2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟む
ミシェルは、これまでにもいろいろと複雑な思いを抱いていて、その愚痴を聞くことはたしかにあった。
王家からも覚えめでたい侯爵家の娘ミシェルと、しがない子爵家の娘である私は立場も違うし、環境も違う。
だけど、父親に対して不満を持っているという点では共通していた。
これがミシェルとの友情を築く一因になってくれたのだから、それだけはお父様に感謝している。
「……私も、お父様の言うとおりにしていたのに駄目って、もうどうすればいいのよ」
はあ、とため息と共に、二人してうなだれる。
お父様のことを思い出して、憂鬱な気持ちまで思い出してしまった。
お父様に感謝できることなんてほとんどないけど、それでもお父様はお父様で、私の家族だ。
愛されたいと――弟と同じように、家族の輪に入れてほしいと願ったこともある。
言うことを聞いていれば褒めてもらえるかもと期待してはひたすらに従順であり続け、お母様とは違うのだとわかれば喜んでもらえるかもと勉学に勤しみ、きらびやかな衣装に身を包むほかの令嬢を羨むことがないように目を逸らし続けた。
だけど全部、無駄だった。お父様は私の努力なんて見てもいなかったし、カイオスに婚約を破棄されたのは私の努力が足りなかったからだと断じられた。
完全に手詰まりだ。
するとミシェルが首を傾げた。
「あら、そんなの簡単じゃない。言うとおりにして駄目なら、言うとおりにしなければいいのよ」
そうなんてことのないように言うミシェルに、うなだれていた顔を上げる。
「流行のドレスも肌の見えるファッションも宝石のひとつも駄目だと言うのなら、それらすべてを身に着けてはどうかしら」
「……できるなら、最初からそうしてるよ」
家にあるのはお父様の選んだ服ばかりで、装飾品なんて、地味で流行遅れなリボンや小さな首飾りぐらいしかない。
私財があるのなら、こっそりと買い求めることもできただろう。
だけどお父様は、何に使うかわからないという理由で、子供の駄賃程度のお小遣いすらくれない。弟には金に糸目をつけず優秀な教師をつけたり、必要に応じてお小遣いをあげたりしているのに。
自分で稼ぐ、というのも難しい。私の一日のスケジュールはお父様が管理していて、何をするにしても、それこそミシェルに――友人に会いに行くにも許可が必要だった。
何も言わず出かければ、どこで何をしていたのか詰問され、勝手な行動を咎められる。
それに何かおかしなことはしていないかと度々持ち物を確認された。カイオス以外からの贈り物でも持っていた日には、ふしだらだと烈火のごとく叱られただろう。
幸い、誰かに何かを貰う機会はなかったのだけど。もちろん、カイオスからも。
私はむなしい現実を思い出しながら苦笑する。
「私がそんなもの持ってないのは知っているでしょ?」
「ええ、そうね。たしかにあなたは着飾るものを持っていないわ。だけど知っているかしら。私にはあるのよ」
パンパンとミシェルが手を鳴らすと、いつから待機していたのか、数人の侍女がそれぞれの手に服やら箱やらを持って現れた。
一切乱れずにずらりと並ぶ侍女たちに目を丸くすると、ミシェルが紫紺色の髪を揺らして立ち上がった。
「あなたが私よりも華奢でよかったわ。少し詰めればなんとかなりそうだもの」
「ええ、と? ミシェル? これは?」
「こんなこともあろうかと用意しておいた、ドレスや靴――そのほか諸々。あなたを着飾らせるもの一式よ」
侍女たちの前に立ち腕を組んで胸を張るミシェルに、思わず頬が引きつる。
「どんな場合を予想していたの……って、そうじゃなくて。悪いからいいよ。だってこれ全部、ミシェルのだよね?」
侍女の手にあるドレスや箱に入った装飾品のほとんどは、今年の流行を取り入れたものばかりに見える。
何着もあるドレスすべてに袖を通したとは思えない。
しかし、慄く私に対して、ミシェルは華やかに微笑んだ。
「あら、そんなの気にしなくていいわよ。たしかにこれらは父様や母様が用意してくれたものだけど、私の趣味ではないのよね」
家族からのプレゼントなら、なおさら駄目なのでは。
――そんな私の考えを読んだかのように、ミシェルの唇が弧を描く。
「それに、知っていて? 女の子はお人形遊びが好きなのよ」
ミシェルの妖艶な笑みに、与えられた人形を剣の代わりに振り回していた彼女との、遠い日の思い出がよみがえった。
私とミシェルが友人になったのは、十歳の頃。
その日はミシェルの十歳の誕生祝いで、彼女と同年代の令嬢が何人も招待されていた。私もその一人だ。ただ、ログフェル家のホールに色鮮やかなドレスがあふれかえる中で、茶色いドレスを着ていたのは私だけだったことは、今も覚えている。
ほんの少しだけフリルやリボンがついていたけど、妖精のようなドレスを着たほかの子供たちに比べたら、あってもなくても変わらない。
『茶色が好きなの?』
そんな無邪気な質問すら当時の私からしてみればいたたまれなくて、外の空気を吸ってくると言って、庭園に逃げ出した。
そこで、ミシェルと出会った。
彼女の誕生会には何度か招待されていたので顔は知っていたけど、話したのは挨拶するときだけ。互いに顔は知っている。それだけの関係だった。
だけどそのときのミシェルは人形をぶんぶん振り回していた。
「――何をしているの?」
私は挨拶するのも忘れて、ついそう聞いてしまった。
どうして主役であるはずの彼女が、こんな誰もいないところで人形を振り回しているのか。彼女の行動がさっぱり理解できなくて怖かったからだ。
私の問いに、ミシェルはころころ笑った。
「プレゼントは剣じゃなくてこちらにしなさいと言われたから、剣の代わりにしているの。あら、あなたのドレス、動きやすそうでいいわね」
「そ、そうなんだ……ありがとう」
私の地味なドレスを悪意のかけらもなく、特殊な方向から褒めてみせたミシェル。そしてそれに思わずお礼を言ってしまった私。
それが、私とミシェルの友情のはじまりだった。
――なんて、過去に思いを馳せている間に、ミシェルのお人形遊びが終わった。
「もう少し大粒のネックレスのほうがいいかしら」
私の首元はいつの間にかネックレスで飾られている。それと、自分の手の中にあるネックレスを見比べて悩むミシェルに、ぶんぶんと首を横に振った。
「い、いいよ。これで」
「そう? まあ、あなたの意見が一番大切だものね。それにしましょう」
そう言ってミシェルが手を叩くと、周りを取り巻いていた侍女たちが離れて、一枚の姿見が私の前に置かれた。
回ってみて、と言われて裾を摘まんでくるりと回る。
それだけで、フリルがふんだんに使われた淡い緑のドレスがふわりと広がった。細やかなレースが胸元を飾り、今流行りの刺繍まで施されている。指先から伝わるなめらかな感触。装飾だけでなく生地も上等なものだということがよくわかる。
同時に、お父様がどれだけ私にお金をかけなかったのかも痛感してしまうけれど、その美しさに思わず感嘆のため息をつく。
地味な栗色の髪も真珠がちりばめられた髪飾りで飾られたおかげで、上品と言える程度にはなった。唇には薄い紅と、肌にはおしろいがのせられて、まるで自分ではないような姿に目を瞠る。
「ミシェルはお伽話に出てくる魔法使いみたいだね」
「あら、それは言いすぎよ。かぼちゃを馬車にはできないし、ねずみを御者にはできないもの」
ふふ、と笑うミシェルに、私も笑みを浮かべる。
「一度でもお洒落している自分が見られてよかった」
鏡の中の自分を見つめるだけで夢のようだ。感慨にふけっているとミシェルが眉をひそめた。
「何を言っているの? これから毎日、あなたはこの恰好をするのよ」
「毎日⁉」
「ええ、毎日よ。あなたの家には、婚約を破棄された傷心を癒すために我が家で世話をすると打診しておいたわ。男性相手の付き合いには厳しいあなたの父親でも、女性同士の交流には口を挟まないでしょう」
お母様には同性の友人が少なかったらしく、私にも同性の友人が少ない――どころか、異性の友人もまったくいない。そのためお父様はよく私に、友人を持つようにと渋い顔をしていたものだ。
だからか、いろいろと厳しいお父様ではあるけど、ミシェルに会いに行くのを止めたことは一度もなかった。
それに、お父様は体面を重んじる人だから、ログフェル侯爵家から直接手紙が届いたのなら無下にはできないだろう。
私はあまりのことに目を瞬かせる。
「たしかにそれなら許してくれるかもしれないけど……本当に、いいの?」
「もちろん。私がいいと言っているのだから、よくない理由がないわ。それに私の家族はみんな、構わないと言ってくれたもの」
「……ありがとう。それじゃあ、しばらくお世話になります」
にっこりと笑うミシェルに頭を下げる。
ミシェルと仲がいい『女の子らしい女の子』として、彼女の家族はいつだって私を歓迎してくれた。
だからきっと、カイオスに婚約を破棄されたことを聞いて、哀れに思い、しばらくの滞在を許可してくれたのだろう。申し訳なくはあるけど、ありがたくもある。
今は、お父様や継母のライラ様、それに私の弟のリオンと顔を合わせたくはなかった。
私が下げていた頭を上げると、ミシェルはますます嬉しそうに目を輝かせた。
「そうと決まったら、あなたに似合うものを徹底的に探しましょう。あなたの元婚約者が驚くほどのものを見つけてみせるわ」
「カイオスに……?」
「ええ、そうよ。私の手で飾られたあなたを見てどんな反応をするのか……今から楽しみだわ」
遊びに誘ってもなしのつぶて。パーティーでのエスコートを引き受けてはくれたけど、いつも入場するまでで、ダンスも義理程度の一曲だけ。
しまいには地味だからと婚約破棄した婚約者――いや、元婚約者の顔を浮かべて、首を横に振る。
「……それは別にいいかな。見返すためにお洒落するのって、まるでカイオスのためにお洒落するみたいで……」
なんとなく、嫌だ。
「私はミシェルと遊ぶためにお洒落したいな」
ああでもない、こうでもないと、私をどう飾ろうか考えているミシェルはとても楽しそうだった。
私がログフェル家に滞在している間、ミシェルはどれを着せようかと生き生きした顔で悩むのだろう。
楽しそうにしてくれるミシェルを見ているだけで、私も楽しくなる。
その気持ちを素直に伝えると、ミシェルは口元に手を当てた。
「あら、いやだわ。そんな嬉しいことを言ってくれるなんて……誰にも見せず独り占めしたくなるわね」
ふざけるような軽い口調だけど、ミシェルの頬はほんのりと朱色に染まっていて、口元には照れたような笑みが浮かんでいる。
私の大切な友人であるミシェルは、お人形を剣にするし、人をお人形にするような子だ。
だけど、素直に喜びを表現できない可愛らしい一面も持っている。
珍しく照れているミシェルを微笑ましく思っていると、コンコンと扉が叩かれた。
なんだろうと私が首を傾げるのと同時に、ミシェルが扉を開ける許可を出す。
「ミシェル、エミリア嬢。父上と母上が――」
部屋に入ってきたのは、ミシェルの兄、レオナルド様だった。
ミシェルの二歳上で、十八歳の彼は、男所帯でもまれて育ったからか、あるいはログフェル家の家風のせいか、凛々しい顔つきをしている。ログフェル家の跡継ぎであり、ログフェル家が所有する騎士団の一員でもあるレオナルド様は、ミシェル曰く「浮いた話のひとつもない堅物。男所帯で育った弊害をこれでもかと詰めこんだ男」なのだそうだ。
だけどそんな凛々しさは、部屋に入ってすぐ消えた。
ぎょっと目を見開いたレオナルド様の視線は、まっすぐに私に向いている。
「あら、兄様。女性をじろじろと見るのはマナー違反よ」
「あ、ああ、すまない」
ミシェルに注意されて視線を逸らすレオナルド様に、瞬きを繰り返す。
レオナルド様とはミシェルを通じて話すことが何度かあった。だから決して、初対面というわけではない。かといって親密な関係というわけでもないけど――
「ミシェルに見立ててもらったのですが、似合いますか?」
ミシェルによって飾られた私は、これまでと比べたらずいぶんと見違えたはずだ。
自画自賛にはなってしまうけど、色気はなくても華やかさは出たと思う。色気については体形の問題もあるので、肉付きがあまりよろしくない私では無理だろうけれど。
友人未満、知人よりは少し上ぐらいの関係である彼の反応が気になって、聞いてみる。
「ああ、うん。似合っていると、思う」
すると、ミシェルと同じ薔薇色の瞳をきょときょととさまよわせながらレオナルド様が頷いた。
「そこは綺麗だとか、可愛いとか言えばよろしいのではなくて? それだから嫁を一人も捕まえられないのよ」
「たくさん捕まえるのも問題だろ……いや、それよりも父上と母上が応接間まで来るようにと、二人を呼んでいたぞ」
ミシェルの軽口に気を取り直したのか、レオナルド様は口早に用件を告げると部屋を出ていった。
バタンと扉が閉められるのを見ながら、ミシェルが不思議そうに首を傾げる。
「父様と母様が……? なんの用かしら」
「私を泊めることについてじゃない?」
ミシェルだけでなく私も呼んでいるのなら、十中八九今後について――私が滞在することについてだろう。
今までログフェル邸に遊びに来たことはあっても、泊まったことはない。許可が下りているとしても滞在している間、気をつけてほしいこともあるに違いない。
お世話になる身としてログフェル夫妻にもお礼を言おうと思っていたので、ちょうどいい。
私とミシェルは二人して、応接間に向かった。
そして、待っていたログフェル夫妻に向けて、ドレスをつまんで腰を曲げる。
「このたびは、滞在をお許しいただきありがとうございます」
「まあそんな、かしこまらなくていいのよ」
向けられた柔らかな声は、ログフェル夫人のものだ。ミシェルの母親だとは思えないほど穏やかな声色に、ログフェル卿の低く厳かな声が続く。
「ああそうだとも。お泊り会とは実に女の子らしくて、君には感謝しているんだ」
ミシェルがこの世に生を受けてから十六年。ログフェル夫妻にとっての理想の娘は、花やお人形を愛でる優しく可愛い子供だったのだろう。
だけど生まれたのは、剣や体を動かすことを好み、どことなく高圧的な態度の娘だった。
理想を求めようとする両親にミシェルが不満を抱いたことは数知れず、当然その逆もあったはずだ。
でも、ログフェル侯爵夫妻の優しい言葉に、理想とは違っていても二人がミシェルを大切にしていることが伝わってくる。
「気負うことはない。我が家だと思ってくつろいでくれていい」
「ええそうよ。それにお洒落を楽しむのなら、私も力になれると思うわ。今着ているそれはミシェルのお下がりでしょう? よく似合っているとは思うのだけど、あなたに合わせたドレスも作っておいて損はないのではないかしら」
ログフェル夫人の言葉に思わずぎょっとしてしまう。
ミシェルが袖を通したかも怪しいほどに綺麗なドレスを借りているだけでも申し訳ないのに、新しく作るとなると、仕立屋を呼んで採寸してドレスを縫って――いったいどれだけの手間とお金がかかるのか。
「いえそんな、恐れ多いのでログフェル夫人のお手をわずらわせるわけには――」
「あら、そんなことはないから安心してちょうだい。ミシェルは自分でドレスを選んでしまって、ちっとも私に頼ってくれないのよ。……しかも選んだものが似合っているから何も言えなくて少し寂しかったのよね。だから、可愛らしい子のドレスを選べる機会を逃したくはないの」
にこにこと笑っているログフェル夫人から飛び出てきた『寂しかった』という言葉に、思わずミシェルの様子をうかがう。何故か自信満々な顔で胸を張っていた。
今にもふふんと鼻で笑いそうなミシェルに、気にしていないならよかったと胸を撫で下ろす。
しかしそんなことを考えている間に、ログフェル夫人とミシェルはますます楽しそうに話し合っていた。
「化粧品も肌に合わせたものがいいわよね。ヒールも、あまり高いものは慣れていないでしょうし、足に合ったものを買わないといけないわ。ああそれに、髪飾りやネックレスとかも……ミシェルのものも悪くはないけど、いろいろ試してどれが一番似合っているのか見定めることも大切よ……だけどすべてを試すには時間がいくらあっても足りないわね。どうすればいいかしら」
「母様、安心してちょうだい。こんなこともあろうかとデザイン画をすでに取り寄せてあるもの」
「もう。こういうのは悩むことも楽しいのよ。もう少しゆったり構えてもいいのではないかしら」
着々と進むこれからの計画。ログフェル夫人は楽しそうに話し、ミシェルも楽しそうに口を挟んで、それをログフェル卿が微笑ましそうに眺めている。
幸せそうな家族の姿に、よかった、と思いつつも少しだけ胸が痛んで、視線を落とす。
「ねえ、エミリア。あなたはどんな飾りがいいと思う?」
そこに、ミシェルの声が飛びこんできた。
「え、飾り……?」
「あら、聞いてなかったの? あなたの髪を飾るのにはどんなのがいいかって話してたのよ。生花もいいけれど、崩れやすいから造花のほうがいいかとか、それとも宝石にするかとか……あなたの好みも取り入れたいのだから、一緒に悩んでくれないと困るわ」
ほら、と私の言葉を待つミシェルとログフェル夫人に、何故だか口の端が緩んでしまって、気づけば胸の痛みは消えていた。
夜になり、ミシェルの部屋でベッドに体を沈める。二人寝転んでも余裕があるほど大きなベッドは、湯浴みで火照った体をふんわりと優しく包みこんで、心地よい。
夕食はログフェル家の人たちとではなく、ミシェルと二人で彼女の部屋で食べた。
ミシェルが「私の家族に囲まれての食事だなんて、気を遣って楽しめないでしょう」と主張し、ログフェル夫妻も快諾したからだ。
それからログフェル家に仕える侍女に湯あみを手伝ってもらい、花の香りがするオイルまで塗っていただいてしまった。
「私、この家の子になる……」
美味しい食事に柔らかなベッド。そして至れり尽くせりという言葉がふさわしいぐらいの扱いに、思わずそう呟く。
まだ半日も経っていないのに、帰りたくない気持ちでいっぱいだ。
すると、ベッドの端に腰かけていたミシェルの口元に笑みが浮かんだ。
「そんなこともあろうかと、養子縁組の書類は用意してあるわ」
「どんなところまで想定しているの⁉」
ぎょっと目を見開く私に、ミシェルは傍らに置いてある机の引き出しから数枚の書類を引っ張り出した。
本当に、養子縁組の書類だ。しかも、所々が埋められている。
「あとはあなたの署名があれば整うわ」
「準備万端すぎるよ!」
ドレス一式といい、養子縁組の書類といい、ミシェルの未来予想が怖い。
書類の身元引受人の欄にはすでにログフェル卿の名前が入れられている。だけど――
「いやでもそれ、ログフェル卿の署名が必要でしょう」
直筆のサインが必要な欄が空欄のままで、ほっと肩の力を抜く。
私はすでに十六歳でほとんど成人しているようなものだけど、娘が一人増えるのはそれだけで大変なことだ。金銭面はもちろん、子供とは言い難い年齢の女性を養子にすることに好奇の視線を向けてくる人もいるだろう。
そんな苦労をたかが子爵家の娘――ミシェルの友人でしかない私のためにしようとは思うはずがなかった。
冗談でも嬉しいな、と顔をほころばせる私に、ミシェルがなんてことのないように口を開く。
「あら問題ないわ。酔っているときにでも父様のサインが欲しいなっておねだりすれば一発よ」
「問題しかない!」
間違いなく、書類の内容に目を通していないやつだ。
「滞在を許可してもらって、ドレスとかいろいろ用意してもらえるだけでも感謝してもしきれないのに、騙して養子になったら申し訳なさすぎて太陽に顔向けできなくなっちゃう」
「そう、わかったわ。エミリアに地中生活されても困るから、いざというときまで取っておくわね」
「処分はしないんだ」
「世の中、何が起きるかわからないもの」
さっさと引き出しに書類をしまい直すミシェルに、苦笑を漏らす。たしかに、世の中何が起きるかわからない。
カイオスの婚約者になったことも婚約破棄されることも、そうなる前は考えもしていなかった。
婚約破棄については、気づけという話ではあるけど。
「そろそろ寝ましょう。明日は早いから、寝ておかないと体力がもたないわよ」
「うん……そうだね」
楽しげに笑うミシェルを見て、肩の力が抜ける。
結局、ログフェル夫妻と話した後、夕食までずっと私はログフェル夫人とミシェルの着せ替え人形になっていた。ログフェル夫人がどの色がいいのかを見たいと言ったからだ。
着替えは侍女がしてくれていたけど、それでも精神的にも体力的にも疲れてくる。
私は、再びベッドに身体を埋めて目をつむる。
すぐに、夢の世界が手招きして私を誘ってきた。
「養子縁組じゃなくても、あなたの力になれるのならなんでもするわ。父様や母様だけでなく、ほかの子にも人形を振り回すのはおかしいと言われていたの。でもね、あなただけが私を否定しなかった。だから――」
眠ると言ったのに眠る気がなさそうなミシェルの声が、どこか遠くから聞こえてくる。
否定しなかったのは、ミシェルの勢いがちょっと怖かったからだけど、ミシェルの気持ちが少しでも楽になったのなら、私も嬉しい。
怖かったという部分は省いて、回らない舌で答えたと思うけど、ちゃんと言葉になっていたかはわからない。
言い終える頃には、夢の世界の住人になってしまっていたから。
翌日、着せ替え人形としての役目をまっとうしていた私は、どうしても避けられない問題に直面した。
それは、踵の高い靴。
私が普段履いていたのは、踵の低いものばかりだったのだけど、それではミシェルが用意してくれたドレスには似合わない。つまり、着飾るにしてもまずは足元から、ということだ。
私は生まれてはじめて踵の高い靴を履くことになり、ログフェル邸のミシェルの部屋で、生まれたての小鹿のようにぷるぷると足を震わせている。
「怖い! 足をくじきそう!」
ひゃあと悲鳴をあげる私に、ミシェルが苦笑まじりの笑みを浮かべた。
「何事も慣れよ。頑張りなさい」
一歩、二歩と足を踏み出すたびに足首が曲がりそうになる。ぐらぐらと不安定な足元に、転ばないようにするので精一杯だ。
朝から採寸やらなんやらを済ませた私を待ち受けていたのが、慣れない靴でも優雅に歩くための練習だった。
しかもこれが終わってもまだ、ダンスの練習が待っている。
一応ダンスの教師に習ったことがあるのである程度は踊れるのだけど、それは踵の低い靴に限定した場合の話だ。
今履いている靴で踊るのならば、練習しないと大惨事になりかねない。
何しろ、今履いている靴の踵は凶器にも等しい。渾身の力で踏みつけようものなら相手の足に穴を開けてしまう。いや、さすがにそこまではいかないかもしれないけど、骨にひびのひとつは入れてしまうだろう。
そう思いながら恐る恐る歩いていると、ミシェルの扇が背にぴしりと当てられた。
「ほら、足元ばかり気にしているから姿勢が悪くなっているわよ。まっすぐ前を見て、歩けて当然という顔をするのよ」
当然じゃないので、どんな顔をすればいいのかわからない。
思わず漏れかけたそんな泣き言をぐっとこらえる。
お人形遊びから一転してお洒落訓練になってはいるけど、どちらもミシェルの厚意であることに変わりない。無理、できないと文句ばかり言うのは、甘えが過ぎるというものだ。
「……頑張る」
王家からも覚えめでたい侯爵家の娘ミシェルと、しがない子爵家の娘である私は立場も違うし、環境も違う。
だけど、父親に対して不満を持っているという点では共通していた。
これがミシェルとの友情を築く一因になってくれたのだから、それだけはお父様に感謝している。
「……私も、お父様の言うとおりにしていたのに駄目って、もうどうすればいいのよ」
はあ、とため息と共に、二人してうなだれる。
お父様のことを思い出して、憂鬱な気持ちまで思い出してしまった。
お父様に感謝できることなんてほとんどないけど、それでもお父様はお父様で、私の家族だ。
愛されたいと――弟と同じように、家族の輪に入れてほしいと願ったこともある。
言うことを聞いていれば褒めてもらえるかもと期待してはひたすらに従順であり続け、お母様とは違うのだとわかれば喜んでもらえるかもと勉学に勤しみ、きらびやかな衣装に身を包むほかの令嬢を羨むことがないように目を逸らし続けた。
だけど全部、無駄だった。お父様は私の努力なんて見てもいなかったし、カイオスに婚約を破棄されたのは私の努力が足りなかったからだと断じられた。
完全に手詰まりだ。
するとミシェルが首を傾げた。
「あら、そんなの簡単じゃない。言うとおりにして駄目なら、言うとおりにしなければいいのよ」
そうなんてことのないように言うミシェルに、うなだれていた顔を上げる。
「流行のドレスも肌の見えるファッションも宝石のひとつも駄目だと言うのなら、それらすべてを身に着けてはどうかしら」
「……できるなら、最初からそうしてるよ」
家にあるのはお父様の選んだ服ばかりで、装飾品なんて、地味で流行遅れなリボンや小さな首飾りぐらいしかない。
私財があるのなら、こっそりと買い求めることもできただろう。
だけどお父様は、何に使うかわからないという理由で、子供の駄賃程度のお小遣いすらくれない。弟には金に糸目をつけず優秀な教師をつけたり、必要に応じてお小遣いをあげたりしているのに。
自分で稼ぐ、というのも難しい。私の一日のスケジュールはお父様が管理していて、何をするにしても、それこそミシェルに――友人に会いに行くにも許可が必要だった。
何も言わず出かければ、どこで何をしていたのか詰問され、勝手な行動を咎められる。
それに何かおかしなことはしていないかと度々持ち物を確認された。カイオス以外からの贈り物でも持っていた日には、ふしだらだと烈火のごとく叱られただろう。
幸い、誰かに何かを貰う機会はなかったのだけど。もちろん、カイオスからも。
私はむなしい現実を思い出しながら苦笑する。
「私がそんなもの持ってないのは知っているでしょ?」
「ええ、そうね。たしかにあなたは着飾るものを持っていないわ。だけど知っているかしら。私にはあるのよ」
パンパンとミシェルが手を鳴らすと、いつから待機していたのか、数人の侍女がそれぞれの手に服やら箱やらを持って現れた。
一切乱れずにずらりと並ぶ侍女たちに目を丸くすると、ミシェルが紫紺色の髪を揺らして立ち上がった。
「あなたが私よりも華奢でよかったわ。少し詰めればなんとかなりそうだもの」
「ええ、と? ミシェル? これは?」
「こんなこともあろうかと用意しておいた、ドレスや靴――そのほか諸々。あなたを着飾らせるもの一式よ」
侍女たちの前に立ち腕を組んで胸を張るミシェルに、思わず頬が引きつる。
「どんな場合を予想していたの……って、そうじゃなくて。悪いからいいよ。だってこれ全部、ミシェルのだよね?」
侍女の手にあるドレスや箱に入った装飾品のほとんどは、今年の流行を取り入れたものばかりに見える。
何着もあるドレスすべてに袖を通したとは思えない。
しかし、慄く私に対して、ミシェルは華やかに微笑んだ。
「あら、そんなの気にしなくていいわよ。たしかにこれらは父様や母様が用意してくれたものだけど、私の趣味ではないのよね」
家族からのプレゼントなら、なおさら駄目なのでは。
――そんな私の考えを読んだかのように、ミシェルの唇が弧を描く。
「それに、知っていて? 女の子はお人形遊びが好きなのよ」
ミシェルの妖艶な笑みに、与えられた人形を剣の代わりに振り回していた彼女との、遠い日の思い出がよみがえった。
私とミシェルが友人になったのは、十歳の頃。
その日はミシェルの十歳の誕生祝いで、彼女と同年代の令嬢が何人も招待されていた。私もその一人だ。ただ、ログフェル家のホールに色鮮やかなドレスがあふれかえる中で、茶色いドレスを着ていたのは私だけだったことは、今も覚えている。
ほんの少しだけフリルやリボンがついていたけど、妖精のようなドレスを着たほかの子供たちに比べたら、あってもなくても変わらない。
『茶色が好きなの?』
そんな無邪気な質問すら当時の私からしてみればいたたまれなくて、外の空気を吸ってくると言って、庭園に逃げ出した。
そこで、ミシェルと出会った。
彼女の誕生会には何度か招待されていたので顔は知っていたけど、話したのは挨拶するときだけ。互いに顔は知っている。それだけの関係だった。
だけどそのときのミシェルは人形をぶんぶん振り回していた。
「――何をしているの?」
私は挨拶するのも忘れて、ついそう聞いてしまった。
どうして主役であるはずの彼女が、こんな誰もいないところで人形を振り回しているのか。彼女の行動がさっぱり理解できなくて怖かったからだ。
私の問いに、ミシェルはころころ笑った。
「プレゼントは剣じゃなくてこちらにしなさいと言われたから、剣の代わりにしているの。あら、あなたのドレス、動きやすそうでいいわね」
「そ、そうなんだ……ありがとう」
私の地味なドレスを悪意のかけらもなく、特殊な方向から褒めてみせたミシェル。そしてそれに思わずお礼を言ってしまった私。
それが、私とミシェルの友情のはじまりだった。
――なんて、過去に思いを馳せている間に、ミシェルのお人形遊びが終わった。
「もう少し大粒のネックレスのほうがいいかしら」
私の首元はいつの間にかネックレスで飾られている。それと、自分の手の中にあるネックレスを見比べて悩むミシェルに、ぶんぶんと首を横に振った。
「い、いいよ。これで」
「そう? まあ、あなたの意見が一番大切だものね。それにしましょう」
そう言ってミシェルが手を叩くと、周りを取り巻いていた侍女たちが離れて、一枚の姿見が私の前に置かれた。
回ってみて、と言われて裾を摘まんでくるりと回る。
それだけで、フリルがふんだんに使われた淡い緑のドレスがふわりと広がった。細やかなレースが胸元を飾り、今流行りの刺繍まで施されている。指先から伝わるなめらかな感触。装飾だけでなく生地も上等なものだということがよくわかる。
同時に、お父様がどれだけ私にお金をかけなかったのかも痛感してしまうけれど、その美しさに思わず感嘆のため息をつく。
地味な栗色の髪も真珠がちりばめられた髪飾りで飾られたおかげで、上品と言える程度にはなった。唇には薄い紅と、肌にはおしろいがのせられて、まるで自分ではないような姿に目を瞠る。
「ミシェルはお伽話に出てくる魔法使いみたいだね」
「あら、それは言いすぎよ。かぼちゃを馬車にはできないし、ねずみを御者にはできないもの」
ふふ、と笑うミシェルに、私も笑みを浮かべる。
「一度でもお洒落している自分が見られてよかった」
鏡の中の自分を見つめるだけで夢のようだ。感慨にふけっているとミシェルが眉をひそめた。
「何を言っているの? これから毎日、あなたはこの恰好をするのよ」
「毎日⁉」
「ええ、毎日よ。あなたの家には、婚約を破棄された傷心を癒すために我が家で世話をすると打診しておいたわ。男性相手の付き合いには厳しいあなたの父親でも、女性同士の交流には口を挟まないでしょう」
お母様には同性の友人が少なかったらしく、私にも同性の友人が少ない――どころか、異性の友人もまったくいない。そのためお父様はよく私に、友人を持つようにと渋い顔をしていたものだ。
だからか、いろいろと厳しいお父様ではあるけど、ミシェルに会いに行くのを止めたことは一度もなかった。
それに、お父様は体面を重んじる人だから、ログフェル侯爵家から直接手紙が届いたのなら無下にはできないだろう。
私はあまりのことに目を瞬かせる。
「たしかにそれなら許してくれるかもしれないけど……本当に、いいの?」
「もちろん。私がいいと言っているのだから、よくない理由がないわ。それに私の家族はみんな、構わないと言ってくれたもの」
「……ありがとう。それじゃあ、しばらくお世話になります」
にっこりと笑うミシェルに頭を下げる。
ミシェルと仲がいい『女の子らしい女の子』として、彼女の家族はいつだって私を歓迎してくれた。
だからきっと、カイオスに婚約を破棄されたことを聞いて、哀れに思い、しばらくの滞在を許可してくれたのだろう。申し訳なくはあるけど、ありがたくもある。
今は、お父様や継母のライラ様、それに私の弟のリオンと顔を合わせたくはなかった。
私が下げていた頭を上げると、ミシェルはますます嬉しそうに目を輝かせた。
「そうと決まったら、あなたに似合うものを徹底的に探しましょう。あなたの元婚約者が驚くほどのものを見つけてみせるわ」
「カイオスに……?」
「ええ、そうよ。私の手で飾られたあなたを見てどんな反応をするのか……今から楽しみだわ」
遊びに誘ってもなしのつぶて。パーティーでのエスコートを引き受けてはくれたけど、いつも入場するまでで、ダンスも義理程度の一曲だけ。
しまいには地味だからと婚約破棄した婚約者――いや、元婚約者の顔を浮かべて、首を横に振る。
「……それは別にいいかな。見返すためにお洒落するのって、まるでカイオスのためにお洒落するみたいで……」
なんとなく、嫌だ。
「私はミシェルと遊ぶためにお洒落したいな」
ああでもない、こうでもないと、私をどう飾ろうか考えているミシェルはとても楽しそうだった。
私がログフェル家に滞在している間、ミシェルはどれを着せようかと生き生きした顔で悩むのだろう。
楽しそうにしてくれるミシェルを見ているだけで、私も楽しくなる。
その気持ちを素直に伝えると、ミシェルは口元に手を当てた。
「あら、いやだわ。そんな嬉しいことを言ってくれるなんて……誰にも見せず独り占めしたくなるわね」
ふざけるような軽い口調だけど、ミシェルの頬はほんのりと朱色に染まっていて、口元には照れたような笑みが浮かんでいる。
私の大切な友人であるミシェルは、お人形を剣にするし、人をお人形にするような子だ。
だけど、素直に喜びを表現できない可愛らしい一面も持っている。
珍しく照れているミシェルを微笑ましく思っていると、コンコンと扉が叩かれた。
なんだろうと私が首を傾げるのと同時に、ミシェルが扉を開ける許可を出す。
「ミシェル、エミリア嬢。父上と母上が――」
部屋に入ってきたのは、ミシェルの兄、レオナルド様だった。
ミシェルの二歳上で、十八歳の彼は、男所帯でもまれて育ったからか、あるいはログフェル家の家風のせいか、凛々しい顔つきをしている。ログフェル家の跡継ぎであり、ログフェル家が所有する騎士団の一員でもあるレオナルド様は、ミシェル曰く「浮いた話のひとつもない堅物。男所帯で育った弊害をこれでもかと詰めこんだ男」なのだそうだ。
だけどそんな凛々しさは、部屋に入ってすぐ消えた。
ぎょっと目を見開いたレオナルド様の視線は、まっすぐに私に向いている。
「あら、兄様。女性をじろじろと見るのはマナー違反よ」
「あ、ああ、すまない」
ミシェルに注意されて視線を逸らすレオナルド様に、瞬きを繰り返す。
レオナルド様とはミシェルを通じて話すことが何度かあった。だから決して、初対面というわけではない。かといって親密な関係というわけでもないけど――
「ミシェルに見立ててもらったのですが、似合いますか?」
ミシェルによって飾られた私は、これまでと比べたらずいぶんと見違えたはずだ。
自画自賛にはなってしまうけど、色気はなくても華やかさは出たと思う。色気については体形の問題もあるので、肉付きがあまりよろしくない私では無理だろうけれど。
友人未満、知人よりは少し上ぐらいの関係である彼の反応が気になって、聞いてみる。
「ああ、うん。似合っていると、思う」
すると、ミシェルと同じ薔薇色の瞳をきょときょととさまよわせながらレオナルド様が頷いた。
「そこは綺麗だとか、可愛いとか言えばよろしいのではなくて? それだから嫁を一人も捕まえられないのよ」
「たくさん捕まえるのも問題だろ……いや、それよりも父上と母上が応接間まで来るようにと、二人を呼んでいたぞ」
ミシェルの軽口に気を取り直したのか、レオナルド様は口早に用件を告げると部屋を出ていった。
バタンと扉が閉められるのを見ながら、ミシェルが不思議そうに首を傾げる。
「父様と母様が……? なんの用かしら」
「私を泊めることについてじゃない?」
ミシェルだけでなく私も呼んでいるのなら、十中八九今後について――私が滞在することについてだろう。
今までログフェル邸に遊びに来たことはあっても、泊まったことはない。許可が下りているとしても滞在している間、気をつけてほしいこともあるに違いない。
お世話になる身としてログフェル夫妻にもお礼を言おうと思っていたので、ちょうどいい。
私とミシェルは二人して、応接間に向かった。
そして、待っていたログフェル夫妻に向けて、ドレスをつまんで腰を曲げる。
「このたびは、滞在をお許しいただきありがとうございます」
「まあそんな、かしこまらなくていいのよ」
向けられた柔らかな声は、ログフェル夫人のものだ。ミシェルの母親だとは思えないほど穏やかな声色に、ログフェル卿の低く厳かな声が続く。
「ああそうだとも。お泊り会とは実に女の子らしくて、君には感謝しているんだ」
ミシェルがこの世に生を受けてから十六年。ログフェル夫妻にとっての理想の娘は、花やお人形を愛でる優しく可愛い子供だったのだろう。
だけど生まれたのは、剣や体を動かすことを好み、どことなく高圧的な態度の娘だった。
理想を求めようとする両親にミシェルが不満を抱いたことは数知れず、当然その逆もあったはずだ。
でも、ログフェル侯爵夫妻の優しい言葉に、理想とは違っていても二人がミシェルを大切にしていることが伝わってくる。
「気負うことはない。我が家だと思ってくつろいでくれていい」
「ええそうよ。それにお洒落を楽しむのなら、私も力になれると思うわ。今着ているそれはミシェルのお下がりでしょう? よく似合っているとは思うのだけど、あなたに合わせたドレスも作っておいて損はないのではないかしら」
ログフェル夫人の言葉に思わずぎょっとしてしまう。
ミシェルが袖を通したかも怪しいほどに綺麗なドレスを借りているだけでも申し訳ないのに、新しく作るとなると、仕立屋を呼んで採寸してドレスを縫って――いったいどれだけの手間とお金がかかるのか。
「いえそんな、恐れ多いのでログフェル夫人のお手をわずらわせるわけには――」
「あら、そんなことはないから安心してちょうだい。ミシェルは自分でドレスを選んでしまって、ちっとも私に頼ってくれないのよ。……しかも選んだものが似合っているから何も言えなくて少し寂しかったのよね。だから、可愛らしい子のドレスを選べる機会を逃したくはないの」
にこにこと笑っているログフェル夫人から飛び出てきた『寂しかった』という言葉に、思わずミシェルの様子をうかがう。何故か自信満々な顔で胸を張っていた。
今にもふふんと鼻で笑いそうなミシェルに、気にしていないならよかったと胸を撫で下ろす。
しかしそんなことを考えている間に、ログフェル夫人とミシェルはますます楽しそうに話し合っていた。
「化粧品も肌に合わせたものがいいわよね。ヒールも、あまり高いものは慣れていないでしょうし、足に合ったものを買わないといけないわ。ああそれに、髪飾りやネックレスとかも……ミシェルのものも悪くはないけど、いろいろ試してどれが一番似合っているのか見定めることも大切よ……だけどすべてを試すには時間がいくらあっても足りないわね。どうすればいいかしら」
「母様、安心してちょうだい。こんなこともあろうかとデザイン画をすでに取り寄せてあるもの」
「もう。こういうのは悩むことも楽しいのよ。もう少しゆったり構えてもいいのではないかしら」
着々と進むこれからの計画。ログフェル夫人は楽しそうに話し、ミシェルも楽しそうに口を挟んで、それをログフェル卿が微笑ましそうに眺めている。
幸せそうな家族の姿に、よかった、と思いつつも少しだけ胸が痛んで、視線を落とす。
「ねえ、エミリア。あなたはどんな飾りがいいと思う?」
そこに、ミシェルの声が飛びこんできた。
「え、飾り……?」
「あら、聞いてなかったの? あなたの髪を飾るのにはどんなのがいいかって話してたのよ。生花もいいけれど、崩れやすいから造花のほうがいいかとか、それとも宝石にするかとか……あなたの好みも取り入れたいのだから、一緒に悩んでくれないと困るわ」
ほら、と私の言葉を待つミシェルとログフェル夫人に、何故だか口の端が緩んでしまって、気づけば胸の痛みは消えていた。
夜になり、ミシェルの部屋でベッドに体を沈める。二人寝転んでも余裕があるほど大きなベッドは、湯浴みで火照った体をふんわりと優しく包みこんで、心地よい。
夕食はログフェル家の人たちとではなく、ミシェルと二人で彼女の部屋で食べた。
ミシェルが「私の家族に囲まれての食事だなんて、気を遣って楽しめないでしょう」と主張し、ログフェル夫妻も快諾したからだ。
それからログフェル家に仕える侍女に湯あみを手伝ってもらい、花の香りがするオイルまで塗っていただいてしまった。
「私、この家の子になる……」
美味しい食事に柔らかなベッド。そして至れり尽くせりという言葉がふさわしいぐらいの扱いに、思わずそう呟く。
まだ半日も経っていないのに、帰りたくない気持ちでいっぱいだ。
すると、ベッドの端に腰かけていたミシェルの口元に笑みが浮かんだ。
「そんなこともあろうかと、養子縁組の書類は用意してあるわ」
「どんなところまで想定しているの⁉」
ぎょっと目を見開く私に、ミシェルは傍らに置いてある机の引き出しから数枚の書類を引っ張り出した。
本当に、養子縁組の書類だ。しかも、所々が埋められている。
「あとはあなたの署名があれば整うわ」
「準備万端すぎるよ!」
ドレス一式といい、養子縁組の書類といい、ミシェルの未来予想が怖い。
書類の身元引受人の欄にはすでにログフェル卿の名前が入れられている。だけど――
「いやでもそれ、ログフェル卿の署名が必要でしょう」
直筆のサインが必要な欄が空欄のままで、ほっと肩の力を抜く。
私はすでに十六歳でほとんど成人しているようなものだけど、娘が一人増えるのはそれだけで大変なことだ。金銭面はもちろん、子供とは言い難い年齢の女性を養子にすることに好奇の視線を向けてくる人もいるだろう。
そんな苦労をたかが子爵家の娘――ミシェルの友人でしかない私のためにしようとは思うはずがなかった。
冗談でも嬉しいな、と顔をほころばせる私に、ミシェルがなんてことのないように口を開く。
「あら問題ないわ。酔っているときにでも父様のサインが欲しいなっておねだりすれば一発よ」
「問題しかない!」
間違いなく、書類の内容に目を通していないやつだ。
「滞在を許可してもらって、ドレスとかいろいろ用意してもらえるだけでも感謝してもしきれないのに、騙して養子になったら申し訳なさすぎて太陽に顔向けできなくなっちゃう」
「そう、わかったわ。エミリアに地中生活されても困るから、いざというときまで取っておくわね」
「処分はしないんだ」
「世の中、何が起きるかわからないもの」
さっさと引き出しに書類をしまい直すミシェルに、苦笑を漏らす。たしかに、世の中何が起きるかわからない。
カイオスの婚約者になったことも婚約破棄されることも、そうなる前は考えもしていなかった。
婚約破棄については、気づけという話ではあるけど。
「そろそろ寝ましょう。明日は早いから、寝ておかないと体力がもたないわよ」
「うん……そうだね」
楽しげに笑うミシェルを見て、肩の力が抜ける。
結局、ログフェル夫妻と話した後、夕食までずっと私はログフェル夫人とミシェルの着せ替え人形になっていた。ログフェル夫人がどの色がいいのかを見たいと言ったからだ。
着替えは侍女がしてくれていたけど、それでも精神的にも体力的にも疲れてくる。
私は、再びベッドに身体を埋めて目をつむる。
すぐに、夢の世界が手招きして私を誘ってきた。
「養子縁組じゃなくても、あなたの力になれるのならなんでもするわ。父様や母様だけでなく、ほかの子にも人形を振り回すのはおかしいと言われていたの。でもね、あなただけが私を否定しなかった。だから――」
眠ると言ったのに眠る気がなさそうなミシェルの声が、どこか遠くから聞こえてくる。
否定しなかったのは、ミシェルの勢いがちょっと怖かったからだけど、ミシェルの気持ちが少しでも楽になったのなら、私も嬉しい。
怖かったという部分は省いて、回らない舌で答えたと思うけど、ちゃんと言葉になっていたかはわからない。
言い終える頃には、夢の世界の住人になってしまっていたから。
翌日、着せ替え人形としての役目をまっとうしていた私は、どうしても避けられない問題に直面した。
それは、踵の高い靴。
私が普段履いていたのは、踵の低いものばかりだったのだけど、それではミシェルが用意してくれたドレスには似合わない。つまり、着飾るにしてもまずは足元から、ということだ。
私は生まれてはじめて踵の高い靴を履くことになり、ログフェル邸のミシェルの部屋で、生まれたての小鹿のようにぷるぷると足を震わせている。
「怖い! 足をくじきそう!」
ひゃあと悲鳴をあげる私に、ミシェルが苦笑まじりの笑みを浮かべた。
「何事も慣れよ。頑張りなさい」
一歩、二歩と足を踏み出すたびに足首が曲がりそうになる。ぐらぐらと不安定な足元に、転ばないようにするので精一杯だ。
朝から採寸やらなんやらを済ませた私を待ち受けていたのが、慣れない靴でも優雅に歩くための練習だった。
しかもこれが終わってもまだ、ダンスの練習が待っている。
一応ダンスの教師に習ったことがあるのである程度は踊れるのだけど、それは踵の低い靴に限定した場合の話だ。
今履いている靴で踊るのならば、練習しないと大惨事になりかねない。
何しろ、今履いている靴の踵は凶器にも等しい。渾身の力で踏みつけようものなら相手の足に穴を開けてしまう。いや、さすがにそこまではいかないかもしれないけど、骨にひびのひとつは入れてしまうだろう。
そう思いながら恐る恐る歩いていると、ミシェルの扇が背にぴしりと当てられた。
「ほら、足元ばかり気にしているから姿勢が悪くなっているわよ。まっすぐ前を見て、歩けて当然という顔をするのよ」
当然じゃないので、どんな顔をすればいいのかわからない。
思わず漏れかけたそんな泣き言をぐっとこらえる。
お人形遊びから一転してお洒落訓練になってはいるけど、どちらもミシェルの厚意であることに変わりない。無理、できないと文句ばかり言うのは、甘えが過ぎるというものだ。
「……頑張る」
2
お気に入りに追加
5,841
あなたにおすすめの小説
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
あなたが選んだのは私ではありませんでした 裏切られた私、ひっそり姿を消します
矢野りと
恋愛
旧題:贖罪〜あなたが選んだのは私ではありませんでした〜
言葉にして結婚を約束していたわけではないけれど、そうなると思っていた。
お互いに気持ちは同じだと信じていたから。
それなのに恋人は別れの言葉を私に告げてくる。
『すまない、別れて欲しい。これからは俺がサーシャを守っていこうと思っているんだ…』
サーシャとは、彼の亡くなった同僚騎士の婚約者だった人。
愛している人から捨てられる形となった私は、誰にも告げずに彼らの前から姿を消すことを選んだ。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。


三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。