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002

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 その三日後、旦那様は朝早く屋敷を出かけていった。
 何やら重要な仕事があるとかで数日帰らないらしい。
 僕はと言うと先日彼から告げられた「家から出るな」という言いつけを守って朝からずっと屋敷に引き篭もり、他にすることもないのでとりあえず掃除を進めている。

「屋敷から出るな、かぁ」

 旦那様からそう命じられることは過去にも何度かあった。昔はその言われるたび彼に理由を聞いたけれど、今日こんにちまで僕を家に隠すようにするその理由を教えてもらえたことはない。
 旦那様のことだから何か考えあってのことなんだろうけど、その理由を頑なに隠されてしまうと寂しく感じる部分もある。

「……ん?」

 掃除の手を止めてつい考え込んでしまっていたその時、屋敷の庭に植えてある藪のなかで何かがキラリと光った。
 その光るは柔らかな朝日を浴びながら藪の中をくねくねと動いている。貴金属でも落ちているのかと思ったが違う……あの動きは、間違いなく生き物だろう。

「首輪をつけた犬でも迷い込んでるのかな」 

 もしそうだとしたら元の場所へ返してやらなきゃ。
 そう思った僕は手に持っていた箒をその辺に立て掛けて、今も小さく揺れ続けている藪をそうっと掻き分けた。だけどそこにいたのは予想した犬でも、ましてや野良猫でもなく――。

百足むかで……?」

 真っ赤な身体に人間の手と同じくらいの長い胴体という部分だけを見れば少し大きな虫ぐらいに思っただろう。
 しかしその生き物は全身に鱗を纏っていて、鱗の隙間からは木漏れ日のように金剛色が輝いていた。そして特徴的なのはちょこんとくっついた四本の腕と、顔の横からぴんと伸びた耳のような部分。
 時折しゅうしゅうと音を出しながら地を這うように動くそれは、虫というより蛇の要素が強いように見えた。
 でも、普通の蛇にはないはずの腕と耳があることを考えると蛇とも断言し難い。非現実的なことを言うのなら"小さな龍"という呼び方が一番しっくり来るような見た目だ。
 どうやらこの世にはまだ自分の知らない生き物が沢山いるらしい。

「ははっ。お前、格好いいなぁ」

 思わずそう零すと、見つかったことに驚いたのかあたふたとあちこちを行ったり来たりしていたその蛇はピタリと動きを止めて、こちらをじいと見上げる。
 くいと首を傾げては舌を出し入れするその様子は、なんだかとても可愛らしい。

「お前が噛まないって言うなら、屋敷の外まで連れて行ってあげるよ。約束できるかい?」

 そう尋ねたら蛇は目を細めて顔を数回縦に振った。
 言葉が通じた? ……いや、まさか。
 動物と心を通じ合わせるなんて無論不可能に決まっている。
 同じ種族の人間同士でさえ相手のことなど数ミリも理解らないのに、共通の言語を持たない生き物との意思疎通なんて出来るはずがないのだ。
 ……だけど。

「ほら、おいで」

 なんだか気持ちが通じてしまったような気がした僕は、ゆっくりとその蛇に向かって手を差し出していた。
 もしこの蛇が人間を殺すことが出来る毒蛇だったらどうするつもりなのか、と自分で自分に問いかけつつも一度差し出してしまった手前、引っ込めることも出来ないまま蛇の動向を伺う。
 動物相手にすら気を遣ってしまうなんて我ながら難儀な性格だ。

「ちょっと、アンタ」

 おずおずとした様子で蛇が僕の手に向かって進んだその瞬間、背後からそんな声を掛けられた。振り向くと不満そうに眉をひそめ、腕を組んで仁王立ちをした奥方様と目が合う。

「え、あ、はい。どうしましたか、奥方様」

 すると彼女は僕を睨みつけるようにすると紙のようなものを僕に向かって押し付けた。受け取って紙面を見ると何やら品物がずらりと書き連ねられている。
 食品や日用品だけではなく、装飾品や酒などの嗜好品まで様々だ。

「それ、買ってきて頂戴」
「えっ? こ、これを全部ですか……?」

 思わず僕がそう尋ねると奥方様は更に眉を鋭く顰めて、こちらをぎろりと睨む。

「なに? 文句あるの?」
「あ、いえ、その……」

 この紙に書かれている品物を全て集めるにはかなりの数の店を梯子しなければいけない。今はまだ商店が開店したばかりの時間帯だがこれを全部集めるとなると、終わる頃にはすっかりお天道様が西側に傾いてしまっているだろう。

「僕、今日は旦那様から屋敷から出ないように申し使っておりまして……」
「そんなの関係ないわ。旦那様が留守で居ない間、この屋敷の主人は私だもの。良いから早く行って」

 この間迫ってきた時とはかなり違う冷たい態度になんとなく察した。どうやら僕は彼女から嫌われてしまったようである、と。
 ――結局。
 僕は今、庭を掃除するための箒を手放し、品物が書き連ねられている紙を手に銀座の街をあちこち駆け回っていた。
 彼女の言う通り旦那様が不在の間、あの屋敷で一番高い位に鎮座しているのは奥方様だ。一介の使用人である僕に、彼女へ意見するだけの力はない。

「はあ……」

 深いため息と共にもはや何件目かもわからない店に足を踏み入れようとした瞬間、ねじり鉢巻を巻いて勇ましく腕捲くりをし、斧やら鍬やらを持った集団が店の脇をドタバタと駆け抜けていった。
 あまりにも切羽詰まった様子だったので思わずその集団を凝視してしまう。すると鬼の形相をしたその人達はふと目が合った僕にずいと詰め寄ってきた。

「おい、アンタ! 怪しい虚無僧、見なかったか?」

 彼らが言っているのは数日前、僕を襲ったあの不気味な虚無僧のことだろう。
 あれが銀座の街に現れてからというものその噂は瞬く間に広がり、今やあの虚無僧は退治すべき人ならざるものと掲げられている。見ての通りこうして自警団まで立ち上がり、人々は虚無僧が退治されるのを心待ちにしているような状態だ。
 街往く人々の噂話を盗み聞きしただけの情報ではあるが、どうやら僕だけではなくあの虚無僧に襲われた人間は複数存在するらしい。その被害はどれも虚無僧に引っ掻かれただの蹴られただのばかりで僕のように卑猥な意味で襲われた人間はいないようだけれど。

「え、あ、いえ。見てませんが」
「そうか。この辺はよく出没するらしいからな。気をつけろよ!」

 そう言って自警団たちは爽やかな笑顔と共に去っていった。
 あんな屈強な男たちに追われて、あの虚無僧、可哀想だな……。
 思わずぼんやりとそう考えてしまい僕はハッとして首を振る。あんな可笑しなやつに肩入れする必要はないはずだ。
 なんなら僕も被害者の一人なわけだし、あの自警団を応援するべき立場なんだから。

「……早く買い物して帰らなきゃ」

 考えを振り払い、改めて店に足を踏み入れた僕は品物が羅列している紙とにらめっこしながら必要な商品を手に取る。
 またあの虚無僧に遭遇して襲われでもしたら敵わない。さっさと用事を終わらせて旦那様の言いつけの通り屋敷に戻らないと。
 だって。
 ……だってもし再びあれと遭遇して、前回は味わうことができなかったその先を知ってしまったら、僕はもう――。

「お客さん、顔が赤いけど大丈夫かい?」

 ふと店の主人がそう言いながら僕の顔を覗き込んできた。
 店主に、大丈夫です、と震える声で返した僕は必要なものを購入してそそくさと店を出る。

「えっと次の店は……」

 今は仕事に集中しよう。そうしたら考える必要もないはずだ。
 そう思いつつ奥方様から預かった紙を手に曲がり角を曲がったその瞬間。
 きゃいん、と犬の悲鳴のようなものが聞こえた。

「……?」

 どこからか聞こえてきた悲鳴に心臓がきゅっと縮む。
 まるでこの世で一番大切なものを傷つけられたかのような痛みに僕は思わず首を傾げた。どうしてこんなに苦しく感じるのか分からず混乱していると再び、きゅん、とか細い悲鳴が聞こえる。
 またしても心臓が縮まって、僕は手に持っていた品物を放り出しわけもわからないままその悲鳴を探して駆け出した。
 そうして探すこと数分後。
 数日前、僕が虚無僧に襲われたあの裏路地で、今度は虚無僧が屈強な男たちに囲まれて地面に膝混付ひざまづいているのを発見する。

「バケモノが! この街から出ていけ!」

 一人の男がそう言って角材を虚無僧に振り下ろした。ばし、と痛そうな音と一緒に喉の奥から絞り出すような悲鳴が深編笠の向こうから滲み出る。
 虚無僧は数度うめき声をあげた後、小さく震えながら壁際にずりずりと後ずさった。
 その姿はあまりにも弱々しくて儚い。今にでも消えてしまいそうなぐらいに。
 一方、虚無僧を取り囲んでいる自警団たちは今にでも斧やら鎌やら鍬やらを振り下ろさんと目をぎらぎらさせていた。
 あのまま放っておいたら、虚無僧の死が明日の朝刊の目玉を飾ることだろう。それはきっと被害者である僕にとっても喜ばしいことであるはずだ。――それなのに。

(心臓が痛い)

 あの虚無僧の死に様を想像するだけで心臓が喚いて、心が痛みを訴えている。怖い思いをしたはずなのに心の何処かであの虚無僧に情を感じている。
 ……そんなはず、ないのに。
 あいつが殺されようと僕には関係ないはずなのに。

「誰か助けてくれ! 殺される!」

 何を思ったのか僕は気がついたら物陰に隠れて震える声でそう叫んでいた。
 すると思惑通り正義感の強い自警団員たちは一斉にくるりと振り向いてその声がどこから発されたのかを探すように周囲を見渡す。瞬間、壁際に追い詰められていた虚無僧はすっくと立ち上がって、数日前と同じように軽やかな身のこなしで屋根の上に逃げていった。

「あ、待て! くそ、とりあえず声の主を探して助けに行くぞ!」

 僕が作り上げた架空の困り人を探すべく自警団はバタバタと路地裏を出ていき――それを見送った僕は物陰からするりと路地裏へ移動し、屋根の上を見上げる。

「いるんだろ。出て来いよ」

 一人残された路地でそう呟くと、屋根の上からひょこりと深編笠が顔を出した。彼はそのままふわりと裾を靡かせながら僕の前に降りてくる。
 元からぼろぼろだった着物は更に薄汚れて、破れた袈裟の隙間から見える毛がびっしりと生えた皮膚からはじわりと血が滲んでいた。

「……お前は何なんだ。一体、何が目的でここに居るんだ」

 虚無僧はゆらゆらと所在なさげに揺れながらじいと僕を見つめる。
 逃げるべきなのに。
 相手をしない方がいいはずなのに。

「どうして僕は……お前を、見捨てられないんだ」

 虚無僧を前にした僕は謎の高揚感と好奇心に駆られるままそう尋ねていた。一方虚無僧は僕の問いに暫し沈黙を返した後、ゆっくりと深編笠を脱ぐ。

「――!」

 笠の奥に居たのは、二足歩行の獣だった。
 大きくぴんと立った耳。
 灰色の毛で覆われた身体と顔。
 長い鼻先と鋭い牙。
 漆黒の中にぼんやりと浮かぶ金色の瞳。
 その姿はまさに人々が思い描くような人ならざるもの……モノノ怪そのものであった。

「吾は犬神。人に憑き、その生命を糧に存在するもの」

 そう言うと虚無僧は時折ぴくぴくと耳先を動かしながら安堵したように口元を緩ませた。

「いぬ、がみ……」

 聞いたことはある。
 犬神というのは人ならざるもの、つまり怪異で、それに憑かれた家はどんどん没落していき終いには一族を滅ぼすという。蠱毒などと同じく呪術の一種のはずだ。

「そして御前様は、吾の宿主だ」
「……え?」

 ぐい、と腕を引かれて。
 ぬるりと生ぬるい温度が唇を這う。
 背中に回った手がまるで愛おしい人の感触を確かめるかのように腰を優しく撫でた。

「――んッ⁉」

 腰を撫でていた手はそのまま伝うように下へ降りていって、着物越しに僕自身に優しく触れる。身じろぎをするも、しっかりと身体を抱きしめられていて逃げるのは叶わなかった。

「んう、っは、あぐ……ッ」

 舌をなぶられる感触と自身を柔く扱かれる快感に目の前がちかちかする。
 怖くて、恐ろしくて、本来ならば全力で暴れて逃げるべきなのに身体は彼の体温を求めてびくびくと跳ねた。

「嗚呼、良かった。本当に。御前様は、御前様なのだな。ちゃんとこの奥に御前様が残っているのだな」

 彼はそう言いながら僕の左胸のあたりを優しく撫でる。

「な、何を言って……」
「御前様。好きだ。ずっとこうしたかった。吾を受け入れてくれ」

 どうして否と言えない?
 彼に求められていることが酷く嬉しくて、心地よくて。
 混じり合って一つになってしまいたいと思うほどその存在が愛おしくてたまらない。
 だって今も身体は抵抗を諦めて、口吸いの余韻に溺れながらゆっくりと地面に押し倒されることを是としている。

(僕の身に何が起こっている?)

 まるで自分の中に知らないもう一人の自分がいるようだ。
 自分の気持ちがわからない。
 どうしてこんなにも目の前の存在を欲しているのか、わからない。

「っは、あッ。御前様が欲しい。吾に、挿れてくれ。御前様の全てをおくれ」

 頬を上気させた彼は僕の唇を貪りながらぐいと袴をずりおろして、僕自身に秘部を擦り寄せた。
 くちくちと厭らしい水音が鼓膜を撫でるたびに自身が快楽を求めて脈打つ。
 嫌だ。こんなの。
 ――嫌だ?
 本当に?
 だってこんなにも……僕は彼を欲しがっているのに。
 突き飛ばして逃げることだって出来るはずだ。
 抵抗はいくらでもできるはずだ。
 それなのに、僕は彼との繋がりを――数日前を食らったその先を、喉が渇くほど求めている。

「御前様」

 そう呼ばれる度に心臓が跳ねて、心地よさが背中を駆け上がった。
 欲しい。
 彼が欲しい。
 早く、早く。

「あッ、は、あぁ……っ」

 ぐちゅぐちゅと水音を立てながら自身が肉を掻き分けて彼の中へ侵入していく。彼の身体を奥へと進む度に経験するような快感が脳髄を揺らした。

「はァ……っ。嗚呼、ずっと、ずっとこれが欲しかった。御前様、好きだ。御前様」

 とろりと目元をだらしなく緩ませて、牙の隙間から舌を垂らしながら彼はふかふかの身体で僕を扱く。
 肉同士がぶつかり合う音が激しくなるにつれて気持ちが昂ぶり呼吸が乱れ、僕は無意識に、僕自身をその身に飲み込んで腰を上下に揺らす彼の頬を撫でた。
 意識が朦朧とする。
 なぜこんなにも目の前にいる異質な存在を愛おしいと思うのか。そんな疑問を抱くことすら忘れて、触れている部分すべてから伝わってくる快感に目を細めた。

「御前様。御前様、御前様、御前様。嗚呼、何度呼んでも足りない。何度呼んでも、もう一度呼びたくなる。吾をこんなにした責任を取っておくれ。此度の世でも吾を満足させておくれ」

 そう言ってまん丸い眉をくしゃりと歪ませた彼は器用に口吸いをしながら腰の動きを早める。今までとは比べ物にならない快感がじわじわと迫り上がってきて、自然と呼吸が浅くなった。

「ッあ、う。だめだッ、もう……っ」
「良いぞ。出せ。出してしまえ。吾のなかに、全てを吐き出してくれ。御前様の子種をくれ」
「くぅ……、あッ、んん……っ!」

 瞬間、頭の中が真っ白になる。
 恐怖も不安も何もかも消えて無くなって、只々快感と多幸感だけが脳髄を沸かした。そうして溜まっていた欲を彼の中に全て吐き出した途端に全身からぐたりと力が抜ける。

「は、あ……うぅ」

 気持ちいい。彼が好きだ。こんなんじゃ足りない。
 もっと。
 ――もっと、欲しい。

「ッあ⁉ あァっ! お、まえ、さまぁッ!」

 もうどうでも良かった。
 ただ目の前にある快楽が欲しくて。もっともっと、彼が欲しくて。
 つい今しがた吐き出したばかりの白濁した欲を中へ擦り付けるようにして一心不乱に腰を振る。

「やっ、あ、はげし……ッ、くぅんッ♡」

 口元から唾液を零しながら虚ろな目で僕を見下ろすその姿のなんと美しいことか。
 いや、違う。正気を保て。
 ダメだ。これ以上は。
 どうして?
 こんなに気持ちがいいのに。
 こんなに愛しているのに。
 どうしてやめなければいけない?
 ……ああ、頭がぐちゃぐちゃだ。

(止まらない。欲しい。もっともっと、彼が欲しい。厭らしく乱れる姿をもっと見たい)

 その欲求に導かれるまま僕は彼の身体を抱き寄せて臀部に指先を這わせ、着物の奥に隠された二本の尾の根本をぎゅうと掴む。
 知っている。彼はこうされるのが好きだと。
 ……どうして知っている?

「っひう⁉」

 彼はびくりと肩を震わせて涙目で僕を見た。
 夜空に浮かぶ月のような瞳がじゅわりと滲む。
 そのまま尾の根本を撫でたり握ったり扱いたりしながら何度も彼の最奥を突き上げた。

「あッ、あぁッ! きゃうんッ! ぐるる……ッ」

 辛うじて人の声を保っていた彼の声は次第に獣のように変化していく。こちらを見下ろすその表情かおは発情期の犬とそう変わらなかった。

「おまえ、さまっ……嗚呼ッ、もうっ……っく、~~~ッ!」

 届く限り一番奥を渾身の力で貫いたその瞬間、いつの間にか露出していた彼自身から白濁液が零れ落ちて僕の腹の上を伝う。一方僕も彼が気をやる顔にぷつりと箍が外れ、再び濁った欲を彼の最奥へ吐き出した。
 どくどくと心臓の音が頭の中で大きく聞こえて――全てを吐き出した僕はぐったりとその身をその場に放る。
 頭がふわふわして視界が歪んだ。

(おかしい。今の僕は明らかにおかしいはずだ。なのに……なのにどうして、こんなにも満ち足りた心持ちになっている?)

 しんと静まり返った路地裏に二人分の呼吸音だけが響く。
 余韻に浸るように暫くそうしていたら不意に彼がにんまりと満足そうな笑みを浮かべて僕の頬に鼻先を擦りつけた。その身を思わず抱きしめようとしたところで――ようやっと理性が戻ってくる。
 今更戻ってきたところで何もかも遅いけれど。

「……ッ!」

 さぁっと血の気が引いて指先が冷たくなった。
 僕は今、何をした? 何をされた?
 背中を駆け上がるじりじりとした余韻を振り払いながらようやくハッキリとしてきた視界で虚無僧を睨む。

「ぼ、僕に何をした……っ! 悪霊が使う呪術の一種か……⁉」

 すると虚無僧は腰を持ち上げて僕自身を引き抜いた後、くつくつと笑った。かと思えば内腿を這う白濁液を見せつけるように着物の裾を指先で摘んでくいと持ち上げる。

「自分からあれだけ腰を打ち付けておいて今更責任逃れとは。今世の御前様は随分な御人だのう」
「な……っ」

 その言い方じゃ、まるで僕から襲いかかったみたいじゃないか。
 虚無僧に欲情したのは何かしらの力で混乱させられたかもしくはただの気の迷いのはずだ。だってそうでなくては、説明がつかない。

「吾は御前様のもので、御前様は吾のものだ。吾を欲しいと思ってしまうのも仕方あるまい」
「訳がわからない……! そもそも僕たちは初対面だろ⁉」

 後ずさりつつちらりと逃げ道を確認する。
 この場所は人通りのある道までは少し遠い。……今の腰が抜けた状態で果たして逃げられるだろうか。

「吾と御前様は前世より結ばれているのだ。御前様に宿っている魂に、吾は憑いてきた」
「前世……魂……?」

 突拍子もない話に思わずそう聞き返すも虚無僧は真剣な面持ちのままゆっくりと頷いた。

「御前様の魂は前世より犬神憑きだ。前世の御前様が望んでそうなった」
「そ、そんな非現実的な話、信じられるわけないだろ」
「何を言う。人間からしてみれば、吾そのものが非現実的な存在であろうが。往生際が悪いぞ、御前様」

 こいつ、化け物のくせに随分的を射た事を言いやがる。

「もし仮にその話が本当だったとしても、前世なんて知るものか。前世の僕とお前がどういう関係だったにせよ今の僕には関係ない……! 僕のことは放っておいてくれよ!」

 そう言い残して逃げようと立ち上がるも膝にうまく力が入らず身体がぐらりと傾いた。
 すると彼は慣れた様子で僕の身体を受け止める。

「そうもいかん。言ったであろう、吾は御前様の魂に憑いていると。それは即ち、お前にも憑いているということになるのだ」

 その言葉に僕は思わず絶句した。
 そんな理不尽なことがあってたまるものか。

「憑いている場所がどこだろうと今の御前様が犬神憑きであることには変わりない。こうして一度交わってしまった以上、その繋がりはより強固なものになっただろう。……いい加減観念なされよ、御前様」
「うぅ……」

 冗談じゃない。
 そもそも巷を騒がせている怪しい虚無僧と一緒に居たら、僕まで退治されてしまう。

「僕は信じないぞ。いいか、絶対着いてくるなよ! 二度と僕の前に姿を現すんじゃない!」

 そう言って彼の腕を飛び出す瞬間ずきりと心臓が傷んだ。
 彼に感じた愛しさも邪な思いも、傷つく彼を前にするとどうしようもなく苦しくなるのも「前世の僕」とやらのせいなのだろうか。
 そんな考えを振り払ってずきずきと痛む胸元を押さえながら、僕は逃げるようにして路地裏を後にした。

「……逃げても無駄なのだがな。此度の御前様は随分と可愛らしい。そうは思わぬか? のう、砌」

 路地裏に残された彼が楽しそうにそう零したことを知らないまま。


 ◆ ◇ ◆ ◇


「はぁっ、はぁ……ッ」

 喉と心臓が痛い。
 痛む体を引きずってお屋敷まで逃げ帰ってきた僕は乱れた呼吸を直すこともせず玄関へ飛び込んだ。
 土間の上へ転がった瞬間に嗅ぎ慣れた煙草の香りがする。そうしたらぼんやりとしていた思考がすっきりとして――あの虚無僧に襲われる直前、買ってきた品物を全てどこかへ放り出してしまったことを思い出した。
 顔から血の気が引いていくのを自覚すると同時に家の中から玄関へ向かってくる足音が二つ聞こえる。
 まずい、どうしよう。
 今更戻ったところで放り出してきた品々が無事かどうかもわからないし。
 一体どう言い訳を、と考えているうちに足音の持ち主――奥方様が玄関までやってきてしまい、僕は青い顔のまま彼女を見上げる。

(……あれ?)

 足音は聞こえた。
 旦那様がお仕事で出ている今、この屋敷にいるのは奥方様と食事係をしている使用人、二人だけのはず。だからもう一つの足音はその食事係のおばちゃんのものだと思ったのだけど、奥方様の隣に立っていたのは何やら大袈裟な衣装に身を包んだ怪しげな男だった。
 その男は怪訝そうな顔でこちらをじろりと睨むと、状況がつかめずにぽかんとしたままの僕を勢いよく指さす。

「奥様、この男が原因ですよ」

 男がそう言うと奥方様は心底不愉快とでも言いたげに眉をひそめて、やっぱりね、と呟いた。

「あ、あの……奥方様、この方は……?」

 おずおずと尋ねると奥方様は更に眉をひそめ、口元を覆う。

「気安く話しかけないで、この疫病神が」
「ええ……?」

 訳がわからない。
 疫病神って。そこまで言われるほど嫌われているのか、僕は。
 一体僕が何をしたっていうんだ。

「この男に憑いている犬神がこのお家に悪いことを引き込んでいます」
「この間鏡が勝手に割れたのも、その犬神ってやつのせいなのね」
「ええ、恐らくそうでしょう」

 ええと……。
 当人を置いてけぼりで勝手に話を進めないでもらいたいのだけど。
 僕が困惑していると奥方様はしっしっ、と僕を手で払うようなジェスチャーをする。

「ああ、気持ち悪い。おかしいと思ったのよ。ここ最近勝手に鏡が割れたり、風もないのに窓が開いたり、誰も居ないはずの廊下から足音が聞こえたり……! やっぱり拝み屋さんに来てもらってよかったわ。もううんざりよ、気味が悪い。アンタは今日で解雇! 二度とうちの敷居を跨がないで頂戴」
「か、解雇⁉ そんな、困ります! 旦那様はなんと……」
「うるさい! 今この家の主人は私なの! いいからさっさと出ておいき!」

 必死の抵抗も虚しく僕は奥方様と怪しい男(奥方様の話では拝み屋らしい)の手によって一度逃げ帰った屋敷から再び放り出されてしまった。扉が壊れるんじゃないかと思うぐらいの勢いで僕を締め出し、錠を下ろす音がすると同時に屋敷の中からは怪しげな念仏が聞こえてくる。
 ……ああ、めっちゃお祓いされてる。
 っていうかあの怪しい男、見た目は兎も角僕が遭遇したばかりの犬神のことを言い当てたし、案外ちゃんとした拝み屋なのかもしれない。
 いやいや、現実逃避をしている場合じゃなかった。
 どうにかして解雇は撤回してもらわないと。……いや、あの様子だと無理だろうなぁ。

「おやおや、御前様。そんなところに座っていたら服が汚れてしまうぞ」

 ひょこり、と。
 視界に金色の瞳が滑り込んできた。
 地面に座り込んだままの僕を覗き込んだそいつ――虚無僧は、愉快そうににんまりと笑みを浮かべる。

「……お前、屋敷の中の物を勝手に壊したりしたか? 勝手に窓を開けたり、足音を立てたりしたか?」

 虚無僧の顔を見上げながらそう問いかけると彼は笑みを深めた。

「嗚呼、そんなこともしたかもなぁ。何処ぞの女狐が御前様に手出しをしようとするものだから、ちょいと構ってやったのだ。直接危害を加えたわけではないのだから可愛いものだろう?」
「お前なぁ……!」

 思わず立ち上がって虚無僧の胸ぐらを掴む。

「お前のせいでこちとら職を失ったんだぞ! どうしてくれるんだよ! ああもう、最悪だ!」
「まあまあ、そう怒らずとも良いではないか」
「他人事だからって、こいつ……!」

 自分よりも高い位置にある顔を睨みつけると虚無僧は僕の頬を両手で包み込んでゆっくりと目を瞑り、ちう、と音を立てながら僕の額に口先を押し付けた。
 頬に熱が集中するのを自覚しながら僕は掴んでいた胸ぐらを放って一歩後ずさる。ああもう、どうしてこいつとの触れ合いがこんなにも嬉しいと感じるんだ。
 まったく、冗談じゃない。

「な、何するんだよ! そんなんで誤魔化そうったってそうは問屋が……」
「ほれ」

 僕の言葉を遮った虚無僧は目の前に手のひらを差し出す。僕のそれよりも大きな手のひらの上には小銭やら紙幣やらがいくつも転がっていた。

「――えっ?」

 驚いている僕を尻目に彼は僕の胸ぐらを勝手に弄り、大事にしまってあった財布を取り出してそこへ手に持っていたお金を乱暴に突っ込む。財布の蓋を閉じて満足そうに、むふー、と息を吐いた彼は再び元あった場所へ財布を戻した。

「……いや、いやいや! 待て待て! なに、どういうこと⁉ なんでお前、こんなにお金持ってるんだよ⁉ 向こう数ヶ月は働かずに遊んで暮らせるぐらいあったぞ⁉」
「ふふん。吾は虚無僧なるぞ。質素な生活をしていれば喜捨で生きてゆけるのだ」

 そう言って彼は自慢げに胸を張る。

「まあこの格好で歩いていたら時折人間が勝手に金をくれるというだけなのだが。全く人間というのは信心深くて便利なものよ。吾には睡眠も食事も必要ない故どうしたものかと思うていたのだが、これで御前様が吾と共に在る理由ができたな」
「待て待て、勝手に決めるな! 一緒になんかいるわけないだろ!」

 職を失っただけに飽き足らず人ならざるものに養われるとかどんな人生だよ。
 まっぴらごめんだ。
 第一、僕には帰る場所がある。

「……僕は実家に帰る。お前とはここでさよならだ」

 奉公に出たのは父に自立した自分の姿を見せたかったからだ。特段外で働きたい理由が他にあったわけじゃないし、これを機会に以前から打診されていた通り煙草屋を継ぐのも悪くないだろう。

「ふむ。であれば吾もいこう。御前様の在るところに吾も在り、だ」
「冗談じゃない! やめてくれ! ついてくるな!」
「そうは言われても御前様が宿主であることには何ら変わりないぞ。どれだけ遠ざけようと吾らは魂で繋がっておるのだ。いい加減観念したまえよ御前様」
「~~~っ! ああもう! いいか、絶対ついてくるなよ! もしついてきたらお前の額に御札を叩きつけてやるからな!」

 そう言い捨てて僕はまたやつの目の前から逃げ出した。そのまま後ろも振り返らないまま走り続け、父と過ごした懐かしの家へと飛び込む。嗅ぎ慣れた匂いが鼻先を擦るとうるさかった心臓がようやく落ち着いてきた。
 ふう、と小さく息を吐いて玄関へ上がろうとしたところで、食事中だったらしい父が米粒を口元につけたまんま玄関に顔を出して、ばちりと目が合う。

「あ……た、ただいま、父さん」
「みつ坊? どうしたんだ、突然帰ってきて。何かあったのか?」
「まあ、うん。色々と、ね」

 とりあえず草履を脱いで玄関に上がり、居間にある座布団に腰を下ろした。
 一体何から説明をするべきかわからなかったけれど、一先ずこれまであったことを話そうと口を開く。だけど一体何から説明するべきか、一体何を説明しないべきか、それがわからず口を開いたまま固まってしまった。
 あ、だの、う、だの、えっと、だのと意味を成さないただの声を発していたこちらを見て父は小さく笑い、くしゃくしゃと僕の髪を撫でる。

「みつ坊、晩飯は食ったのか?」
「え? ……まだ、だけど」
「そうか。ならまずは飯にしようや。ちょっと待ってろよ」

 ニッと笑った彼は立ち上がって台所へ向かった。数分後、戻ってきた父の手には御盆があり、炊いたご飯と味噌汁、焼き魚、漬物が載っている。

「ほら。詳しくは食ってから聞くからよ」
「……うん。いただきます」

 両手を合わせて味噌汁を啜る。
 懐かしい、父さんの味だ。

「美味いか?」

 その言葉にこくりと頷くと、父は満足そうに笑って僕の向かいに腰を下ろし、食事を再開した。
 こうして父と向かい合って食事をするのはいつぶりだろう。煙草のお使いのたびに顔を合わせてはいたが、腰を据えて話をするのは数年ぶりかもしれない。

「あのさ……僕、解雇されたんだ」

 覚悟を決め、ぽつりとそう呟くと茶碗を見下ろしていた父は酷く驚いたような表情で僕の顔を見つめた。

「解雇だって? そんなはずは。旦那様がそういったのか?」
「ううん。今、旦那様はお仕事で屋敷に居なくて。奥方様に言われたんだ。なんでも僕に悪霊が憑いてるとかなんとかで、二度と屋敷に来るなって」
「ああ。そういうことか……」

 眉を顰めた父は茶碗をちゃぶ台の上に戻して、目を細める。

「旦那様が戻ったら詳しい話をしに行こう。とりあえずそれまではうちに居るといい」
「うん。でも、この機会に煙草屋を継ぐのも良いかもしれないって思っててさ。どう思う、父さん?」
「そりゃ嬉しい申し出だけどよ。だがま、それを決めるのは旦那様と話をしてからでも遅くないんじゃねぇか? あの人が統の解雇に同意するたぁとても思えねぇからな」
「……わかった」

 どうやら父は随分旦那様に信頼を置いているらしい。
 だがそれを抜きにしても、彼が発する言葉の裏には僕の知らない含みのようなものが在るように感じた。……だけど、疲れていた僕はそれに言及することはせず、ただ久しぶりの父の味を堪能して、眠ってしまったのだ。
 ――これが、彼と過ごす最後の時間だと知らないまま。
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