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1巻
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どうしても足元に向きかける視線を無理やり引きはがして数歩先にいるミシェルに固定する。それからゆっくりと足を踏み出した。
「そう。その調子よ。急がなくていいから、歩き方に集中しなさい」
踵とつま先は同時に地面につけて、まっすぐに前だけを見る。余計なことは考えずただひたすらに歩くことだけに意識を向ける。
すると、亀のほうが速そうな歩みではあったけど、私は無事にミシェルのもとに到着した。
緊張から解放された安堵で、はあと大きな息を吐き出す。
「それじゃあ次はもう少し長い距離を歩いてみましょう。そうね――」
ちらりとミシェルの視線が部屋の壁から逆方向にある壁に向く。次はその距離を歩けるように、ということなのだろう。
だけど実際にミシェルがそう言うより早く、ノックの音が部屋に飛びこんできた。
どうぞ、の声と共に顔が扉から覗く。
「ミシェル、それにエミリア嬢。客が来ているが……どうする?」
ノックの主はレオナルド様だった。彼の言葉にミシェルがはてと首を傾げる。
「客……? 私たちに、ということよね。どなたかしら」
ミシェルの顔にはかすかに警戒の色が浮かんでいる。ミシェルだけを訪ねてくるのならともかく、私にも用があるというのがひっかかったのだろう。
そもそも私がこの屋敷に居ることを知っているのはお父様ぐらいだ。誰か奇特な人間が、お父様に私の居場所を聞いたのならば話は別だけど、そこまでして訪ねてくる相手に心当たりはない。
訝しげな表情を浮かべていた私たちは、レオナルド様が口にした客人の名前にぱちくりと目を瞬かせて、顔を見合わせる。告げられたのが、数少ない友人の一人の名前だったからだ。
「会うのは気が進まないのであれば、断りを入れるが……」
「いえ、そんなまさか! 会いたいです」
慌てて否定すると、レオナルド様は安心したように表情を和らげて、ミシェルも鷹揚に頷いた。
「そうね。せっかく来ていただいたのだもの。……気は乗らないけれど、会うことにするわ」
私の友人は応接間にいるらしく、そちらに向かおうということになったのだが――大変困ったことに、私はほんの数歩の距離を歩くことすらままならない。
ぴたりと固まったままの私に、レオナルド様が困惑したように眉尻を下げる。
するとミシェルは仕方がないと言わんばかりに、笑みを浮かべた。
「兄様、エミリアをエスコートしてあげてちょうだい。エミリアも支えがあるほうが安心できるでしょう。兄様は無駄に体を鍛えているから、多少転びそうになっても微動だにしないはずよ」
「えっ」
思わぬ言葉に戸惑うが、意外なことにレオナルド様は苦笑しつつもすぐに私に腕を差し出した。
「無駄ではないのだが……まあ、いい。それではエミリア嬢、こちらに」
ミシェルには朴念仁だのなんだのと言われているが、さすがは侯爵家嫡男とでも言うべきか。洗練された優雅な仕草に思わず圧倒されかける。恐れ多いとひれ伏しそうになったけど、背に腹は代えられない。それに、この靴ではひれ伏すことすらできそうにない。
そっとレオナルド様の腕に手を添える。だけど、まったくといっていいほど足が前に出てくれない。
まったく動き出す気配のない私にレオナルド様は、ただ触れるだけの接触ではまだまだ安定感が足りないのだと、判断したようだ。
「……もう少し体重をかけてもらったほうが、いいかもしれない」
頭上から聞こえた声に、こくりと頷いて返す。そう言われて遠慮するのは野暮というものだろう。しがみつく勢いで腕に掴まってようやく身体が安定する。
「ありがとうございます、……っ」
ちらりと隣を見上げると、そこにあるのはミシェルと同じ紫紺色の髪と薔薇色の瞳。見慣れた色のはずなのに、髪の長さが違うからか、顔立ちが違うからか、ミシェルとは違う印象を受ける。
「まだ不安のようなら抱えていくこともできるが……」
「い、いえ、大丈夫です。ばっちりです。お気遣いありがとうございます」
ぱちりと目が合って、思わず顔を逸らしてしまう。変にそわそわしてしまうのは、カイオス以外の男性にエスコートされるのが初めてだからに違いない。
そうして、応接間で私たちが来るのを待っていたのは、顔をヴェールで隠した女性だった。
頭から首までをすっぽりと覆う黒いヴェールは、喪に服しているのであればおかしくない代物だ。
だけど着ているドレスは色鮮やかで、誰かの死を悼んでいるとは思えない。
なんともちぐはぐな装いをしている彼女は、私の三人しかいない友人の一人であるサラだ。
「ごきげんよう」
彼女が動くのに合わせてヴェールが揺れる。おそらく、こちらを見ているのだろう。だけど彼女の顔は完全に隠されていて、目がどこを向いているのかまったくわからない。
どういう構造をしているのか、こちらからはまったく見えないのに、あちらからはこちらがはっきりと見えているらしい。
「サラ様。本日は足を運んでいただき、ありがとうございます」
ミシェルがドレスをつまんで腰を曲げるのに合わせて、私も小さく頭を下げる。私の手はまだレオナルド様の腕に引っついているので、同じように動くことができなかった。
サラは遠く離れた異国の生まれで、我が国に来たのは三年前。
それから今に至るまで、彼女の友人は私しかいない。
彼女が社交性に欠けているというわけではない。ただ、とあるパーティーで粗相を働いてきた相手に、サラが彼女の生国に伝わる背負い投げをお見舞いしたからだ。
――しかもドレス姿で。
令嬢たるもの慎ましく淑やかに、という我が国に彼女が与えた衝撃はすさまじく、彼女はそれ以降、たくましくしぶといからという理由で、ほかの貴族から蒲公英という異名で呼ばれるようになった。
基本的にそういった異名は、貴族同士で噂話をするときに隠語として使われる。蒲公英と呼ばれるようになったということは当然、噂話で名前が挙がる頻度も多かったということで。彼女のしでかしたことは瞬く間に社交界全体に広がった。
その結果、彼女は遠巻きにされるようになり、私以外に親しい友人を作れなかったそうだ。
ちなみにパーティーの後から、彼女は目立ちたくないとヴェールを被りはじめた。友人が作れない理由が背負い投げにあるのかヴェールにあるのかはわからない。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
どことなくミシェルの口振りがよそよそしいのは、私とサラは友人ではあるのだけど、ミシェルとサラは友人ではないからだ。
「もちろん、傷心の友人を慰めに来たのですよ」
ヴェールを被った頭がこてんと傾くのに合わせて、私もレオナルド様に片手を取られたまま、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。サラに来てもらえて、嬉しいです」
それからレオナルド様にエスコートされる形でソファに座り、続いてミシェルも私の隣に腰を下ろす。
ようやく私から解放されたレオナルド様は、サラに軽く挨拶すると部屋を出ていった。
バタンと扉が閉め切られるのを見計らって、再びサラが口を開く。
「……エミリア。カイオス卿とのことを聞きました。あなたのご友人にもお伝えしたのですが、迅速に動いてくれたようで何よりです」
……なるほど。
ちらりとミシェルを見る。カイオスの誕生祝いに呼ばれていなかった彼女が、どうして翌日には知っていたのかと不思議だった。あの場にはほかにも大勢人がいたから、噂が出回ってもおかしくはないけど、あまりにも早すぎると思っていた。
だけどどうやら、サラに聞いていたらしい。
サラがどうして知っていたのかは、気にしないことにしよう。
「念のために、エフランテ家のパーティーに私の手の者を忍ばせておいて正解でした」
気にしないことにした問いの答えが即座に返ってきた。
手の者、という言葉に顔をひきつらせていると、私の隣でミシェルが悔しそうに唇を尖らせる。
「私にも隠密行動に長けた部下がいれば……今度、徹底的に教えこんでみようかしら……」
ミシェルはサラと友人ではないし、よそよそしいけれど、彼女を嫌っているわけではない。むしろ、尊敬の念を抱いてすらいる。
何故かというと、ミシェルが求めている武力をサラが持っているからだ。
さっき言っていた『手の者』は冗談ではなく、サラが従えている人々は隠密行動に長けていて、彼女自身それを従えるだけの能力を持ちあわせている。
サラの国では男女問わず武力を身に着けることがよしとされているとはいえ、自分にはないものを持っているサラがミシェルにとっては羨ましくもあり、尊敬する理由でもあるようだ。
ふつうに友人になればいいのにと思うけど、そう簡単な問題ではないようで。何故だかミシェルはサラを前にすると対抗心を燃やしてしまうらしい。
「それと、手紙を預かったので……どうぞ」
サラから差し出された便箋を受け取り、端に書かれた名前に自然と笑みが零れる。
記されていたのは、キャロル・レミントン。
私の三人しかいない友人の最後の一人の名前だった。
「私のことはお気になさらず。目を通していただいて構いません」
黒いヴェールの向こうから聞こえてきた声に甘えて、便箋から手紙を取り出す。
そこには、忙しくて会いに行けないけど私を心配しているということが、簡潔に書かれていた。
キャロルは手紙を書くのがあまり得意ではない。だからこそ、私のために必死に考えながらペンを走らせている姿が浮かんで、胸が温かくなった。
「わざわざ手紙を届けてくれて、ありがとうございます」
そっと頭を下げると、サラは気にしないでと言うように首を振り、憂鬱そうなため息を落とした。
「エフランテ家に手の者を直接忍ばせることができていれば、事前に対処のしようもあったはずなのに……ミシェルにはいらない苦労をかけさせてしまいましたね」
「いえ、そんな、サラのせいじゃないですから」
きっとヴェールの下では困ったように微笑んでいるのだろう。自らの不甲斐なさを悔いるようなサラの言動に、慌てて首を振る。
本当に、サラのせいじゃない。サラはこの件にいっさい関係していないし、婚約を破棄してきたのはカイオスだ。そのことに責任を感じる必要はどこにもない。
だけどそれでは納得しきれないようで、ヴェールの向こうからまっすぐな視線を感じた。
「エミリア。私の持つ権力は、この国の貴族に影響を及ぼせるほどのものではありません。それでも、私は大切な友人に力を貸したく思います。もしも何か――カイオス卿のことに限らず、困ったことがあればいつでも言ってください」
「ありがとうございます。そう言っていただけるだけで、嬉しいです」
私の友人は、本当に優しい人ばかりだ。
ミシェルは私を泊めてくれて、サラは私に起きたことをいち早く把握し、伝達してくれた。十分すぎるほど力を貸してもらっているし、世話になっている。
返せるものがないのが申し訳ない、と思いつつ頭を下げる。
すると、カタリと机の上に何かが置かれる音がした。
「それで、手始めにこちらをと思い、持ってきました」
顔を上げると、木造りの鞘に見えるものと黒い柄のようなものが置かれている。鞘らしいものの中に何が納められているのかは、きっと見るまでもないだろう。
「小刀です。あなたに粗相を働く者がいれば、こちらをお使いください」
どうしてサラは、私が考えないようにしていることを的確に突いてくるのか。
頬を引きつらせた私に構うことなく、サラは机の上に置かれていたそれを持ち上げて、鞘から中身を引き抜いた。
現れたのは、ナイフのような輝きを持っているのに私の知るナイフとは少しだけ形が違う、不思議な刃。
サラは照明を浴びてきらめくそれを私に見せながら、ゆっくりと口を開いた。
「私の母国では懐刀というのですが、あなた方には小刀、あるいは短剣とでも呼んだほうがわかりやすいでしょう。薄い作りですので横からの衝撃には気をつけて――」
「いや、いやいや、サラ。ちょっと待ってください」
目を丸くしている私を気にせず滔々と説明をしはじめたサラに、慌てて待ったをかける。
「本当に、心から、サラの気持ちは嬉しいのだけど、これは貰っても扱いに困るというか……武芸の心得がない人が生半可な武器を持っても逆効果と言うし、だから、その、つまり。お気持ちだけでありがたいです」
心の底からそう思う。
剣の心得はないし、私が持っていても宝の持ち腐れだ。
「そうですか。あなたがそう言うのでしたら、しかたありませんね」
サラの膝の上にある鞄に小刀が戻されるのを見て、ほっと息を吐く。
彼女の気が変わらないうちにさっさと話を変えよう。
「あー、と、サラのほうはどうですか? 何か困っていることはありませんか?」
「つつがなく。しいてあげるとすれば、私の大切な友人が傷つけられたことぐらいでしょうか」
「それは、まあ、あ、でも、今はそこまで気にしていないので、大丈夫です。ミシェルにもいろいろとよくしていただいているので……」
危ない。やぶを突いて蛇を出すところだった。
サラは一国の王女であり、留学という名目で我が国に滞在しているけど、実際の目的は貿易だ。
彼女の生国は長い航行を可能にする造船技術を得て、十数年前から海を渡り商売をしている。
そして、販路拡大を求めて我が国に訪れた。まだ十代のサラが責任者ではなめられるからと、公にはしていないけど。本来の目的はすでに達成しているとはいえ、責任ある立場のサラが私を思ってカイオスに何やらしでかしたら、せっかく結んだ我が国とサラの生国との関係にひびが入るかもしれない。
さすがにそこまでしない――と言い切れないのは、三年前の背負い投げ事件があるせいだ。
あれは当事者が許したのでうやむやになったけど、また問題を起こしたらどうなるかわからない。
「それで、最近はこれまでできなかったお洒落を楽しもうと思っています」
さくさくっと話を変える私に、サラのヴェールが緩く傾く。
おそらく、首を傾げているのだろう。
「お洒落、ですか?」
「はい。これまではいろいろと事情があってできなかったのですが、ログフェル家にお邪魔している間は羽目を外そうと思いまして」
サラには私のお母様やお父様の話をいっさいしていない。
お母様の騒動は十数年も前の話で、海の向こうから来たサラは知らないだろうし、わざわざ話すようなことでもないと思ったからだ。
――ほかの人たちのような偏見の目をサラに向けられるのが嫌だった、というのもあるけど。
サラは私の言葉にふむ、と小さく呟くと鷹揚に頷いた。
「そうなのですね。どうりでこれまで見たことのない恰好をしていると思いました。そういうことでしたら、私もお力添えできるかもしれません」
サラが話すのに合わせて、緩やかにヴェールが揺れた。その向こうにある顔が、何故だか微笑んでいるような気がして、ぱちくりと目を瞬かせる。
「優美な装いというものは、相応の装飾がなされているもの。となれば当然、体にかかる負荷も相応のものになります」
「え、ええと、それは、つまり?」
「必要なものは、どのような装いだろうと姿勢を保ち続ける体幹と、それを支える筋力です。私にお任せいただければ、天が降ろうと地が崩れようとも決して崩れることのない、美しい所作をご教授いたしましょう」
話の流れからして、教えられるのは所作ではないような気がするのだけど、自信たっぷりなサラの申し出を断ることはできなかった。
◇◇◇
お洒落とは忍耐である。そう言ったのがどこの誰なのかは知らないけど、それが正しいことを私は今、痛感している。
「エミリア。お疲れ様」
ログフェル家の庭園で息も絶え絶えになっている私に、ミシェルがそっと冷たい果実水を差し入れてくれた。爽やかな風味が喉を潤し、生きているという実感が湧いてくる。
その向こうで、生き生きとしたサラの声が聞こえてくる。
「さすがは私の大切な友人。ほんの一週間でここまで上達するとは。感無量です」
顔を完全に隠している黒いヴェールのせいでまったくわからないけど、言葉からすると涙ぐんでいるらしい。声色からはそういう感じがまったくしないけど。
がくがくする足を押さえつつ、私はサラを見上げた。
「とりあえずね、ハイヒールで運動するのは、いろいろと無茶があると思うの、です」
サラが、お洒落は体力と体幹からと言ってから、一週間。
訓練初日に、踵の高い靴で運動するなんて足首を痛めるから無理だと訴えたけど、慣れれば走ることも不可能ではないと説得されてしまった。そして本を頭に乗せて歩くという定番な練習方法から、無茶だと言いたくなるような訓練も行って――
今さらではあるが、一応もう一度無茶だと主張する私に、ミシェルとサラが顔を見合わせる。
そして小さく肩をすくめると、二人とも私のほうを向いた。
「ですが、エミリア。靴にもだいぶ慣れたのではありませんか? 私のおかげと言いたいところではありますが、ミシェル様の支えあってこそとも言えるでしょう」
「いえ、サラ様が素晴らしい指導をしてくださったおかげですわ」
事前に打ち合わせでもしていたのか、息をぴったり合わせて互いを褒め合う二人に、ぐむむと唸ることしかできない。
私の友人と友人が仲を深め合っているのはとてもいいことだ。たとえ、私という犠牲があったからこそだとしても。
そこに水を差すことはできず、私は黙って果実水のおかわりを貰うことにした。
「よし、休憩は終わりました! 次はなんですか? 背負い投げ?」
以前、話の流れでサラに背負い投げを教わったことがある。だけどそのときは踵の低い靴だった。
小刀の代わりになる身を守る手段を、と言われたら断れず、改めてハイヒールでの背負い投げを教わることになったのだけど、難易度が高すぎていまだ習得には至っていない。
足を折るか折らないかという次元からまったく進歩していないので、次は背負い投げの練習かと思ったのだけど。
「いいえ、エミリア。今日の訓練はこれで終わりにしましょう。この後は――」
パンパンとミシェルが手を鳴らすのに合わせて、いったいいつから隠れていたのか、ログフェル家に仕える侍女がいっせいに現れる。その手には、箱やらドレスやら。
「――お洒落の時間よ」
その言葉に目を白黒させると、ミシェルはそれは美しい笑みを浮かべて、私を室内に招いた。
運動を終えた身体は手早く湯あみをされ、すぐに着替えの間に通される。
そうして着せられたのは夜の闇を閉じこめたかのようなドレス。生地には星空のように瞬く宝石が編み込まれ、レースをあしらった袖口には、繊細な模様の刺繍。腰元を飾るリボンは金糸を織り込んだ生地を使っていて、歩くたびにふわりと揺れる。
緩く巻かれた栗色の髪は、複雑に編み込まれ、ハーフアップにまとめられている。それを飾るのは、ドレスに合わせた金糸で縁取りされた黒いリボンだ。
化粧は控えめに、だけど唇に引かれた紅は鮮やかで、自然と視線が吸い寄せられる。
「……これ、私?」
姿見に映る自分に呆然と呟く。いつもと変わらない体形のはずなのに、どことなく妖艶な雰囲気をまとっているようで――あまりの変貌ぶりに本当に自分なのかと疑ってしまう。
「色気って、作れるんだ」
「着飾った感想がそれで、本当にいいの?」
少しだけ苦笑がまざったミシェルの声に、鏡の中の自分がわずかに眉を下げる。
「いや、だって……私に色気なんて未来永劫無理だと思ってたから」
「そんなことないわ。大切なのは、あなたの魅力をどう引き出すかよ」
私の魅力を最大限引き出せていれば、カイオスとの結果も違ったのだろうか。
ふとそんなことを考えて、胸の奥が重くなる。
そんな私の内心を読み取ったのか、ミシェルとサラは胸を張ってくれた。
「どこに色気を感じるかなんて人によるものよ。色気の有無なんて気にすることないわ」
「ええ、そうですとも。そもそも、あなたは可愛らしく愛らしいのですから、それに加えて綺麗な装いをしてほしいと思うのなら、あなたの元婚約者が率先して動くべきだったのです。婚約者だからといって労力もかけず、ただ詰るような方など忘れてしまいなさい」
その力強い言葉に、重くなった心が少しだけ軽くなる。
たしかに、二人の言うとおりだ。今さら考えてもしかたのないことだし、過ぎてしまったことはどうにもならない。カイオスのことを考えるのは意識と感情と時間の無駄だと割り切って、今はただ、ミシェルたちとの時間を楽しもう。
「ありがとう、二人とも」
「お礼を言われるようなことはしていないわ。私のほうこそ、お人形遊びをさせてくれてありがとう」
「私も楽しい時間を過ごさせていただいているので、お互い様です」
少しだけ照れたようにつんとすましながら言うミシェルと、ヴェールのせいで表情はわからないが、楽しげな声で答えてくれたサラに微笑む。本当に、よい友達を持った。
そこへ、コンコンとノックの音が響いた。
「楽しんでいるところ失礼するわね」
ログフェル夫人が部屋に入ってくる。彼女の手には二通の手紙があった。
「夜会の招待状が来たのだけれど、どうかしら?」
ログフェル夫人の視線はミシェルと、何故か私にも向いている。
ログフェル家に届いた招待状なら、私は関係ない。それなのにどうしてだろうと首を傾げると、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「ダンスや衣装を身内で楽しむのもいいと思うわ。だけど、あなたの美しさは人前でこそ輝くものもあると思うの」
つまり、私のために招待状を用意してくれた、ということ?
驚きで目を瞠ると、ミシェルが顔をしかめた。
「母様。そういうことは事前に言っておいてくれないと困るわ」
「あらだって、教えていたらもっと根を詰めて練習していたでしょう? それでは夜会がはじまる前に疲れてしまうじゃない」
「夜会の日取りは?」
「二週間後よ。準備するにはじゅうぶん……ではないかもしれないけれど、短すぎるということもないはず。……もちろん、無理強いするつもりはないわ。気が乗らないというのなら断りの連絡を入れるだけだから、気楽に考えてちょうだい」
そう言ってログフェル夫人は私の返事を待つように、口を噤んだ。
二週間後には、私が婚約破棄されたことは社交界全体に広まっているだろう。
婚約破棄という響きから、お母様の過去を連想している人もいるはずだ。お父様と同じように、お母様の娘でありながら婚約破棄されるとは、と考える人もいるかもしれない。
いずれにせよ、周囲からの好奇の視線は避けられない。
どうしようかと悩んで、ちらりとミシェルとサラを見る。
すると二人は心得たように答えた。
「私はエミリアが参加するのなら行くわ」
「二週間後……ですか。残念なことに、その日には所用があるので私は出席できないと思います」
間髪容れずに答えたミシェルと申し訳なさそうな声色のサラの姿に、少しだけ視線を落とす。
悩んだのは、ほんのわずかの間だけ。私はすぐに顔を上げて、ログフェル夫人をまっすぐに見つめた。
「お心遣いありがとうございます。ぜひ参加させていただきます」
いつまでもログフェル邸に引っこんでいることはできない。いつかは、どこかのパーティーに顔を出す日がくる。
ならせめて、私の友人がいる場所のほうが、落ち着いて臨める。
私の答えにログフェル夫人はにっこりと微笑んだ。
「わかったわ。なら、そうお返事しておくわね」
失礼したわね、と言ってログフェル夫人が部屋を出ていく。扉が完全に閉め切られてから、サラとミシェルが心配そうな目を私に向けた。
「そう。その調子よ。急がなくていいから、歩き方に集中しなさい」
踵とつま先は同時に地面につけて、まっすぐに前だけを見る。余計なことは考えずただひたすらに歩くことだけに意識を向ける。
すると、亀のほうが速そうな歩みではあったけど、私は無事にミシェルのもとに到着した。
緊張から解放された安堵で、はあと大きな息を吐き出す。
「それじゃあ次はもう少し長い距離を歩いてみましょう。そうね――」
ちらりとミシェルの視線が部屋の壁から逆方向にある壁に向く。次はその距離を歩けるように、ということなのだろう。
だけど実際にミシェルがそう言うより早く、ノックの音が部屋に飛びこんできた。
どうぞ、の声と共に顔が扉から覗く。
「ミシェル、それにエミリア嬢。客が来ているが……どうする?」
ノックの主はレオナルド様だった。彼の言葉にミシェルがはてと首を傾げる。
「客……? 私たちに、ということよね。どなたかしら」
ミシェルの顔にはかすかに警戒の色が浮かんでいる。ミシェルだけを訪ねてくるのならともかく、私にも用があるというのがひっかかったのだろう。
そもそも私がこの屋敷に居ることを知っているのはお父様ぐらいだ。誰か奇特な人間が、お父様に私の居場所を聞いたのならば話は別だけど、そこまでして訪ねてくる相手に心当たりはない。
訝しげな表情を浮かべていた私たちは、レオナルド様が口にした客人の名前にぱちくりと目を瞬かせて、顔を見合わせる。告げられたのが、数少ない友人の一人の名前だったからだ。
「会うのは気が進まないのであれば、断りを入れるが……」
「いえ、そんなまさか! 会いたいです」
慌てて否定すると、レオナルド様は安心したように表情を和らげて、ミシェルも鷹揚に頷いた。
「そうね。せっかく来ていただいたのだもの。……気は乗らないけれど、会うことにするわ」
私の友人は応接間にいるらしく、そちらに向かおうということになったのだが――大変困ったことに、私はほんの数歩の距離を歩くことすらままならない。
ぴたりと固まったままの私に、レオナルド様が困惑したように眉尻を下げる。
するとミシェルは仕方がないと言わんばかりに、笑みを浮かべた。
「兄様、エミリアをエスコートしてあげてちょうだい。エミリアも支えがあるほうが安心できるでしょう。兄様は無駄に体を鍛えているから、多少転びそうになっても微動だにしないはずよ」
「えっ」
思わぬ言葉に戸惑うが、意外なことにレオナルド様は苦笑しつつもすぐに私に腕を差し出した。
「無駄ではないのだが……まあ、いい。それではエミリア嬢、こちらに」
ミシェルには朴念仁だのなんだのと言われているが、さすがは侯爵家嫡男とでも言うべきか。洗練された優雅な仕草に思わず圧倒されかける。恐れ多いとひれ伏しそうになったけど、背に腹は代えられない。それに、この靴ではひれ伏すことすらできそうにない。
そっとレオナルド様の腕に手を添える。だけど、まったくといっていいほど足が前に出てくれない。
まったく動き出す気配のない私にレオナルド様は、ただ触れるだけの接触ではまだまだ安定感が足りないのだと、判断したようだ。
「……もう少し体重をかけてもらったほうが、いいかもしれない」
頭上から聞こえた声に、こくりと頷いて返す。そう言われて遠慮するのは野暮というものだろう。しがみつく勢いで腕に掴まってようやく身体が安定する。
「ありがとうございます、……っ」
ちらりと隣を見上げると、そこにあるのはミシェルと同じ紫紺色の髪と薔薇色の瞳。見慣れた色のはずなのに、髪の長さが違うからか、顔立ちが違うからか、ミシェルとは違う印象を受ける。
「まだ不安のようなら抱えていくこともできるが……」
「い、いえ、大丈夫です。ばっちりです。お気遣いありがとうございます」
ぱちりと目が合って、思わず顔を逸らしてしまう。変にそわそわしてしまうのは、カイオス以外の男性にエスコートされるのが初めてだからに違いない。
そうして、応接間で私たちが来るのを待っていたのは、顔をヴェールで隠した女性だった。
頭から首までをすっぽりと覆う黒いヴェールは、喪に服しているのであればおかしくない代物だ。
だけど着ているドレスは色鮮やかで、誰かの死を悼んでいるとは思えない。
なんともちぐはぐな装いをしている彼女は、私の三人しかいない友人の一人であるサラだ。
「ごきげんよう」
彼女が動くのに合わせてヴェールが揺れる。おそらく、こちらを見ているのだろう。だけど彼女の顔は完全に隠されていて、目がどこを向いているのかまったくわからない。
どういう構造をしているのか、こちらからはまったく見えないのに、あちらからはこちらがはっきりと見えているらしい。
「サラ様。本日は足を運んでいただき、ありがとうございます」
ミシェルがドレスをつまんで腰を曲げるのに合わせて、私も小さく頭を下げる。私の手はまだレオナルド様の腕に引っついているので、同じように動くことができなかった。
サラは遠く離れた異国の生まれで、我が国に来たのは三年前。
それから今に至るまで、彼女の友人は私しかいない。
彼女が社交性に欠けているというわけではない。ただ、とあるパーティーで粗相を働いてきた相手に、サラが彼女の生国に伝わる背負い投げをお見舞いしたからだ。
――しかもドレス姿で。
令嬢たるもの慎ましく淑やかに、という我が国に彼女が与えた衝撃はすさまじく、彼女はそれ以降、たくましくしぶといからという理由で、ほかの貴族から蒲公英という異名で呼ばれるようになった。
基本的にそういった異名は、貴族同士で噂話をするときに隠語として使われる。蒲公英と呼ばれるようになったということは当然、噂話で名前が挙がる頻度も多かったということで。彼女のしでかしたことは瞬く間に社交界全体に広がった。
その結果、彼女は遠巻きにされるようになり、私以外に親しい友人を作れなかったそうだ。
ちなみにパーティーの後から、彼女は目立ちたくないとヴェールを被りはじめた。友人が作れない理由が背負い投げにあるのかヴェールにあるのかはわからない。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
どことなくミシェルの口振りがよそよそしいのは、私とサラは友人ではあるのだけど、ミシェルとサラは友人ではないからだ。
「もちろん、傷心の友人を慰めに来たのですよ」
ヴェールを被った頭がこてんと傾くのに合わせて、私もレオナルド様に片手を取られたまま、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。サラに来てもらえて、嬉しいです」
それからレオナルド様にエスコートされる形でソファに座り、続いてミシェルも私の隣に腰を下ろす。
ようやく私から解放されたレオナルド様は、サラに軽く挨拶すると部屋を出ていった。
バタンと扉が閉め切られるのを見計らって、再びサラが口を開く。
「……エミリア。カイオス卿とのことを聞きました。あなたのご友人にもお伝えしたのですが、迅速に動いてくれたようで何よりです」
……なるほど。
ちらりとミシェルを見る。カイオスの誕生祝いに呼ばれていなかった彼女が、どうして翌日には知っていたのかと不思議だった。あの場にはほかにも大勢人がいたから、噂が出回ってもおかしくはないけど、あまりにも早すぎると思っていた。
だけどどうやら、サラに聞いていたらしい。
サラがどうして知っていたのかは、気にしないことにしよう。
「念のために、エフランテ家のパーティーに私の手の者を忍ばせておいて正解でした」
気にしないことにした問いの答えが即座に返ってきた。
手の者、という言葉に顔をひきつらせていると、私の隣でミシェルが悔しそうに唇を尖らせる。
「私にも隠密行動に長けた部下がいれば……今度、徹底的に教えこんでみようかしら……」
ミシェルはサラと友人ではないし、よそよそしいけれど、彼女を嫌っているわけではない。むしろ、尊敬の念を抱いてすらいる。
何故かというと、ミシェルが求めている武力をサラが持っているからだ。
さっき言っていた『手の者』は冗談ではなく、サラが従えている人々は隠密行動に長けていて、彼女自身それを従えるだけの能力を持ちあわせている。
サラの国では男女問わず武力を身に着けることがよしとされているとはいえ、自分にはないものを持っているサラがミシェルにとっては羨ましくもあり、尊敬する理由でもあるようだ。
ふつうに友人になればいいのにと思うけど、そう簡単な問題ではないようで。何故だかミシェルはサラを前にすると対抗心を燃やしてしまうらしい。
「それと、手紙を預かったので……どうぞ」
サラから差し出された便箋を受け取り、端に書かれた名前に自然と笑みが零れる。
記されていたのは、キャロル・レミントン。
私の三人しかいない友人の最後の一人の名前だった。
「私のことはお気になさらず。目を通していただいて構いません」
黒いヴェールの向こうから聞こえてきた声に甘えて、便箋から手紙を取り出す。
そこには、忙しくて会いに行けないけど私を心配しているということが、簡潔に書かれていた。
キャロルは手紙を書くのがあまり得意ではない。だからこそ、私のために必死に考えながらペンを走らせている姿が浮かんで、胸が温かくなった。
「わざわざ手紙を届けてくれて、ありがとうございます」
そっと頭を下げると、サラは気にしないでと言うように首を振り、憂鬱そうなため息を落とした。
「エフランテ家に手の者を直接忍ばせることができていれば、事前に対処のしようもあったはずなのに……ミシェルにはいらない苦労をかけさせてしまいましたね」
「いえ、そんな、サラのせいじゃないですから」
きっとヴェールの下では困ったように微笑んでいるのだろう。自らの不甲斐なさを悔いるようなサラの言動に、慌てて首を振る。
本当に、サラのせいじゃない。サラはこの件にいっさい関係していないし、婚約を破棄してきたのはカイオスだ。そのことに責任を感じる必要はどこにもない。
だけどそれでは納得しきれないようで、ヴェールの向こうからまっすぐな視線を感じた。
「エミリア。私の持つ権力は、この国の貴族に影響を及ぼせるほどのものではありません。それでも、私は大切な友人に力を貸したく思います。もしも何か――カイオス卿のことに限らず、困ったことがあればいつでも言ってください」
「ありがとうございます。そう言っていただけるだけで、嬉しいです」
私の友人は、本当に優しい人ばかりだ。
ミシェルは私を泊めてくれて、サラは私に起きたことをいち早く把握し、伝達してくれた。十分すぎるほど力を貸してもらっているし、世話になっている。
返せるものがないのが申し訳ない、と思いつつ頭を下げる。
すると、カタリと机の上に何かが置かれる音がした。
「それで、手始めにこちらをと思い、持ってきました」
顔を上げると、木造りの鞘に見えるものと黒い柄のようなものが置かれている。鞘らしいものの中に何が納められているのかは、きっと見るまでもないだろう。
「小刀です。あなたに粗相を働く者がいれば、こちらをお使いください」
どうしてサラは、私が考えないようにしていることを的確に突いてくるのか。
頬を引きつらせた私に構うことなく、サラは机の上に置かれていたそれを持ち上げて、鞘から中身を引き抜いた。
現れたのは、ナイフのような輝きを持っているのに私の知るナイフとは少しだけ形が違う、不思議な刃。
サラは照明を浴びてきらめくそれを私に見せながら、ゆっくりと口を開いた。
「私の母国では懐刀というのですが、あなた方には小刀、あるいは短剣とでも呼んだほうがわかりやすいでしょう。薄い作りですので横からの衝撃には気をつけて――」
「いや、いやいや、サラ。ちょっと待ってください」
目を丸くしている私を気にせず滔々と説明をしはじめたサラに、慌てて待ったをかける。
「本当に、心から、サラの気持ちは嬉しいのだけど、これは貰っても扱いに困るというか……武芸の心得がない人が生半可な武器を持っても逆効果と言うし、だから、その、つまり。お気持ちだけでありがたいです」
心の底からそう思う。
剣の心得はないし、私が持っていても宝の持ち腐れだ。
「そうですか。あなたがそう言うのでしたら、しかたありませんね」
サラの膝の上にある鞄に小刀が戻されるのを見て、ほっと息を吐く。
彼女の気が変わらないうちにさっさと話を変えよう。
「あー、と、サラのほうはどうですか? 何か困っていることはありませんか?」
「つつがなく。しいてあげるとすれば、私の大切な友人が傷つけられたことぐらいでしょうか」
「それは、まあ、あ、でも、今はそこまで気にしていないので、大丈夫です。ミシェルにもいろいろとよくしていただいているので……」
危ない。やぶを突いて蛇を出すところだった。
サラは一国の王女であり、留学という名目で我が国に滞在しているけど、実際の目的は貿易だ。
彼女の生国は長い航行を可能にする造船技術を得て、十数年前から海を渡り商売をしている。
そして、販路拡大を求めて我が国に訪れた。まだ十代のサラが責任者ではなめられるからと、公にはしていないけど。本来の目的はすでに達成しているとはいえ、責任ある立場のサラが私を思ってカイオスに何やらしでかしたら、せっかく結んだ我が国とサラの生国との関係にひびが入るかもしれない。
さすがにそこまでしない――と言い切れないのは、三年前の背負い投げ事件があるせいだ。
あれは当事者が許したのでうやむやになったけど、また問題を起こしたらどうなるかわからない。
「それで、最近はこれまでできなかったお洒落を楽しもうと思っています」
さくさくっと話を変える私に、サラのヴェールが緩く傾く。
おそらく、首を傾げているのだろう。
「お洒落、ですか?」
「はい。これまではいろいろと事情があってできなかったのですが、ログフェル家にお邪魔している間は羽目を外そうと思いまして」
サラには私のお母様やお父様の話をいっさいしていない。
お母様の騒動は十数年も前の話で、海の向こうから来たサラは知らないだろうし、わざわざ話すようなことでもないと思ったからだ。
――ほかの人たちのような偏見の目をサラに向けられるのが嫌だった、というのもあるけど。
サラは私の言葉にふむ、と小さく呟くと鷹揚に頷いた。
「そうなのですね。どうりでこれまで見たことのない恰好をしていると思いました。そういうことでしたら、私もお力添えできるかもしれません」
サラが話すのに合わせて、緩やかにヴェールが揺れた。その向こうにある顔が、何故だか微笑んでいるような気がして、ぱちくりと目を瞬かせる。
「優美な装いというものは、相応の装飾がなされているもの。となれば当然、体にかかる負荷も相応のものになります」
「え、ええと、それは、つまり?」
「必要なものは、どのような装いだろうと姿勢を保ち続ける体幹と、それを支える筋力です。私にお任せいただければ、天が降ろうと地が崩れようとも決して崩れることのない、美しい所作をご教授いたしましょう」
話の流れからして、教えられるのは所作ではないような気がするのだけど、自信たっぷりなサラの申し出を断ることはできなかった。
◇◇◇
お洒落とは忍耐である。そう言ったのがどこの誰なのかは知らないけど、それが正しいことを私は今、痛感している。
「エミリア。お疲れ様」
ログフェル家の庭園で息も絶え絶えになっている私に、ミシェルがそっと冷たい果実水を差し入れてくれた。爽やかな風味が喉を潤し、生きているという実感が湧いてくる。
その向こうで、生き生きとしたサラの声が聞こえてくる。
「さすがは私の大切な友人。ほんの一週間でここまで上達するとは。感無量です」
顔を完全に隠している黒いヴェールのせいでまったくわからないけど、言葉からすると涙ぐんでいるらしい。声色からはそういう感じがまったくしないけど。
がくがくする足を押さえつつ、私はサラを見上げた。
「とりあえずね、ハイヒールで運動するのは、いろいろと無茶があると思うの、です」
サラが、お洒落は体力と体幹からと言ってから、一週間。
訓練初日に、踵の高い靴で運動するなんて足首を痛めるから無理だと訴えたけど、慣れれば走ることも不可能ではないと説得されてしまった。そして本を頭に乗せて歩くという定番な練習方法から、無茶だと言いたくなるような訓練も行って――
今さらではあるが、一応もう一度無茶だと主張する私に、ミシェルとサラが顔を見合わせる。
そして小さく肩をすくめると、二人とも私のほうを向いた。
「ですが、エミリア。靴にもだいぶ慣れたのではありませんか? 私のおかげと言いたいところではありますが、ミシェル様の支えあってこそとも言えるでしょう」
「いえ、サラ様が素晴らしい指導をしてくださったおかげですわ」
事前に打ち合わせでもしていたのか、息をぴったり合わせて互いを褒め合う二人に、ぐむむと唸ることしかできない。
私の友人と友人が仲を深め合っているのはとてもいいことだ。たとえ、私という犠牲があったからこそだとしても。
そこに水を差すことはできず、私は黙って果実水のおかわりを貰うことにした。
「よし、休憩は終わりました! 次はなんですか? 背負い投げ?」
以前、話の流れでサラに背負い投げを教わったことがある。だけどそのときは踵の低い靴だった。
小刀の代わりになる身を守る手段を、と言われたら断れず、改めてハイヒールでの背負い投げを教わることになったのだけど、難易度が高すぎていまだ習得には至っていない。
足を折るか折らないかという次元からまったく進歩していないので、次は背負い投げの練習かと思ったのだけど。
「いいえ、エミリア。今日の訓練はこれで終わりにしましょう。この後は――」
パンパンとミシェルが手を鳴らすのに合わせて、いったいいつから隠れていたのか、ログフェル家に仕える侍女がいっせいに現れる。その手には、箱やらドレスやら。
「――お洒落の時間よ」
その言葉に目を白黒させると、ミシェルはそれは美しい笑みを浮かべて、私を室内に招いた。
運動を終えた身体は手早く湯あみをされ、すぐに着替えの間に通される。
そうして着せられたのは夜の闇を閉じこめたかのようなドレス。生地には星空のように瞬く宝石が編み込まれ、レースをあしらった袖口には、繊細な模様の刺繍。腰元を飾るリボンは金糸を織り込んだ生地を使っていて、歩くたびにふわりと揺れる。
緩く巻かれた栗色の髪は、複雑に編み込まれ、ハーフアップにまとめられている。それを飾るのは、ドレスに合わせた金糸で縁取りされた黒いリボンだ。
化粧は控えめに、だけど唇に引かれた紅は鮮やかで、自然と視線が吸い寄せられる。
「……これ、私?」
姿見に映る自分に呆然と呟く。いつもと変わらない体形のはずなのに、どことなく妖艶な雰囲気をまとっているようで――あまりの変貌ぶりに本当に自分なのかと疑ってしまう。
「色気って、作れるんだ」
「着飾った感想がそれで、本当にいいの?」
少しだけ苦笑がまざったミシェルの声に、鏡の中の自分がわずかに眉を下げる。
「いや、だって……私に色気なんて未来永劫無理だと思ってたから」
「そんなことないわ。大切なのは、あなたの魅力をどう引き出すかよ」
私の魅力を最大限引き出せていれば、カイオスとの結果も違ったのだろうか。
ふとそんなことを考えて、胸の奥が重くなる。
そんな私の内心を読み取ったのか、ミシェルとサラは胸を張ってくれた。
「どこに色気を感じるかなんて人によるものよ。色気の有無なんて気にすることないわ」
「ええ、そうですとも。そもそも、あなたは可愛らしく愛らしいのですから、それに加えて綺麗な装いをしてほしいと思うのなら、あなたの元婚約者が率先して動くべきだったのです。婚約者だからといって労力もかけず、ただ詰るような方など忘れてしまいなさい」
その力強い言葉に、重くなった心が少しだけ軽くなる。
たしかに、二人の言うとおりだ。今さら考えてもしかたのないことだし、過ぎてしまったことはどうにもならない。カイオスのことを考えるのは意識と感情と時間の無駄だと割り切って、今はただ、ミシェルたちとの時間を楽しもう。
「ありがとう、二人とも」
「お礼を言われるようなことはしていないわ。私のほうこそ、お人形遊びをさせてくれてありがとう」
「私も楽しい時間を過ごさせていただいているので、お互い様です」
少しだけ照れたようにつんとすましながら言うミシェルと、ヴェールのせいで表情はわからないが、楽しげな声で答えてくれたサラに微笑む。本当に、よい友達を持った。
そこへ、コンコンとノックの音が響いた。
「楽しんでいるところ失礼するわね」
ログフェル夫人が部屋に入ってくる。彼女の手には二通の手紙があった。
「夜会の招待状が来たのだけれど、どうかしら?」
ログフェル夫人の視線はミシェルと、何故か私にも向いている。
ログフェル家に届いた招待状なら、私は関係ない。それなのにどうしてだろうと首を傾げると、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「ダンスや衣装を身内で楽しむのもいいと思うわ。だけど、あなたの美しさは人前でこそ輝くものもあると思うの」
つまり、私のために招待状を用意してくれた、ということ?
驚きで目を瞠ると、ミシェルが顔をしかめた。
「母様。そういうことは事前に言っておいてくれないと困るわ」
「あらだって、教えていたらもっと根を詰めて練習していたでしょう? それでは夜会がはじまる前に疲れてしまうじゃない」
「夜会の日取りは?」
「二週間後よ。準備するにはじゅうぶん……ではないかもしれないけれど、短すぎるということもないはず。……もちろん、無理強いするつもりはないわ。気が乗らないというのなら断りの連絡を入れるだけだから、気楽に考えてちょうだい」
そう言ってログフェル夫人は私の返事を待つように、口を噤んだ。
二週間後には、私が婚約破棄されたことは社交界全体に広まっているだろう。
婚約破棄という響きから、お母様の過去を連想している人もいるはずだ。お父様と同じように、お母様の娘でありながら婚約破棄されるとは、と考える人もいるかもしれない。
いずれにせよ、周囲からの好奇の視線は避けられない。
どうしようかと悩んで、ちらりとミシェルとサラを見る。
すると二人は心得たように答えた。
「私はエミリアが参加するのなら行くわ」
「二週間後……ですか。残念なことに、その日には所用があるので私は出席できないと思います」
間髪容れずに答えたミシェルと申し訳なさそうな声色のサラの姿に、少しだけ視線を落とす。
悩んだのは、ほんのわずかの間だけ。私はすぐに顔を上げて、ログフェル夫人をまっすぐに見つめた。
「お心遣いありがとうございます。ぜひ参加させていただきます」
いつまでもログフェル邸に引っこんでいることはできない。いつかは、どこかのパーティーに顔を出す日がくる。
ならせめて、私の友人がいる場所のほうが、落ち着いて臨める。
私の答えにログフェル夫人はにっこりと微笑んだ。
「わかったわ。なら、そうお返事しておくわね」
失礼したわね、と言ってログフェル夫人が部屋を出ていく。扉が完全に閉め切られてから、サラとミシェルが心配そうな目を私に向けた。
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