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「その、聞きたい事はこれで全部でいいかしら?」

 二人が沈黙し続けてから一分が経過しようとした頃。

 さすがにこのままでは話が進まないと思ったのか。

 おずおずといった感じで奈緒が沈黙を破った。

「ああ、うん。とりあえず今思い付く限りだとこのくらいかなあ」

 奈緒の声に正吾は反射的に言葉を返す。

 一種のショック状態に入っていたから黙り込んでいただけで正吾に奈緒を無視する気は全くないからだ。

「疑問なくなったのならさ。アンタ、私に言いたい事あるでしょ?」

 そんな正吾に奈緒は質問をぶつけてくる。

 僅かな不安と怯え、そして大きい期待の色を匂わせて。

(さっきから有栖川さんは俺に何を言ってほしいんだ?)

 けれど正吾は奈緒が何を求めているのか解らない。

 自分が一体何を言えば奈緒は満足してくれるのだろうか。

「んー、特にないかなあ」

 僅かに悩んだ後、正吾は思ったままを口にする。

 もう聞きたい事は全部聞いてしまったし、思い付く事が本当になかったからだ。

「特に……ない?」

「うん。有栖川さんは何か――」

 気になる事でもあるんじゃないのかと話を続けようとした正吾だったが、その言葉は続けられない。

「ふざけないでよ!」

 叫び声と共に奈緒が正座を止めて立ち上がったからだ。

「驚くからいきなり叫ばないでくれ」

「叫ばずに居られないでしょうが!」

 正吾も立ち上がり奈緒を宥めようとするが逆にその態度が気に障ったのか。

 奈緒は再び声を張り上げ言葉をぶつけてくる。

「アンタ、私に殺されかかったのよ! 恨み言の一つくらいあるでしょうが!」

「ああ、うん。言われてみれば確かに」

 奈緒の言葉通り。

 死んだと思った時は確かに恨んだ筈だった。

「……じゃあ、なんでそんなに気楽そうにしてるのよ。アンタは自分を殺すような相手と楽しく話す趣味でもあるの?」

「いや、よく解らないけど一応生きているっぽいし……」

 ただ、色々あり過ぎた今となっては戸惑いとか無気力感の方が大き過ぎるのか。

 どんな風に恨んでいたのかさえ思い出せない。

「そういう問題じゃない!」

 能天気にも見える正吾の態度に奈緒の中で何かが弾けた。

 叫び声と共に正吾の胸倉を掴む。

(く、苦しい……)

 身体が浮き上がりそうになるくらい強い力で捕まれ、衝撃に正吾の顔が苦痛に歪む。

「何で生きてるのか知らないし、確かに事故みたいなものだったけどね!」

 そんな正吾の様子に気付く事もなく奈緒は言葉を続ける。

「ほとんど殺人だったのよ! 私に殺されたようなもんなのよ! 恨んで怒ればいいでしょ! 怒鳴って殴りかかったりしてくればいいじゃない! 黙ってて欲しかったらって脅して好きにしてくれたっていい!」

 何されたって抵抗なんてしないから。

 言葉にこそ出してないが、そんな続きが聞こえてきそうな物言いだった。

「そんな……」

 不意に、浴びせかけるように続いていた言葉が止まる。

「そんな風にあっさりしてないでよ……」

 消え入りそうな声で囁いたかと思うと、奈緒は顔を俯かせた。

「アンタが屋上から落ちて行くのが見えて何が起こったのか解らなくて。ううん。理解したくなくてぼーっとしてた。暫く経ってから慌ててアンタの事探しに行った」

 顔を胸に押し当てるような格好で奈緒は言葉を続けていく。

「必死でアンタの事探したわ。それでも何にも見付からなくて、全部夢だったんじゃないかって思おうとした。私のせいでアンタが死んだかもしれないのに全部なかった事にして何もかも忘れようとしてた」

 それは一種の懺悔であった。

 都合の悪い事には目を瞑り、都合の良い部分だけ切り取る。

 そうして何もかもから逃げ出そうとしたという告白。

「それでもアンタのクラスに確かめに行こうと思ったけど、怖くていけなかった。もし来てなかったら、行方不明にでもなってたら。そう考えたらアンタの友達にどんな顔で会えばいいのか解らなかった。廊下歩いてたと思ってたのに、気付いたら保健室で……」

 けれど、そこで簡単に逃げ出せる人間なら悩み苦しまない。

 伝えようとした言葉を吐き出して、もう自分でも何を言えばいいのか解らなくて。

「それで、気が付いたら目の前に、アンタが、居て……」

 それでも止める事が出来ず奈緒の口は何か言葉を吐き出し続ける。

 自分でも抱えられない想いを少しでも軽くしようとしているように。

 今も奈緒は顔を俯かせたままで表情は正吾には見えない。

 けれど泣いている事くらいは想像出来た。

(有栖川さん……)

 自分のせいで人が死んだ。

 自分が殺したも同然。

 そんな気持ちで過ごした一夜はどうだったのだろう?

 握り締められた服が体を締め付けていく感触に正吾は考えさせられた。

(凄い力だ……)

 服が破れてもおかしくないと思えるくらいの力の強さは、そのまま奈緒の不安と恐怖の大きさを伝えてくる。

 俯いて震える奈緒の姿は、握り締めた腕の力に反してあまりに小さく弱々しい。

 消えてしまいそうなくらいだ。

 本当は縋り付いて泣きたいのかもしれない。

 今にも潰されそうな罪悪感から救いを求めて、正吾に寄り掛かって泣きたいのかもしれない。

 けれどそんな事出来る訳がない。

 薬の消失事件についてはともかく――

 正吾が屋上から落ちた事件に関しては、間違いなく奈緒が加害者で正吾こそ被害者なのだ。

(ああ、そうか……)

 今になって初めて、正吾は自分と奈緒の置かれている立場を理解する。

 どんな罵声を浴びる覚悟も、どんな罰も受ける覚悟もしていた奈緒。

 そんな奈緒に罵倒も許しの言葉も何一つ言わなかった正吾。

 それは何よりも甘い対応であり――

 覚悟を決めていた者にとっては酷い罰を受けるより遥かに残酷であったのかもしれない。

(……もし、俺が有栖川さんの立場ならどう感じてただろうな?)

 考えて、すぐに答えは出た。

 答えが出せない、出してはいけないという正吾なりの答えが。

 結局は他人の言葉で他人の気持ち。そして『もし』という有りもしない世界の予測。

 同情したり解った気持ちになれても所詮は違う人間。本当に他人の気持ちなんて理解出来ないし、した気になってはいけないんだという正吾なりの答え。

(確かに、いつもの俺なら絶対に恨んでた。時間が経って色々あったからって忘れられないだろうし、出来るなら何か復讐したいと思った筈)

 だから正吾は正吾なりに考える。

 奈緒とは違う殺された側の立場で。

(事件が起こってから何か他に異常はなかったか?)

 暗記と計算が得意だから成績こそいいものの、一から何か考えたり閃く事は正吾は得意じゃない。

 出来るのは思い出す事だけ。

「ちょっとよく解らない話をするから聞いてくれ」

 今までの出来事を振り返って見て、心当たりはすぐにあった。

「今日、静音……幼馴染みの顔を見るだけで頭痛と吐き気がして立ってる事も出来なくなった。その代わりというか、有栖川さんを見ると妙にドキドキして、何故か恨みが沸いてこない」

「……いきなり何の話よ?」

 正吾の声に反応して奈緒が顔を上げる。

 目は僅かに赤く充血していたし、今も目尻に涙が見える。

「いや、その……」

 迫力の欠けた目で見上げてくる様子は、どこか小動物染みていて可愛らしい。

 妙な気恥ずかしさに思わず正吾は目を逸らすと、気まずそうに鼻の頭を掻く。

「実際に言われてみてさ。いつもの俺なら絶対に恨むだろうなって思って。さすがに殺されても仕方ないとか思うような状況でもないのに殺されかかって、なあなあで済ますような聖人じゃない」

 むしろ悪人だろうな、と正吾は思ったがそれは口に出さない。

「確かに死んだと思った時は財布くらい落とせって恨んでた。それなのに何で今は恨みとか一切湧かないのかって考えて、落ちて死に掛けた時からおかしくなり始めた事を挙げてみた。他におかしな事と言えば、怪我とかないくらいか」

「訳、解んないわよ……」

 言いながら奈緒は目元を拭う。

 もう瞳に涙は無く、代わりに強い意志の光が目には宿っていた。
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