前が先日言っていたのは、彼女のことか?」
院長先生のこの問いかけに、私と一瞬だけ目を合わせた彼。そして、またすぐに自身の父親のほうへ向き直り、ゆっくりと肯定した。
「ええ、そうです」
ピタッと、私の尻尾が止まった。話が見えない。
……どういうこと?
二人の会話を聞いてみると、どうやら朔哉さんは、付き合っている人物がいることを、すでに父親に明かしているようだった。だからだろうか。外で私が告げた際も、院長先生はあまり驚いた素振りは見せなかった。
……知ってたんだ。息子に彼女がいることは。
かといって、私のことをよく思ってくれるなんて保証はないし、彼との交際を認めてくれるなんて保証もない。
なんてったって、彼は大事な跡取り息子。それも、都内の私立病院で、五本の指に入ろうかというくらい大きな病院の一人息子なのだ。
お盆を抱える腕に力を込める。
あ、やばい。気、失いそう。
次に院長先生の口から発せられる言葉に、私は意識を保っていられるだろうか。
「……朔哉は、君によくしてくれているか?」
しかし、私の予想に反し、穏やかな口調で発せられたのは、またしても質問だった。
怯えて縮み上がっていた分、肩と心臓が思いきり飛び跳ねたりしたものの、私はすぐさま落ち着きを取り戻すことができた。
これには、考えなくたって答えられる。
「はい。彼は……朔哉さんは、優しいです。とても」
いつ、どこで、だれに聞かれても大丈夫だ。問題ない。
彼に対する不満なんて、一切ないもの。
「……そうか」
表情をやわらげ、微笑を浮かべた院長先生。
その顔、そっくりだ。朔哉さんに。
ここへ来て、私はやっと頬を緩めることができた。
「ときに、茉莉花さん」
なんて余裕を持っていられたのも、瞬きをする間だけ。
「は、はいっ!!」
再度名前を呼ばれてしまった。思わず落としそうになったお盆を、必死で抱え込む。
な、なんでございましょう……?
「うちの病院では、薬剤師を随時募集しているんだが」
「え? えっと……」
「院長!!」
「いいじゃないか。優秀な薬剤師は、他院との競争率が高いんだ。お前も知っているだろう?」
「だからって、今ここで勧誘しないでください!!」
戸惑っている私をかばうように、朔哉さんは抗議をしていた。ギャイギャイと喚く息子を翻弄する父の構図。
こんなふうに、いとも簡単に朔哉さんを手玉に取ってしまうなんて……さすがお父上様。
目の前で繰り広げられているこの光景を、いつまでも見ていたい。
朔哉さんには申し訳ないけれど、そんなふうに思ってしまった。
あのあとすぐ、秘書の方が迎えにきて、院長先生はマンションをあとにした。どうしても出席しなければならない会合があるのだそうだ。
忙しい合間を縫って、わざわざ息子の様子を見にきたんだな。
別れ際、『今日、君に会うことができてよかった』と、私に言ってくれた。『これから忙しくなるだろうが、体に気をつけて頑張りなさい』と。
その言葉が、胸に滲んだ。
よかった。実にいい日だった。
ありがとう、茶柱。誤解してごめんよ。
ゆったりとした雰囲気の中、食事を終えた私と朔哉さん。久しぶりに、悠々と二人の時間を過ごす。
ソファに座り、彼が夕刊を読んでいる横で、私はスマホ片手に陽菜ちゃんとメッセージ交換をしていた。
——今日、朔哉さんのお父さんに会いました。
——え!? どうだったっ?
——病院に就職しないかって勧誘された。
——マジでっ!? あたしのこともよろしく言っといてっ!!
……さすが、陽菜ちゃん。しっかりしていらっしゃる。
テーブルの上に置いてある紅茶に手を伸ばす。先日、母への手土産とともに、彼が購入してくれていたマスカットティー。部屋中に、気品溢れるこの上質な香りが充満している。
こくっと飲んで、ホッと一息。めちゃめちゃ美味しい。
ここで、彼に対し、さきほど気になったことを何気なく口にしてみた。
「院長先生に、敬語……なんですね」
「ん? あー……いつもじゃねぇけどな。なんとなく。一応、上司だから」
「あっ、なるほど」
夕刊を折り畳み、足元のマガジンラックにポイッと放り込んだ彼。その手で、カップを取り、ゆっくりと一口含んだ。
いくら親子といえども、職場が同じだと、そうなってしまうのは仕方がないことだろう。職場での関係は、上司と部下以外のなにものでもないのだから。
それに、ほかのスタッフの手前もあるもんね。
「今日、私もお会いすることができて、本当によかったです。……とても立派なお父様ですね」
私みたいな小娘にも、院長先生の偉大さは十分よく伝わった。
組織の最高責任者としても、一家の大黒柱としても、申し分のない素晴らしい人だ。
「ああ。……やっぱデカいわ。親父の背中は」
なにより、実の息子がこれほどまでに尊敬し、認めているのだから、間違いない。
……私の父とは、大違いだ。
羨ましいとは思わない。だって、比較することすら烏滸がましい。
私の中に流れている、あの人の血。どうすることもできないのに。……いや。どうすることもできないからこそ、憎くて憎くてたまらないんだ。
憎くて、情けなくて、腹が立って、忌々しくて……。
私の中には、まだなお、真っ黒な影が巣食っている。
朔哉さんには、知られたくないな……。
ところが、この直後、心の奥でポツリと呟いた私の望みは、無情にも打ち砕かれることとなる。
「あ、お母さんからだ」
突然、母からの着信で、握っていたスマホが震え出した。
わざわざ電話をかけてきたということは、何か急ぎの用事があるのだろう。
だが、特に思い当たる節もなかった私は、疑問符を浮かべながら、指先で通話ボタンをフリックした。
「もしもし?」
『あ、茉莉花! よかった、出てくれて……!』
母が喋った瞬間、その叫びにも似た声が、私の鼓膜にぶち当たった。もともと大きい声が、今日は一回りも二回りも大きい。
「どしたん? なんで、そんな慌ててんの?」
それに、なんだか焦っているみたいだ。
いつもなら、私が話せる状況かどうか、うかがいを立ててくれるのに。
『あんた、落ち着いて聞きや』
「いやいや、お母さんが落ち着こうよ」
いつもとは、明らかに様子の違う母。
隣に座っている朔哉さんも、ただならぬ何かを察知してくれているようだった。
『今さっき、市民病院から連絡があってな』
「市民病院?」
そして、次の瞬間、
『章吾さん……お父さんが、危篤なんやって』
私の思考は、停止した。
「……茉莉花?」
気がつけば、母との通話を終えており、気がつけば、朔哉さんに呼ばれていた。
母に伝えられた事実を、そのままリピートする。
「お父さんが」
「親父さん? お前の?」
「危篤だって」
「!?」
正直、母から聞いただけでは、あまりピンとこなかった。
「夜行バスで帰るか? それとも、明日の朝早く新幹線に乗るか?」
しかし、実際に口にしたことと、目の前でいろいろと思案してくれている朔哉さんの様相を目の当たりにして、はじめて自分の中で現状を消化することができた。
なんだ。
「私、帰らない」
簡単なことじゃないか。
「はっ? おいおい、ちょっと待てって。何言ってんだよ。早く帰らないと、もしかしたら間に合わなく——」
「どうでもいい、あんな人っ!!」
暴走しはじめた感情。
私の中に巣食う真っ黒な影が、ついに本性を現した。
上手くコントロールできない。
もう、止められない——
「だって……だって、自業自得じゃない!! 自分の責任よ!! 自分一人現実から逃げ出して、あんなバカみたいにお酒飲んで!!」
「おい、茉莉花」
「私とお母さんのことなんか、ろくに考えもしなかったくせに!! いったいどこまで迷惑かければ気が済むのよっ!!」
「茉莉花」
「……あんなヤツ……あんなヤツ、いなくなれば——」
「茉莉花っ!!」
「——っ」
急に目の前が真っ暗になった。
「もうそれ以上言うな」
瞼を、閉じてなんかいないのに。
「お前が、苦しくなるだけだ」
頭上から降り注いだ彼の声。体を包み込むように回された彼の腕。
私は、朔哉さんに抱き締められていた。
「俺にはわかるよ。奥さん亡くして、現実から逃げ出した親父さんの気持ち。……もちろん、親父さんがしたことは許されることじゃない。お前が恨む気持ちも、憎む気持ちも、当然だと思う」
宥めるように、諭すように、紡がれる彼の言葉。その一つ一つが、私の心の中に流れ込み、ぬくもりとともに浸透していく。
表情をうかがい知ることはできないが、おそらく彼も、過去のつらさから、その表情を歪めているのだろう。
「けど、お前は優しいから、今ここで会っとかないと絶対後悔するぞ。……お前が思ってること全部、面と向かって、親父さんにぶつけてこい」
「……っ……!!」
私は、彼の胸元にしがみついて泣いた。……泣き叫んだ。
怖かった。あのまま闇に呑み込まれてしまうかもしれないと。もう自分には戻れないかもしれないと。
彼に、嫌われてしまうかもしれないと。
それなのに、こんなにも醜い自分を、彼は受け入れてくれた。守ってくれた。
帰らなきゃ、神戸に。
自分の中で声がした。
私は、父に会わなければならない。
なにより、彼と誓ったから。『前を向いて歩いていく』って。
だから、逃げちゃだめだ。私も。
「……朔哉さん」
「ん?」
「明日、新幹線で帰ります……」
「……うん」
「それで、あの……」
「?」
「今日、ここに泊ってもいい、ですか……?」
「え……?」
「なんか、一人になりたくなくて。……ごめんなさい。大人になるって言ったのに……私、こんな子どもみたいなこと……」
彼の胸元に顔をうずめたまま、弱音を吐いてしまった。こういうことは、なるべく口にしないよう心にとめていたのに。
ほんと、だめだな。私……。
「まあ、大人な夜にしてもいいんなら、それはそれで大歓迎だけど」
「……っ!? ちょっ……何、言って……」
隠された真意を瞬時に理解し、がばっと飛びのいた私に、盛大に吹き出して『冗談だ』と笑った彼。
いやいやいやいや!! その冗談、私には刺激が強すぎるんです!! レベルが高すぎるんですっ!!
魚のように口をパクパクさせ、最上級に顔を真っ赤にしていると、頬に手を添えられた。強制的に瞳を瞳で捉えられる。
このまま、吸い込まれてしまいそうだ。
「……こんなときに無理して一人になることない。泊まっていけ。明日の朝、駅まで送ってく」
俺はいつでもお前と一緒にいてやる——そう言って、彼は私の唇にキスを落としてくれた。
今日、わかったことがある。
彼は優しい。でも、彼がこんなにも優しいのは、きっと、彼の周りが優しいからだ。
私も、もっともっと、優しくなりたい。
彼の周りの人たちが、彼に対してそうであるように。
彼が、私にそうであるように。
翌朝、故郷へと向かうため、私は新幹線に乗り込んだ。
上旬は期末試験に浸食され、残りは研究に明け暮れた。帰宅すれば深夜、なんてこともあった。
気づけば、世間は三月に。今月の中旬には、いよいよ春休みに入る。
四月からは、薬学科の五年生だ。
てんてこ舞いだった先月は学業を優先し、バイトの時間数を減らしていたのだが、今月はシフトをまた元に戻してもらった。
まだ寒さが厳しいので体調を崩す人は多く、この日も患者さんが途切れることはなかった。
調剤室では、大名先生をはじめとする薬剤師の先生たちが、四人態勢でフル稼働している。みな一様に髪を振り乱し、処方箋と睨み合っていた。薬を用意する手は、目にもとまらぬスピードだ。
バイト一年目にはじめてこの光景を目にしたときは、先生たちの気迫に少々怖気づいてしまった。やや殺伐としているけれど、この時期は仕方がない。
心の中で調剤室にエールを送りながら、私も自身の業務に集中した。
営業時間中の主な私の業務は、会計と接客。どんなに忙しく、どんなに余裕がなくても、病気に罹患し、苦しんでいる患者さんに対して寄り添うよう心がけている。
「お大事に」
彼らの不安を少しでも取り除くこと。それが、医療従事者としての責務だと、私は思っている。
病院の診療時間が終了したのだろう。次第に人足は減ってきた。まもなく、ここも閉店時間だ。
そんな中やってきたのは、
「あ」
「?」
「茉莉花ちゃん」
「神田さん!」
なんと、朔哉さんの親友——神田樹さんだった。
スーツではなく、私服姿の彼。ファー付きフードの黒いダウンジャケットを着用し、ブラックジーンズをはいている。足元は、有名スポーツメーカーのおしゃれなスニーカー。……もはや大学生にしか見えない。
彼の隣には、手を引かれ、とぼとぼと歩く小さな女の子が。肩に付くくらいまで真っ直ぐに伸びた柔らかそうな髪。てっぺんには、見事な天使の輪っかが光っていた。赤いダッフルコートがよく似合っている。
前髪とマスクの間から覗いた愛らしい目ですぐにわかった。この子は、彼の娘さんだ。
彼から処方箋を受け取り、調剤室へと回す。処方箋に記載されていた担当医は、速水総合病院の小児科医だった。
神田みのりちゃん、七歳。
昨日の夜から元気がなく、今朝は微熱もあったとのことで、この日は学校を欠席したらしい。夕方になって熱をはかってみると、なんと三十八度まで上昇しており、急いで病院を受診したのだそうだ。
「インフルエンザかもって思って焦ったよ。ただの風邪みたいだから、とりあえずホッとした」
そう安堵した彼の表情は、まさに父親のそれだった。
ほかに患者さんもいなかったので、調剤をしている間、私は二人と待合スペースで座ることに。
相当つらいのだろう。みのりちゃんは、神田さんの膝の上に座り、くてんと凭れかかっていた。車内で待つように言ったらしいのだが、強引についてきたのだという。きっと、身体のつらさよりも、心細さのほうが勝ったのだろう。
現に、彼女の右手は、父親のジャケットをひしと掴んでいる。
「つらいね」
私のこの問いかけに、みのりちゃんは、こくんと頷いた。
「でも、お父さんが一緒にいてくれてよかったね」
この問いかけにも、みのりちゃんは、こくんと頷いた。ほんのちょっと照れくさそうに。
今日は、彼が一日看病をしていたらしい。
子どもにとって、親はなによりの支えだ。つらいとき、そばにいてくれるだけで……それだけで、安心できる。
普段、親が仕事で家を空けているなら、その感慨はひとしおだ。
「……あ。みのりちゃん、飴ちゃんいる?」
待合室のテーブルの上。そこに、『ご自由にお取りください』と書かれたガラスの容器がある。その中に入っているのは、数種類のキャンディー。『飴ちゃん』と言ってしまうあたり、関西人のサガを感じてしまう。
これに対し、彼女は目を輝かせ、それまで以上に首をコクコクと数回振った。
甘いものが嫌いな子どもは、まあいないよね。
私は、その容器を手に取り、彼女のもとへ持っていった。『どれでも好きなの選んでいいよ』と声をかけると、悩んだすえ、遠慮がちにマスカット味のキャンディーを一つ取った。
なので、それにピーチ味とオレンジ味も加えてあげる。すると、彼女の顔色が一気に華やいだ。申し訳なさそうに謝る神田さんに、笑顔でかぶりを振る。
キャンディーを頬張る際、マスクを下にずらし、明らかとなった顔の全貌。
私は確信した。『間違いなく、この子は綺麗なお姉さんになる!』と。
ここで、調剤室から大名先生が出てきた。その手には、袋づめした薬。先生は、神田さん親子に、本日の処方内容を丁寧に説明していた。
レジを打ち、会計を済ませる。そのあと、二人を見送るために、私は薬局の外へ立った。
皮膚を刺すような冷気。三月に入ったにもかかわらず、空からは白い雪がちらちらと舞っていた。
動くのが億劫なのだろう。両腕を上に伸ばし、『だっこして』と、せがむみのりちゃん。もちろん、優しいパパは、そのお願いを『はいはい』と聞いてあげていた。
「ありがとう、茉莉花ちゃん。ほら、みのりも。お姉ちゃんにご挨拶して」
「ありがとー」
「どういたしまして。しっかりご飯食べて、お薬飲んで、早く治そうね」
そう言って頭を撫でると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。そのほっぺたには、まだキャンディーが残っていて、ぽこっと膨らんでいる。
可愛い……!!
胸がきゅうんとなり、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。
天使だ………天使がここにいる……!!
「今日、朔と会うの?」
みのりちゃんにメロメロになっていたとき、神田さんからこんな質問をされた。『よこしま』という名の風船がパンッと破裂し、我に返る。
「あ、はい。バイトが終わったら、彼のマンションに行きます」
「そっか」
私が朔哉さんと付き合っていることは、神田さんももちろん知っている。付き合いはじめてすぐ、私が陽菜ちゃんに話したのと同様に、朔哉さんもまた、神田さんに話をしていた。
年齢差に関して、からかわれこそしたらしいが、『やっとあいつの不安要素を取り除いてやれた』と、朔哉さんは言っていた。
「ほんと、よかったよ。朔が茉莉花ちゃんと出会えて。……これからも、あいつと一緒にいてやってね」
彼の言葉、その重みが、私の心に圧しかかる。
鈴原先生が亡くなり、朔哉さんを公私ともに一番近くで支えてきたのは、きっと彼だ。ある意味、朔哉さんのことを一番心配していたのも、彼かもしれない。
私は、その双眸を真っ直ぐに見据え、静かに頷いた。
どこか安心した様子で柔和に微笑むと、私と別れの挨拶を交わし、神田さんは裏の駐車場へとあゆみを進めた。
みのりちゃんは、『ばいばい』と、父親の肩越しにその小さな手を振ってくれている。
「ばいばい、みのりちゃん。お大事に」
二人の姿が見えなくなったのを確認し、私は薬局の中へ戻った。
昔から、国内外を問わず、ドラマを見るのは好きだった。現代ものはもちろん、時代劇も。
その中の、国民的大人気長寿シリーズ。このクライマックスシーンの従者による決め台詞は、だれもが知っているだろう。
こちらにおわすおかたをどなたとこころえる。
「あ、あの……お茶、です……」
「ああ、すまない。ありがとう」
見るからに高級な黒のスリーピース・スーツをお召しになり、ソファにお掛けになっておられるこの男性。
白髪まじりのオールバックに、少しだけしわが刻まれた精悍な顔立ち。そして、溢れんばかりのエンペラー・オーラを身に纏っていらっしゃる。
わたくし、恐れ多くもさきほど名刺をいただきました。
医療法人速水総合病院
院長 速水龍一朗
朔哉さんの、お父上様にあらせられます。
現在、朔哉さんのマンションで院長先生と二人きり。バイト先がバイト先なので、名前は知っていたが、顔を見るのは初めてだ。
喉まで心臓上がってきてるんですけど。
どうしてこうなった?
それは、さかのぼること十数分前。バイトを終え、彼のマンションに到着したときのことだった。
本日お邪魔することは、三日ほど前から決まっていた。大学のほうが落ち着いたので、久々にゆっくり夕飯を食べようと、彼と二人で約束をしたのだ。
しかし、今朝になって、急に夕方所用ができてしまったと彼から連絡があった。長引くような案件ではないので、合鍵を使用してマンションで待っていてほしい、と。
彼に言われた通り、はらはらと舞う雪の中、傘を差してここまで歩いてきた私。
そして、見つけたのです。入り口で佇んでいる院長先生を。
最初は、もちろん院長先生だとは気づかず、軽く挨拶をしただけだった。……が、なにやらお困りのようだったので、事情を聞いてみると、五ターン目くらいに名刺を差し出され、私の目玉が飛び出したというわけなのである。
息子の朔哉さんに会いにきたという院長先生に対し、知らんぷりもできず、ごまかすこともできず。なにより、この寒空の下、放っておくことなど到底できなかった。
わたくし、言ってしまいました。『もうすぐ戻ってくると思うので、中でお待ちになりますか?』って。
ええ。聞き返されましたよ。『え?』って。
だから、名を名乗ったあとで申し上げましたとも。
『朔哉さんと、お付き合いさせていただいています』
こんなに緊張したの生まれて初めてよっ!! 大学受験の数百倍は緊張したわっ!! しかも、それから院長先生ろくに喋ってないからねっ!! 怒って……はなさそう。……もしかして呆れてるっ? 呆れてらっしゃるっ!? あーもー、どうしようっ!!
パニックに陥りながら、この状況を朔哉さんに知らせるため、メッセージを送った。『一秒でも早くとかそんな贅沢言わないんで!! 一分でいいんで!! とにかく早く帰ってきてくださいっ!!』との念を込めて。
こうして、今に至る。
「……」
「……」
会話……。
「…………」
「…………」
何か会話…………。
「………………」
「………………」
私なんかが話題を提供できるわけありませんよねっ!!
若干涙目になりながら、院長先生の前に緑茶を置いた。ぱっと視界に入ってきたのは、えもいわれぬ現象。
今の私の姿を嘲笑うかのように、なんとプカプカ茶柱なんぞが立っている。
絶対バカにしてんでしょっ!?
私なんて、この空間で呼吸をするだけで精一杯なのに……。
「羽柴茉莉花さん……といったかな?」
「えっ!? あっ、はいっ!!」
いきなり院長先生に名前を呼ばれてしまった。朔哉さんとよく似た低音ボイス。
胸の前でお盆を抱えたまま、両肩を上げ、反りかえってしまいそうなほど背筋を伸ばす。
「見たところお若いようだが……学生かな?」
「は、はい……。薬学部の、四年生です」
「薬学……」
はじめ声がうわずってしまったが、どうにか受け答えすることはできた。
でも、そろそろ限界だ。思いきり心臓をプレスされている気分。
そのとき、玄関のドアが開閉する音が聞こえた。耳がそちらにピクリと動く。
「来るなら来ると、連絡ぐらいしてくださいよ」
リビングに入り、院長先生の顔をみるやいなや、呆れ顔で彼がこう言った。
今なら身に沁みてわかる。主人が帰ってきたときの犬の気持ち。ブンブンと勢いよく尻尾を振り、全身で喜びを表現するあの気持ちが。
やっと帰ってきてくれた……!!
「たまたま時間ができたから、顔を見に寄ってみただけだ。それより、お前が先日言っていたのは、彼女のことか?」
院長先生のこの問いかけに、私と一瞬だけ目を合わせた彼。そして、またすぐに自身の父親のほうへ向き直り、ゆっくりと肯定した。
「ええ、そうです」
ピタッと、私の尻尾が止まった。話が見えない。
……どういうこと?
二人の会話を聞いてみると、どうやら朔哉さんは、付き合っている人物がいることを、すでに父親に明かしているようだった。だからだろうか。外で私が告げた際も、院長先生はあまり驚いた素振りは見せなかった。
……知ってたんだ。息子に彼女がいることは。
かといって、私のことをよく思ってくれるなんて保証はないし、彼との交際を認めてくれるなんて保証もない。
なんてったって、彼は大事な跡取り息子。それも、都内の私立病院で、五本の指に入ろうかというくらい大きな病院の一人息子なのだ。
お盆を抱える腕に力を込める。
あ、やばい。気、失いそう。
次に院長先生の口から発せられる言葉に、私は意識を保っていられるだろうか。
「……朔哉は、君によくしてくれているか?」
しかし、私の予想に反し、穏やかな口調で発せられたのは、またしても質問だった。
怯えて縮み上がっていた分、肩と心臓が思いきり飛び跳ねたりしたものの、私はすぐさま落ち着きを取り戻すことができた。
これには、考えなくたって答えられる。
「はい。彼は……朔哉さんは、優しいです。とても」
いつ、どこで、だれに聞かれても大丈夫だ。問題ない。
彼に対する不満なんて、一切ないもの。
「……そうか」
表情をやわらげ、微笑を浮かべた院長先生。
その顔、そっくりだ。朔哉さんに。
ここへ来て、私はやっと頬を緩めることができた。
「ときに、茉莉花さん」
なんて余裕を持っていられたのも、瞬きをする間だけ。
「は、はいっ!!」
再度名前を呼ばれてしまった。思わず落としそうになったお盆を、必死で抱え込む。
な、なんでございましょう……?
「うちの病院では、薬剤師を随時募集しているんだが」
「え? えっと……」
「院長!!」
「いいじゃないか。優秀な薬剤師は、他院との競争率が高いんだ。お前も知っているだろう?」
「だからって、今ここで勧誘しないでください!!」
戸惑っている私をかばうように、朔哉さんは抗議をしていた。ギャイギャイと喚く息子を翻弄する父の構図。
こんなふうに、いとも簡単に朔哉さんを手玉に取ってしまうなんて……さすがお父上様。
目の前で繰り広げられているこの光景を、いつまでも見ていたい。
朔哉さんには申し訳ないけれど、そんなふうに思ってしまった。
あのあとすぐ、秘書の方が迎えにきて、院長先生はマンションをあとにした。どうしても出席しなければならない会合があるのだそうだ。
忙しい合間を縫って、わざわざ息子の様子を見にきたんだな。
別れ際、『今日、君に会うことができてよかった』と、私に言ってくれた。『これから忙しくなるだろうが、体に気をつけて頑張りなさい』と。
その言葉が、胸に滲んだ。
よかった。実にいい日だった。
ありがとう、茶柱。誤解してごめんよ。
ゆったりとした雰囲気の中、食事を終えた私と朔哉さん。久しぶりに、悠々と二人の時間を過ごす。
ソファに座り、彼が夕刊を読んでいる横で、私はスマホ片手に陽菜ちゃんとメッセージ交換をしていた。
——今日、朔哉さんのお父さんに会いました。
——え!? どうだったっ?
——病院に就職しないかって勧誘された。
——マジでっ!? あたしのこともよろしく言っといてっ!!
……さすが、陽菜ちゃん。しっかりしていらっしゃる。
テーブルの上に置いてある紅茶に手を伸ばす。先日、母への手土産とともに、彼が購入してくれていたマスカットティー。部屋中に、気品溢れるこの上質な香りが充満している。
こくっと飲んで、ホッと一息。めちゃめちゃ美味しい。
ここで、彼に対し、さきほど気になったことを何気なく口にしてみた。
「院長先生に、敬語……なんですね」
「ん? あー……いつもじゃねぇけどな。なんとなく。一応、上司だから」
「あっ、なるほど」
夕刊を折り畳み、足元のマガジンラックにポイッと放り込んだ彼。その手で、カップを取り、ゆっくりと一口含んだ。
いくら親子といえども、職場が同じだと、そうなってしまうのは仕方がないことだろう。職場での関係は、上司と部下以外のなにものでもないのだから。
それに、ほかのスタッフの手前もあるもんね。
「今日、私もお会いすることができて、本当によかったです。……とても立派なお父様ですね」
私みたいな小娘にも、院長先生の偉大さは十分よく伝わった。
組織の最高責任者としても、一家の大黒柱としても、申し分のない素晴らしい人だ。
「ああ。……やっぱデカいわ。親父の背中は」
なにより、実の息子がこれほどまでに尊敬し、認めているのだから、間違いない。
……私の父とは、大違いだ。
羨ましいとは思わない。だって、比較することすら烏滸がましい。
私の中に流れている、あの人の血。どうすることもできないのに。……いや。どうすることもできないからこそ、憎くて憎くてたまらないんだ。
憎くて、情けなくて、腹が立って、忌々しくて……。
私の中には、まだなお、真っ黒な影が巣食っている。
朔哉さんには、知られたくないな……。
ところが、この直後、心の奥でポツリと呟いた私の望みは、無情にも打ち砕かれることとなる。
「あ、お母さんからだ」
突然、母からの着信で、握っていたスマホが震え出した。
わざわざ電話をかけてきたということは、何か急ぎの用事があるのだろう。
だが、特に思い当たる節もなかった私は、疑問符を浮かべながら、指先で通話ボタンをフリックした。
「もしもし?」
『あ、茉莉花! よかった、出てくれて……!』
母が喋った瞬間、その叫びにも似た声が、私の鼓膜にぶち当たった。もともと大きい声が、今日は一回りも二回りも大きい。
「どしたん? なんで、そんな慌ててんの?」
それに、なんだか焦っているみたいだ。
いつもなら、私が話せる状況かどうか、うかがいを立ててくれるのに。
『あんた、落ち着いて聞きや』
「いやいや、お母さんが落ち着こうよ」
いつもとは、明らかに様子の違う母。
隣に座っている朔哉さんも、ただならぬ何かを察知してくれているようだった。
『今さっき、市民病院から連絡があってな』
「市民病院?」
そして、次の瞬間、
『章吾さん……お父さんが、危篤なんやって』
私の思考は、停止した。
「……茉莉花?」
気がつけば、母との通話を終えており、気がつけば、朔哉さんに呼ばれていた。
母に伝えられた事実を、そのままリピートする。
「お父さんが」
「親父さん? お前の?」
「危篤だって」
「!?」
正直、母から聞いただけでは、あまりピンとこなかった。
「夜行バスで帰るか? それとも、明日の朝早く新幹線に乗るか?」
しかし、実際に口にしたことと、目の前でいろいろと思案してくれている朔哉さんの様相を目の当たりにして、はじめて自分の中で現状を消化することができた。
なんだ。
「私、帰らない」
簡単なことじゃないか。
「はっ? おいおい、ちょっと待てって。何言ってんだよ。早く帰らないと、もしかしたら間に合わなく——」
「どうでもいい、あんな人っ!!」
暴走しはじめた感情。
私の中に巣食う真っ黒な影が、ついに本性を現した。
上手くコントロールできない。
もう、止められない——
「だって……だって、自業自得じゃない!! 自分の責任よ!! 自分一人現実から逃げ出して、あんなバカみたいにお酒飲んで!!」
「おい、茉莉花」
「私とお母さんのことなんか、ろくに考えもしなかったくせに!! いったいどこまで迷惑かければ気が済むのよっ!!」
「茉莉花」
「……あんなヤツ……あんなヤツ、いなくなれば——」
「茉莉花っ!!」
「——っ」
急に目の前が真っ暗になった。
「もうそれ以上言うな」
瞼を、閉じてなんかいないのに。
「お前が、苦しくなるだけだ」
頭上から降り注いだ彼の声。体を包み込むように回された彼の腕。
私は、朔哉さんに抱き締められていた。
「俺にはわかるよ。奥さん亡くして、現実から逃げ出した親父さんの気持ち。……もちろん、親父さんがしたことは許されることじゃない。お前が恨む気持ちも、憎む気持ちも、当然だと思う」
宥めるように、諭すように、紡がれる彼の言葉。その一つ一つが、私の心の中に流れ込み、ぬくもりとともに浸透していく。
表情をうかがい知ることはできないが、おそらく彼も、過去のつらさから、その表情を歪めているのだろう。
「けど、お前は優しいから、今ここで会っとかないと絶対後悔するぞ。……お前が思ってること全部、面と向かって、親父さんにぶつけてこい」
「……っ……!!」
私は、彼の胸元にしがみついて泣いた。……泣き叫んだ。
怖かった。あのまま闇に呑み込まれてしまうかもしれないと。もう自分には戻れないかもしれないと。
彼に、嫌われてしまうかもしれないと。
それなのに、こんなにも醜い自分を、彼は受け入れてくれた。守ってくれた。
帰らなきゃ、神戸に。
自分の中で声がした。
私は、父に会わなければならない。
なにより、彼と誓ったから。『前を向いて歩いていく』って。
だから、逃げちゃだめだ。私も。
「……朔哉さん」
「ん?」
「明日、新幹線で帰ります……」
「……うん」
「それで、あの……」
「?」
「今日、ここに泊ってもいい、ですか……?」
「え……?」
「なんか、一人になりたくなくて。……ごめんなさい。大人になるって言ったのに……私、こんな子どもみたいなこと……」
彼の胸元に顔をうずめたまま、弱音を吐いてしまった。こういうことは、なるべく口にしないよう心にとめていたのに。
ほんと、だめだな。私……。
「まあ、大人な夜にしてもいいんなら、それはそれで大歓迎だけど」
「……っ!? ちょっ……何、言って……」
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いやいやいやいや!! その冗談、私には刺激が強すぎるんです!! レベルが高すぎるんですっ!!
魚のように口をパクパクさせ、最上級に顔を真っ赤にしていると、頬に手を添えられた。強制的に瞳を瞳で捉えられる。
このまま、吸い込まれてしまいそうだ。
「……こんなときに無理して一人になることない。泊まっていけ。明日の朝、駅まで送ってく」
俺はいつでもお前と一緒にいてやる——そう言って、彼は私の唇にキスを落としてくれた。
今日、わかったことがある。
彼は優しい。でも、彼がこんなにも優しいのは、きっと、彼の周りが優しいからだ。
私も、もっともっと、優しくなりたい。
彼の周りの人たちが、彼に対してそうであるように。
彼が、私にそうであるように。
翌朝、故郷へと向かうため、私は新幹線に乗り込んだ。
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