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「どこから話せばいいだろうな……」
正吾の声は怒りや悲しみの色なんて感じさせない。
むしろ穏やかさすら覚える程、ゆったりとした調子で話を始める。
「言える事、ううん。言える事とか言いたい事だけでいい。話せるだけ話して」
柔らかい正吾の物言いに僅かに余裕を取り戻したのだろう。
奈緒は何もかも聞きたいという興味、これ以上聞きたくないという拒絶感。
その両方を押し殺し、正吾に話の続きを促す。
「そうか。じゃあ大分前からになるが――」
正吾の最も古い記憶は幼稚園くらいの頃、母親の怒鳴り声と泣く声から始まる。
怒鳴り声の多くは役立たず、死ねよという自分に向けられた言葉。
泣く声の多くは遊びに行きたい。自分の時間が欲しいという誰にも向けられてない声。
正吾が楽しそうにしていれば、私はこんなに苦しいのに嫌がらせかと怒鳴られた。
正吾が苦しそうにしていれば、お前の世話させられている私と違って幸せなのに嫌味かと言われる。
外に遊びに行こうものなら何でお前が遊んでいるのに私が家事をしないといけないんだと言われ、家に居れば外に行く暇もない私への当て付けかと怒鳴られる。
食事を抜かれた事は一度や二度ではない。
理不尽な言葉に言い返そうものなら嫌なら出てけと怒鳴られ、出て行くんなら家の物を使うなとパンツ一枚で外に放り出された事もある。
あまりに苦しくてトイレで吐いていれば、トイレに逃げ込む卑怯者と扉の前で怒鳴られ続けた。
そんな日が続き、小学校に入学する頃には正吾は必要な事以外何もしない人間に育っていった。
何をしても機嫌一つで怒られるのなら、余計な事なんてしないし考えないのが一番楽だと思い始めていたからだ。
「今はそうでもないぞ。ちょっと考え直す機会があってな」
それは小学四年になった時の事。
宿題を大量に出す担任に当たったのが切欠だった。
余計な事は極力しないようになっていた正吾だが、やらないと余計に怒られると解り切っている事は必ずする。
そして宿題は間違いなくやらなければ確実に怒られると解り切った事だ。
大量の宿題に四苦八苦しながら取り組んでいた正吾だったが、そこで気付く。
宿題をしている間は自分を怒鳴る声がしない事に。
今まで宿題にそれほど時間を取られてなかった為に気付かなかったが、机に向かって勉強している時だけは相当機嫌が悪くない限りは何も言われないようだった。
その事に気付いた正吾は、怒鳴られたくなくて、ただ静かに過ごしたいというその為だけに勉強を続けた。
要領も効率も決して良くはなかっただろう。
ただ時間だけは膨大にあった。
何せ家に居る時間のほとんどを使って勉強しているのだ。
その日に習った事だけをやっていただけでは、どうしても時間が余るし、机に向かって勉強している演技が出来る程、器用な人間でもない。
自然と予習や復習を余儀なくされる。
「気付いた時には成績で上位に居たらしい」
当たり前のように成績が上がっていた正吾だが、そこには何の感動もなかった。
それは不思議なようでいて、当たり前の事と言えるだろう。
ただ怒鳴られたくない。静かに過ごしたいと思って勉強をしていただけで、テストの結果にも通知表にも最初から何の興味もなかったのだから。
「母の態度が変わってきたのは、その辺りだったと思う」
そんな本人とは裏腹に目に見えて変わったのが正吾の母親だった。
勉強していても機嫌さえ悪ければ怒鳴り付けていたのに怒鳴らなくなった。
それどころか、優しい言葉を掛けてきたり欲しい物はないかと聞かれたり、思い出したようにお菓子を差し入れてくるようになった。
正吾はその時になって初めて、お菓子を食べた。
「何貰ったのかは覚えてないけどな」
人は連続して苦痛を与えられると、その痛みから逃げる為に感覚を鈍らせていく。
当時の正吾はまさにその状態に陥っており、温度も痛みも味覚もあまり感じなくなっていた。
「それでふと思い出したんだ。よく怒鳴られていた言葉って役立たずだったなって」
味もほとんど感じる事が出来ない菓子を食べながら正吾が思ったのは、自分は菓子という褒美を貰えるくらいには価値が出てきたんだなあという考えだった。
何の役にも立たない価値のない人間だったから自分は怒られていた。
そして勉強が出来るという価値が出てきたから怒られなくなった。
そう解釈したのだ。
「実際昔は何も出来なかったからな。まあ今も言うほど何か出来るって訳でもないが」
その日から正吾は今まで以上に勉強に励むようになっていく。
怖かったのだ。
勉強という価値がなくなったら、また怒鳴られ続ける。
そんな日々が戻ってくるのを想像する度に何度でも机に向かった。
「そんな感じで過ごし続けて中学三年になった頃だ」
いつの間にか正吾の部屋には参考書や問題集が増えた。
その内容は中学や高校どころか、大学のものにまで及んでいた。
それでも正吾は止まる事はなかった。
ここまでやれば大丈夫。
なんて安心出来る保障がどこにもなかったから。
母親が何を基準に爆発し、再び怒鳴り散らすのか。
そんなのは十年以上、一緒に過ごしたって結局解らなかったのだから。
正吾の声は怒りや悲しみの色なんて感じさせない。
むしろ穏やかさすら覚える程、ゆったりとした調子で話を始める。
「言える事、ううん。言える事とか言いたい事だけでいい。話せるだけ話して」
柔らかい正吾の物言いに僅かに余裕を取り戻したのだろう。
奈緒は何もかも聞きたいという興味、これ以上聞きたくないという拒絶感。
その両方を押し殺し、正吾に話の続きを促す。
「そうか。じゃあ大分前からになるが――」
正吾の最も古い記憶は幼稚園くらいの頃、母親の怒鳴り声と泣く声から始まる。
怒鳴り声の多くは役立たず、死ねよという自分に向けられた言葉。
泣く声の多くは遊びに行きたい。自分の時間が欲しいという誰にも向けられてない声。
正吾が楽しそうにしていれば、私はこんなに苦しいのに嫌がらせかと怒鳴られた。
正吾が苦しそうにしていれば、お前の世話させられている私と違って幸せなのに嫌味かと言われる。
外に遊びに行こうものなら何でお前が遊んでいるのに私が家事をしないといけないんだと言われ、家に居れば外に行く暇もない私への当て付けかと怒鳴られる。
食事を抜かれた事は一度や二度ではない。
理不尽な言葉に言い返そうものなら嫌なら出てけと怒鳴られ、出て行くんなら家の物を使うなとパンツ一枚で外に放り出された事もある。
あまりに苦しくてトイレで吐いていれば、トイレに逃げ込む卑怯者と扉の前で怒鳴られ続けた。
そんな日が続き、小学校に入学する頃には正吾は必要な事以外何もしない人間に育っていった。
何をしても機嫌一つで怒られるのなら、余計な事なんてしないし考えないのが一番楽だと思い始めていたからだ。
「今はそうでもないぞ。ちょっと考え直す機会があってな」
それは小学四年になった時の事。
宿題を大量に出す担任に当たったのが切欠だった。
余計な事は極力しないようになっていた正吾だが、やらないと余計に怒られると解り切っている事は必ずする。
そして宿題は間違いなくやらなければ確実に怒られると解り切った事だ。
大量の宿題に四苦八苦しながら取り組んでいた正吾だったが、そこで気付く。
宿題をしている間は自分を怒鳴る声がしない事に。
今まで宿題にそれほど時間を取られてなかった為に気付かなかったが、机に向かって勉強している時だけは相当機嫌が悪くない限りは何も言われないようだった。
その事に気付いた正吾は、怒鳴られたくなくて、ただ静かに過ごしたいというその為だけに勉強を続けた。
要領も効率も決して良くはなかっただろう。
ただ時間だけは膨大にあった。
何せ家に居る時間のほとんどを使って勉強しているのだ。
その日に習った事だけをやっていただけでは、どうしても時間が余るし、机に向かって勉強している演技が出来る程、器用な人間でもない。
自然と予習や復習を余儀なくされる。
「気付いた時には成績で上位に居たらしい」
当たり前のように成績が上がっていた正吾だが、そこには何の感動もなかった。
それは不思議なようでいて、当たり前の事と言えるだろう。
ただ怒鳴られたくない。静かに過ごしたいと思って勉強をしていただけで、テストの結果にも通知表にも最初から何の興味もなかったのだから。
「母の態度が変わってきたのは、その辺りだったと思う」
そんな本人とは裏腹に目に見えて変わったのが正吾の母親だった。
勉強していても機嫌さえ悪ければ怒鳴り付けていたのに怒鳴らなくなった。
それどころか、優しい言葉を掛けてきたり欲しい物はないかと聞かれたり、思い出したようにお菓子を差し入れてくるようになった。
正吾はその時になって初めて、お菓子を食べた。
「何貰ったのかは覚えてないけどな」
人は連続して苦痛を与えられると、その痛みから逃げる為に感覚を鈍らせていく。
当時の正吾はまさにその状態に陥っており、温度も痛みも味覚もあまり感じなくなっていた。
「それでふと思い出したんだ。よく怒鳴られていた言葉って役立たずだったなって」
味もほとんど感じる事が出来ない菓子を食べながら正吾が思ったのは、自分は菓子という褒美を貰えるくらいには価値が出てきたんだなあという考えだった。
何の役にも立たない価値のない人間だったから自分は怒られていた。
そして勉強が出来るという価値が出てきたから怒られなくなった。
そう解釈したのだ。
「実際昔は何も出来なかったからな。まあ今も言うほど何か出来るって訳でもないが」
その日から正吾は今まで以上に勉強に励むようになっていく。
怖かったのだ。
勉強という価値がなくなったら、また怒鳴られ続ける。
そんな日々が戻ってくるのを想像する度に何度でも机に向かった。
「そんな感じで過ごし続けて中学三年になった頃だ」
いつの間にか正吾の部屋には参考書や問題集が増えた。
その内容は中学や高校どころか、大学のものにまで及んでいた。
それでも正吾は止まる事はなかった。
ここまでやれば大丈夫。
なんて安心出来る保障がどこにもなかったから。
母親が何を基準に爆発し、再び怒鳴り散らすのか。
そんなのは十年以上、一緒に過ごしたって結局解らなかったのだから。
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