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過去に想いを馳せる時間も時には必要なものです。

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 2年前──…


 ユスファリムは、多少つまらない話に笑顔で相槌を打ち、時たま話に加わりながら退屈な時間を過ごしていた。

 「あら、ユスファリム様」
 「………カリブ侯爵令嬢」
 「いやですわ。そんな他人行儀な呼び方。わたくしと貴方の仲ですのに」
 「…そんな言い方をしては、私たちが特別な仲に聞こえてしまいますよ?」
 「あら、そう言っておりますのに」
 
 匂い立つような色香を放ち、女性の魅力を存分に発揮しているナターシャ・アブ・カリブ侯爵令嬢は、赤茶の髪を緩やかに結い上げ、豊満な胸を見せ付けるようなドレスを身に纏っている。
 周囲の男たちは、彼女のその姿にぽぅっと熱を上げたように見惚れている。
 正直、ユスファリムにはナターシャの色香は胸焼けするような砂糖菓子を食べろと差し出されているように感じて、不快なのだ。

 「あら、今度の姿はきっとおきに召すと思いましたの」
 「………」
 「だって、あのときのあの子も胸が大きかったでしょう? あのときは年の差が有りすぎて、どうしようもなかったのでしょうけど」

 ふふふと、ワインレッドの口紅で艶やかに彩った唇を上げて、冷たく笑う。

 「…貴女が何をしようと、私の心は変わりませんよ」
 「あぁ、構いませんのよ? 今世で最後ですもの。それに、もう彼女の運命は決まっていますのよ?」
 
 ユスファリムは眉間に僅かなシワを寄せて、ピクリと反応を示したが、またいつもの彼女のたちの悪い妄言だと気にしない事にした。

 「安心して下さいませ。貴方が彼女に会うのはこれが最後。どうぞ、叶わぬ恋を絶ちきって!早くわたくしのものになって」

 ニタリと笑う姿さえ、誰もがため息をつきたくなる程美しい。
 だが、ユスファリムにとってそれはどうでもいいのだ。彼女以外は全て同じで、全てどうなろうと気にはならない。

 「何をした……」
 「あぁ、そうですの! もっとわたくしを気にして下さいませ! そうしてもっと、わたくしの事を考えて、わたくしでいっぱいになって下さいな!」
 「……醜い。俺は、醜い物は好かん」

 ユスファリムは、腕を取ろうと近寄ったナターシャから一歩身を引いて、刺すように冷たい視線を向けて、小さくそう言うと従者に帰ることを伝えて、エントランスへ向かった。
 背後ではナターシャが、頬を少し赤らめ唇に不気味な弧を描いてユスファリムの背中を見送っていた。

 
 ユスファリムが彼女を乞い願うようになったのは、もうずっと昔──……。
 神に一番近い身だった頃からだ。


 ユスファリムは纏わりついた甘ったるいナターシャの匂いに苛立ちながら、首もとをくつろげた。
 何度、願えば再び彼女に触れられるのか。
 何度、彼女を想って世を渡れば出会えるのか。
 ユスファリムはこれで 6回目の人生を送りながら、彼女を──…彼女の魂を探している。ユスファリム自身の魂を削りながら。



 転生してからの一回目、ユスファリムもう名前すら覚えていないがが微かに感じられる彼女の魂を辿って、やっと見付けたときには、彼女は事切れる寸前だった。
 見舞うことも、そばに居てやることも叶わず、ただその時まで屋敷の前で佇むしかなかった。
 なにせその時のユスファリムはただの貧乏商人だったのだから。

 2回目の人生は、やっとそばに居られる。いや、望んだ形ではなかったが、それでも強い絆を持って彼女のそばに居られるのだと思ったのに、生まれる前に死んでしまった。
 ユスファリムの魂は何を間違ったのか、オルビアが死産した子の魂の中に迷い混んでしまった。
 
 3回目と4回目の人生では、彼女に会えもしなかった。
 だんだんと薄れる彼女の魂を、辿れなくなってきていた。
 おそらくだが、何度となく邪魔を仕掛けてくるナターシャの呪術のせいもあったのかもしれない。
 始めは強かったオルビアの魂の気配も、つかめなくなってしまうほどユスファリムの魂も後がなくなっていく。

 5回目。出会えたオルビアとは18歳も年が離れていた。
 6歳で出会えたとき、彼女は既に結婚した身でいた。だが、聞こえてくる社交界での噂話は何とも悲痛なものだった。
 暴力の絶えない夫には結婚前からの愛人もいて、そちらの方にばかりかまけて公務も疎かに浮き世に溺れている。実質的な切り盛りは、オルビアが担っていたのだ。
 手酷い仕打ちを受けても、甲斐甲斐しく尽くし、当時の侯爵家の評判は彼女が支えていると言っても過言ではなかった。
 だが、女がしゃしゃり出ていい顔をされるわけでもなく、彼女の功績は全て夫に横流される。それでも、半歩下がって傍らで美しい笑顔を張り付けていた。
 怒りにも似た憎悪がユスファリムの中を満たしたが、子どものユスファリムにどうこう出来る力など持ち得なかった。
 加えて、ユスファリムを前にしたオルビアは魂で繋がる程に想い合ったはずの記憶がなかったのだ。
 それも拍車をかけたのか、ユスファリムは今世のオルビアが少しでも幸せであることを祈った。
 だが、数年も過ぎた頃、風の噂でオルビアの夫が自害したと耳にしたのだ。ならばと思いはしたが、既にナターシャが手を回していたのか、ユスファリムは別の女との結婚が決まってしまっていたのだ。

 「運命は、わたくしとの間にありますのに……早く、目を冷ましてくださいまし」
 「…………黙れ。お前ごときが俺に触れられると、本気で思っているのか…」

  ナターシャがその腕を取ろうとしたが、ユスファリムは身を引いて鋭い視線を投げた。だが、ナターシャはそんな視線すらも嬉しいのか、頬を紅葉させ、唇を美しく歪ませ、ねっとりとした色香を纏って笑うのだ。
 
 そして今世、ユスファリムは6回目の人生を歩んでいる。

 ユスファリムは、どの男の人生を歩もうともオルビアと番うことができない。
 遠い過去、まだ人と神が近い存在にあった頃のナターシャだった者から受けた呪詛が、永いときを経ても今だ効力を持っているからだ。



 ・ ◆ ・ ◆ ・ ◆ ・


 ユスファリムが彼女、オルティテアと出会ったのはユスファリムが26でオルティテアが16歳程の容姿のまま200年余りを過ごした時の事だった。
 女神が流した涙で出来た泉は、いつも清らかに輝き、プクプクと其処かしろから透明な水が涌き出ている。
 近くに住む村民は、水汲みに訪れたり、祈りを捧げに来たりしているが、女神が人間の男と育てたという、泉の管理者である神の子を見たものはいない。


 「……なんと、美しいのか」
 「……………人間、お前ごときが良くも私を目に出来たものだな」
 
 怪我をした小鹿を連れて、泉に訪れ、祈りを捧げれば、ユスファリムの眼前にはオルティテアがその身を露にして立っていた。
 小鹿は、折れた後ろ足を庇いながらオルティテアの元へ向かおうともがいている。

 「こ、こらっ! 歩けなくなってしまうぞ。母に会う前に、歩けなくなったら置いていかれるんだ。ほら、落ち着いて…な?」

 ユスファリムは小鹿の首筋を優しく撫で、落ち着かせると、オルティテアの方に向かって強く暖かな眼差しを投げた。

 「女神よ。どうか、どうか、この小鹿の怪我を癒し、母の元へ送ってはもらえないだろうか」
 「……なぜだ。お前たちはいつも食べるために鹿を狩っているだろう。それも食べればいい」

 皮膚に薄く銀の鱗を持ち、銀に輝く髪を垂らし、泉の中で立つ耀かんばかりの美しい女神は、その口で何とも無慈悲な事を言うのだ。
 ユスファリムは、神とは時に残酷な者であることを思い出した。
 何度となくこの泉に足を運び、祈りを捧げてきた。病に苦しむ母を救ってほしかった。体の弱い幼い妹が長く健やかに生きられるようにと願った。
 だが、神はそれを聞き届けてくれるわけではなかった。
 もちろん、ユスファリムは分かっているのだ。
 自分のような境遇の人間は少なくない。それを全て助けていくわけにはいかない。神が悪いわけでも、ユスファリムや母や体の弱い妹が悪いわけでもない。
 そういう運命にあったのだから。


 「……なれば、俺がこの小鹿が良くなるまで付いている。母を見付けてやりたいが、生憎とお前の母を見分けられる気もしないからな。お前が良くなって、自分の足で見つけるんだ」
 
 今だ体をびくつかせ、脅える小鹿を宥めながら、優しく声をかける。
 オルティテアはそれを不思議そうに見ていた。
 これまでだって、怪我をした小鹿を拾った人間は皆揃って、息の根を止めて連れ帰っていた。
 人間が生きていくために、必要な分を必要なだけ狩っていく。それが、自然の摂理だ。
 だが、この男はそれをしないでいる。

 「お前、肉が食えないのか?」
 「………ぶっは、くくく……も、申し訳ない。うん、いや、肉は好きだが、今は小鹿を食べたいとは思わないんだ。」

 オルティテアは、憂いに揺れる男の瞳を見て、また不思議に思う。
 その目を知っている。天に帰るしかなかった母を、ずっと愛しげに見送り、毎夜毎夜天を仰ぎ見る父の横顔に良く似ている。
 だが、それも正しい記憶なのか、オルティテアには分からない。もう200年以上も前の事なのだから。




 それからユスファリムは、小鹿の足が良くなるまでずっと泉の畔で過ごした。
 時折森に入っては、果物や魚なんかを取ってくる。
 小鹿の歩く練習にも付き合い、慣れない四足歩行で手本を見せた時には、余りに滑稽で思わずオルティテアが声を出して笑ってしまった。
 
 「なんだ、女神様も笑えるのだな」
 「………オルティテア」
 「ん?」
 「私の名だ。それに私は女神ではない。母がそうだったというだけで、私はそれに近い紛い物だ」
 「紛い物など、誰が思う。神とは人に希望を与える存在というだけで、いつも奇跡を起こす存在でなければいけない訳ではない。時たま、イタズラに起こす奇跡を、俺たちが勝手に有り難がってるだけだ」
 
 オルティテアは、また不思議に思った。
 願いが叶わなかった人間は、いつもなぜだと怒る。そして、怒りに任せて物に当たり散らして壊していく。
 でも、ユスファリムはそうしない。

 「お前は変わっているな」
 

 オルティテアはこれまでよりも一層、儚げに瞳を揺らして、小鹿に微笑みかけるユスファリムを見つめた。
 
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