来世も見つけて、憑いてきて。

とらお。

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 僕の中に残っている最古の記憶は、裏路地の天井から覗く青い空を、訳もわからないままぼうっと見上げていたところから始まる。この当時の僕が覚えていることといえば自分の名前と六歳という自分の年齢だけ。
 どうしてこんなところにいるのかも、今までどうやって生きてきたのかも、これからどうしたらいいのかもわからないまま、ただただぼうっとそこに在ることしかできずにいた。

「どうしたんだい、こんなところで」

 そんな声が耳に響いて。
 なんとなく声のした方へ視線を向けると、そこには随分人の良さそうな男が心配そうな表情を浮かべてこちらを見下ろしている。男はそのままあたふたと裏路地に入ってくると優しい手付きで僕のことを抱き上げた。
 ふわり、と。少し苦い大人の匂いが鼻を撫でる。

「こんなに汚れちまって。……それに、この赤い染みは――」

 服についた埃を払った男は、眉を顰めながら僕の服や頬を撫でた。その目にはどこか懐かしさのようなものが滲んでいたようにも思う。

「お前さん、行く宛がないなら俺と住むかい?」

 どうしてこの時、殆ど悩むこともなく彼の言葉に頷いたのかはよく覚えていないけれど、幼い自分のこの決断を僕は今でも有り難く感じている。
 当時の僕が頷いてくれたお陰で、僕には今があるのだから。


 ◇ ◆ ◇ ◆


 少し乾いた秋の風が屋敷の前の掃除に明け暮れている僕の前髪を弄ぶ。
 首筋をしゅるりと空っ風に撫でられるたびにほんの少しだけ背中が震えた。思わず二の腕を擦りながら、そろそろ衣替えの時期かな、なんて考えつつ箒で葉を集める。

「最近随分と涼しくなってきたなぁ」

 時は大正初期。
 侍は消えて軍が生まれ、戦う男は刀を捨ててサーベルと銃を持ち、まげは切り落とされて散切りになり、女は着物ではなくドレスやらワンピースやらなものを身に纏いながら家庭を飛び出し、社会の一員となり始めた頃。
 僕、篠木しのぎみつるは、東京に居を構える士族、織田おだ家に六年前から使用人として仕えていた。
 士族――それは江戸時代に存在した旧武士階級をもつ者がたまわることのできる階級だ。僕が仕えているお家も例に漏れず、先祖は結構な領地を手にした有名な武将だったとか。
 とはいえ、戦に生きるという生業を失った武士たちにとって士族という呼び名は殆ど自尊心を満たすためのものでしかなく、階級を持つことによる特権はない。そのため平民とそう変わらない日々を送る者も多いが、織田家の当主は自らの力で別の生業を見事に確立させた成功者だ。
 それ故に織田家に対する世間一般的の認識は士族というよりも商家の方がしっくり来るだろう。織田家の現当主は、現代で成功者とされる華族にも負けず劣らないほどに裕福で立派なお屋敷に住まわれている。もちろん、住み込みの使用人である僕も。
 まあそういう感じのお家に置いてもらえてるということもあり、それなりのお給金を頂きながら概ね満足のいく生活を送っているというのが今のところの僕の人生の大半だ。
 六歳よりも前の記憶が殆ど何も残っていないことだけが未だに気がかりだけれど――まあ、そこまで大きな問題ではない。

「よし、こんなもんでいいかな。塵取、塵取っと」

 そう言って振り向いた瞬間、空っ風がぶわりと拭いて、せっかく集めた落ち葉を舞い上げる。それどころか風が何処からか新しい落ち葉を連れてきたせいで、お屋敷の門前は掃除を始める前よりも激しく散らかった。

「……はぁ」

 溜息を零しつつ今度はうっかり散らかされないよう塵取に葉を押し込みながら再び門前の掃除を開始すると、少し遠くからざりざりと草履が砂を蹴る音がした。音の方へ視線をやると黒い人影が視界の端でぐらりと揺らめく。
 その人影は黒装束と灰色の袈裟けさを身に纏い、頭には深編笠を被っていて、見た目の特徴だけを見て判断するのなら、いわゆる虚無僧こむそうというやつだった。
 先に説明した通り織田家の屋敷は誰がどう見たって裕福だとわかるほどに立派で大きい。だからこそ、こうして僧が喜捨きしゃを請いに来ることは特段珍しいことではないし、これと似たような光景などこのお屋敷に仕え続けた六年間で何度も見たことがある。
 ただ――その虚無僧はどこか様子がおかしかった。
 ふらふらとおぼつかない足取りと獣にでも噛み千切られたかのようにボロボロな裾。虚無僧の象徴である尺八ではなく真っ赤な扇子を持っていることがその存在の異質さを際立たせている。

「あの、お屋敷になにかご用ですか?」

 僧が家屋を尋ねる用事など喜捨目的以外には考えられないだろうにと自分で思いつつ、恐る恐る近づいてそう声をかけた。
 一方声を掛けられた虚無僧は肩をびくりと震わせた後、動かなくなる。
 聞こえなかったのかな。
 でも声をかけた時に肩が動いていたし。
 なんて首を傾げつつ考えていたら深編笠が突然ぐるりとこちらを向いて、力強く腕を掴まれた。

「え――?」

 ゆっくりと迫りくる笠越しに荒い息遣いが聞こえて二の腕に鋭い爪が食い込む。突き刺すような痛みに思わず視線を掴まれている腕に落とした瞬間、僕は息を呑んだ。
 僕の腕に巻き付いていたのは、まるで獣のような、灰色の毛を纏った腕。その指先から伸びる鋭く長い爪は光を反射しないほどの漆黒を孕んでいる。
 
(なんだ、は)

 目の前にいるのは、本当に人間なのか?
 一体コイツはなのかなんて疑問が些末に思えるほど目の前に居るその存在は異質で、生きた人間であると飲み込むにはあまりに化け物じみている。
 笠の向こうで繰り返される浅く激しい呼吸音は人間よりも犬の息遣いを彷彿とさせた。

「みつけた……ようやく見つけた」

 辛うじて人語を喋っていることが救いかもしれない。小さく"見つけた"と繰り返すその真意はさっぱりわからないけれど、言語が通じるのならまだ対話が可能だろうから。
 ともかく話し合いをしよう。仮に和解ができなかったとしても何かしら現状を突破する糸口が掴めるかも。
 そう思い僕は深編笠を見上げるが、隙間から僕を見下ろすようにしている黄金色の瞳と視線がかち合った瞬間に心臓がどくりと高鳴って、なんとか吐き出そうとした二の句が喉の入口あたりでぎゅっと詰まった。
 ……ダメだ。
 本能が告げている。
 は話が通じるような相手ではないと。

(逃げ、なきゃ)

 得体の知れない虚無僧に拘束されている理由も、こいつの目的も、先程からブツブツと呟いている"見つけた"という言葉にどんな意味が込められているのかも皆目見当がつかない。
 疑問がぐるぐると脳裏で渦巻く一方で、一体これからどうなってしまうのかが分からなくて、予想もできなくて、ただ不安と恐怖だけがじわりじわりと足元から登ってきた。
 そもそも対話ができる相手だったのなら最初から対話が成立しているはずだ。大した声かけもなくいきなり人の腕を掴んで拘束するような相手は人間だろうがそれ以外のなにかだろうが危険に決まっているだろうに。取り返しのつかない状況になってからそれに気がつくなんてどれだけ平和ボケしているんだ、僕は。
 逃げろと警告する本能に従ってなんとか虚無僧と距離を取ろうとするも、僕の腕を掴んでいる指先はぴくりとも動かない。
 どうしよう。
 一体どうしたら――?

「わぷっ!?」

 ふう、と息を吐く音がしたと思ったら目の前が白く霞んで、同時に嗅ぎ慣れた煙草の匂いがした。途端、僕の腕を掴んでいた虚無僧は手で煙を払いながら煩わしそうに離れていく。
 握られていた腕がじんじんと熱を持って、止まっていた血が流れていくような感覚がした。
 ふと横を見ると口に煙草を咥えた僕の主人――織田家当主である、にしき様が気怠そうに立っている。

「……旦那様」

 射抜くような切れ長の目に、緩く弧を描いた口元。
 殆ど四六時中吸っているせいか彼からはいつも煙草の匂いがする。勿論、今も。

「手の内ご無用。悪いがうちにゃ、僧に恵んでやれるような善人はいねぇんだ」

 小さく笑った旦那様の口元から煙が漏れて僕の周囲を漂った。煙草には珍しく、胸焼けしそうになるぐらい甘い匂いがする。
 不安と恐怖で騒ぐ心臓を必死に落ち着かせているとふいに旦那様が僕を背中に隠すようにして虚無僧の前に立った。

「欲しい物があるんなら他を当たんな。悪いがこいつは、大事なやつから預かってるんでね」

 ……? 何の話だろう。
 僕が旦那様の言葉の意味に首を傾げている間に、暫くその場に留まっていた虚無僧はやがてくるりと踵を返してどこかへと姿を消してしまった。
 それを見送った僕はやっと息をちゃんと吸えるようになった気がして、深く安堵の息を吐く。するとそんな僕を見下ろして、旦那様がくつくつと笑った。

「お前は相変わらず鈍臭ェな」
「す、すみません」
「別に怒ってるわけじゃねェよ。……ん?」

 ふと僕の顔を覗き込んだ旦那様が怪訝そうに眉をひそめる。

「おい、腕見せてみろ」
「え?」

 彼に言われるまま腕を持ち上げると、虚無僧の腕が巻き付いていた部分の着物が破け、そこから覗く肌が浅黒く変色し痣のようになっていた。それだけではなく所々ついた引っかき傷からまん丸い血液がぷっくりと浮き上がっている。

「こりゃいけねぇな。手当すんぞ、来い」
「は、はい」

 ゆるゆると手招きをした旦那様に続いて屋敷へ戻り、導かれるまま屋敷の廊下を歩いていると曲がり角から女性がひょっこりと顔を出した。

「あら、旦那様。相変わらず良い男ね」

 その女性は二年と数ヶ月ほど前、織田家に嫁いできた女性で――旦那様と婚姻関係にある。つまるところが、この屋敷の奥方様だ。
 奥方様は、旦那様の腕にぴったりと抱きついては誘うようにしてその身をくねらせる。
 一方旦那様は面倒くさそうに顔をしかめて奥方様を振り払った。

「……お前は相変わらず姦しい女だな。今は忙しいんだ、どこかへ行っていろ。行くぞ、統」
「えっ、あ……」

 大きな溜息を零した旦那様は僕の手を引いてずんずんと歩き出す。
 ぽつんと残された奥方様は不満そうにぷくりと頬を膨らませて腕を組みながら僕たちを見送った。

「あの、旦那様。いいんですか……?」
「あの女のことを言っているんなら心配しなくて良い。端っから形だけの婚姻だ。あいつもそれを承知で嫁いてきたはずだからな」

 僕がこの家に仕えるようになってから数年の間、旦那様はずっと独り身で結婚するつもりもないとご自身で仰っていた。
 しかし、立派な屋敷を建てられるぐらいに商いを成功させている結婚適齢期の見目麗しい男性と来れば世の女性たちは放っておかないもので、織田家の家業が発展すればするほどに旦那様との関係を求めて屋敷を訪れる女性が跡を絶たなかったのだ。
 旦那様はそれを面倒に思ったらしく、ある日、実家が太くてお金に困っていないであろう女性を嫁にもらうことにしたと僕に教えてくれて――それからすぐに今の奥方様と籍を入れた。
 奥方様を迎え入れたことで確かに朝晩問わず女性が旦那様を訪ねてくることは減ったけれど、その代わりに毎晩奥方様が旦那様の部屋の扉を叩くようになったから、彼の思惑は成功とは言えないけれど。

「ほら、着いたぞ。入れ」

 奥方様も殆ど入ったことのない旦那様の私室に一介の雑用係が入ってしまうことを申し訳なく思いつつ招かれるまま恐る恐る旦那様の部屋へ足を踏み入れる。
 彼はそのまますたすたと壁際に設置されている棚に近付いていくと、木製の箱を取り出した。上面に十字のマークが印刷されているその箱から消毒液と包帯を手に取った旦那様は僕の腕の手当を始める。

「消毒するから少し沁みるぞ。我慢しろ」
「はい……」

 煙草を咥えながら黙々と手当をしてくれる旦那様の様子をじいと見つつ、ふと、数分前に旦那様がぽつりと零した言葉が脳裏に浮かんだ。

「あの、旦那様」
「なんだ」
「大切な人から預かっているって、一体何の話ですか?」

 あの虚無僧に向かって放った、彼の言葉が引っかかる。
 僕がこの屋敷で働いている理由は簡単だ。
 六年前、齢二桁になってすぐの頃、旦那様が「うちで働かないか」と僕を誘ったからだ。
 成長するに連れて――世の不条理やら理やらを理解していくに連れて、僕はきっと両親もしくは近しい誰かの手によって路地裏に捨てられたのだろうとそう思っていたけれど、もし先程旦那様が零した「預かっている」という言葉が真実ならば……僕は何か理由があってここにいるのかもしれないし、六つより小さい頃の記憶がすっぽりと抜け落ちている理由も、その抜け落ちた記憶の中で僕がどういう人生を送っていたのかも分かるかもしれない。
 そう思い、僕はできる限り真剣な面持ちをして旦那様を見上げる。
 一方旦那様はと言うと、いつも通り気怠そうな表情を浮かべたままこちらをついと見やり――咥えていた煙草を指で摘むと、ふう、と息を吐いた。

「んぅ⁉」

 彼の吐き出した煙は寸分の狂いもなくこちらへ向かってきて、それをしっかりと吸い込んでしまった僕は思いっきり噎せる。

「げほっ、けほっ。な、何するんですか!」

 思わず抗議すると旦那様は悪戯っぽく喉の奥でクツクツと笑った。かと思ったら僕の頭を優しく数度撫でて、気怠げな足取りで仕事用のデスクにどっかりと座り、何も言うことなく仕事を始める。
 ……教えてくれない、か。
 こうなってしまったら旦那様は何も言ってくれないと長年の付き合いで理解していた僕は大人しく彼の部屋を出ていくことにした。
 いや、そもそもあの言葉さえ僕の聞き間違いだったのかもしれないし。

「おい、統」
「はい? ――おわっ」

 部屋のドアノブに手をかける直前に名前を呼ばれ、素直に振り向いた瞬間、目の前に四角い物体が飛んでくる。
 なんとか飛んできた物体を受け止めて手のひらを覗き込むとそこには旦那様がいつも吸っている煙草の箱があった。一方、僕に煙草の空箱を投げて寄越した旦那様はというと、本当に鈍臭ェな、と笑って、つい先程までこの箱に入っていたであろう最後の一本に火を点ける。
 彼はそのままもくりと煙を燻らせて襯衣シャツぼたんを煩わしそうに二つ三つ外しつつ、こちらをちらりと見た。

「新しいやつ、買ってきてくれ」
「わ、わかりました」

 本当にマイペースで謎なお方だ。
 ……根が優しいことだけは確かなんだけど。
 ぼんやりとそんなことを思いつつ僕は改めて旦那様の部屋を出て、お使いをするべく玄関へと続く廊下を進んだ。
 すると。

「嗚呼もう。せっかく色男の元へ嫁ぐことが出来たと思ったのに、あっちが使い物にならないんじゃあ、つまらないったら。いっそどこかで男でも引っ掛けて……ん?」
「――あっ」

 しまった、逃げ遅れた。
 そう思ったときにはもう遅く、廊下の角で彼女……奥方様とばったり目が合ってしまう。しかも結構気まずい独り言をしっかりと聞いてしまった。
 いやいや、僕は何も聞いていない。うん、そういうことにしよう。

「アンタは確か……」
「み、統、です。どうも、奥方様」

 必死に笑顔を貼り付けて挨拶をすると奥方様は頬に手を宛てがいながら、ふぅん、と零した。それからまるで品定めでもするようにして僕を上から下まで眺める。

「旦那様、いまお暇かしら?」
「え……あ、いえ、お仕事を始めてらしたので、お暇ではないかと……」

 僕がそう言うと奥方様は不満そうに眉を下げて、あらそう、と零した。
 不機嫌な様子を隠そうともしないまま腕を組んだ彼女はじろりと流し目で僕を見る。

「旦那様って、結婚前もこんなだったの?」
「こんな、というのは?」
「朴念仁と言うか、据え膳喰わず、というか。こんなに艶めかしい食べ頃の女を嫁にもらったっていうのにあの人ったら私に触るどころか私の目を見ることすら殆どないのよ。酷いと思わない?」
「は、はぁ……」

 旦那様。聞いていた話と違います。
 このお方、全然理解して嫁いできてませんけど。
 めちゃくちゃあなたと普通のご夫婦になるつもりでいらしてますけど。

「形だけの結婚だなんて口だけだと思ってたのに。あの人と来たら、つまらないったらないわ」

 奥方様は深く溜息を零し、かと思ったらつい、と僕に視線を向けた。

「ねェ、アンタ。なんとかしてくれない?」
「な、なにをですか……?」
「すっとぼけちゃって。私ね、今とっても誰かに抱いてもらいたい気分なの。でも旦那様は相手をしてくれないし。……だから、アンタで良いわ」

 熱く纏わりつくような視線に思わずゾッとして、数歩後ずさった僕の手首を奥方様が掴む。彼女はそのまま真っ赤な紅が塗られた長い爪で僕の手首をカリカリと掻いた。

「アンタ顔は良いし。ほら、こんな綺麗な女を抱けるなんて男冥利に尽きると思わない?」
「そんな……旦那様の奥方様と、そんなことできませんよ」
「あら、お硬いのね。でも大丈夫よ。だってこれは形だけの婚姻なんでしょう? それなら私が誰と寝ようが関係ないはずだもの」
「そうじゃなくて……っ」

 そもそも貴方を抱きたくない、ということなのだけど流石にそれは言えずに僕は思わず口ごもる。
 奥方様は確かに世間一般で言えば綺麗な方なのだろうけれど、だからといって抱きたいという感情がイコールで繋がってくるわけではない。男が皆女性に対して邪な意識を持っていると思われるのは心外だ。

「力を抜いて。大丈夫よ、私が気持ちよくしてあげるから。ね?」

 僕の胸元にぴったりと頬を寄せた奥方様は器用に僕の襯衣シャツボタンを外しながら自分が着ているワンピースのチャックを下げる。
 はだけた服の間からちらりと見えた彼女の白い肌は、今まさに男を喰わんとする牙の如くぎらりと光った。

「う、あ……ッ、やめ、やだ……っ」

 襟の中をまさぐられて僕は思わず口元を覆う。
 不快感と不安に駆られて胃がひっくり返ってしまいそうだ。
 怖い。気持ち悪い。
 仮に僕が声を上げたら旦那様はすっ飛んできてくれるだろう。でも、ギラついた女性を前にしてただ怯えることしかできない自分を見られるのも情けないし、ただでさえ多忙な旦那様の手を煩わせるのも申し訳ない。そもそも、ちゃんと断りも出来ず第三者に助けを求めるなんて男として如何なものか。
 しかし一体どうしたらこの状況を打破できるのかはわからない。もはや大人しく受け入れるしか無いのだろうか。
 そうしてぐるぐると脳内で考えているうちにも時間は進む。

「――ッ、」

 奥方様の指先が袴の隙間にぬるりと滑り込んできたその瞬間。
 ぱりん、と派手な音を立てて、壁に飾られていた丸い鏡に亀裂が入った。

「えっ?」

 誰も触れていないはずの鏡が、独りでに割れる。
 この衝撃はあまりにも大きかったようで随分押し気味だった奥方様はサァッと顔を青くし、僕を置いてバタバタとどこかへ逃げていった。

「た、助かった……」

 一方残された僕は深く息を零しながら力なく鏡に近づき、鏡面を眺める。確かに鏡が勝手に割れるなんて少し気味が悪く感じるけれども、古来鏡は悪いものを跳ね返す道具とされている。
 鏡が割れた時は持ち主に及ぶ不幸を代わりに吸い取ってくれたという考えもあるそうだ。
 もしかしたら僕の代わりに……なんて思ってしまって小さく笑いつつ、主人の配偶者を不幸呼ばわりしてしまったことに罪悪感が擡げる。

「早くお使いに行かなきゃ」

 からからになった喉を撫でながら鏡を離れる瞬間、鏡の中を――正確には僕の背後を、何かが通り過ぎていったような気がした。
 慌てて振り返ると廊下の奥にひっそりと佇んでいる暗闇と目が合う。

「……気の所為、だよね」

 仮に本当に動いたんだとしてもきっとネズミか何かだ。そうして自分を納得させた僕はほんの少しだけひやりとする背中を意識しないようにしながら、足早に屋敷を出た。

 ◇ ◆ ◇ ◆

 屋敷を出て少し歩くと、次第に人々のざわめきと一緒に電車の走る音が聞こえてくる。
 時は大正――東京は銀座。
 僕が暮らしているこの場所は日本の中心、ど真ん中だ。
 煉瓦で作られた建物、黒煙を燻らせながら走る自動車、上空に張り巡らされた蜘蛛の糸のようなケーブルを頼りにガタゴトと歌いながら走る路面電車。
 街往く人々はみな着物やら洋服やら、それらを合わせたものやら、思い思いの服に身を包み、軽やかな足取りで銀座の街を闊歩している。
 路面電車に轢かれないよう注意しつつ舗装された道を進み、電車通りを抜けて商店街へ入ると一番手前に古びた煙草屋の看板が見えてきた。僕はそのまま煙草屋の前で足を止め、少し高めのカウンターをこんこん、と指で叩く。
 するとカウンターに背を向けて食い入るように新聞を眺めていた煙草屋の店主がゆったりとした動きでこちらに振り向いた。
 かと思ったら店主はにかりと人のいい笑顔を浮かべる。

「よう、みつ坊。奉公は頑張ってるか?」
「ぼちぼちかな。今日はお使いに来たんだ。いつもの銘柄ちょうだい――父さん」

 旦那様から預かった煙草の箱を見せると彼はようやっと立ち上がって、老眼鏡をかけながらじいと箱を見つめたあと、背後の棚に所狭しと並べられている煙草を端から端まで眺めて同じ銘柄のものを探し始めた。
 僕には、父と呼べる人が二人いる。
 一人は記憶にない、恐らく僕を路地裏へ捨てたであろう血の繋がった父。もう一人は――十年前、路地裏で僕を拾って育ててくれた煙草屋の店主、夜方やがた正義まさよしだ。

「ちょっとだけ待ってろよ。この飴ちゃんでも食いながらな」

 そう言ってカウンターにキヤラメルキャラメルを置いた店主――父さんは笑いジワが残る目元を緩く細める。

「父さん、僕もう子供じゃないんだよ。いい加減、来るたびにお菓子を寄越すのやめてってば」
「なに言ってんだ。俺にとっちゃいつまでも可愛い小さな息子のまんまだよ」

 見慣れた笑顔を少し気恥ずかしく思いつつもキヤラメルキャラメルを銀紙から取り出して口に放り込む。じゅわりと少し油こい甘みが口の中に広がった。

「ん、美味しい」
「そうかい。そりゃ良かった」

 舌の上でころころとキヤラメルキャラメルを転がしながら頬杖をついて父さんの背中を眺める。
 ――僕を救ってくれた恩人の背中は、十年前と変わらず大きくて。思わず笑みが溢れた。

「ねえ、父さん。いい加減、仕送り受け取ってよ。僕これでも結構お給金貰ってるんだよ?」
「馬鹿言え。どこの世界に子供から金を受け取る親が居るってんだ。俺ァ食い扶持を自分で稼ぐようになってもう三十年以上経つんだよ。お前みたいなガキんちょに援助してもらうほど情けない人生は送ってねぇっつーの」
「援助なんて……。僕は父さんに恩返しがしたいだけなのに。そのために奉公してるんだよ」

 今から六年前。父と二人でひっそりと暮らしていた僕の元へ旦那様が訪ねてきて、あまり感情の読み取れない顔で、僕に織田家へ住み込みで奉公に来るよう言った。
 当時の織田家はまだ今の場所へ越してきたばかりな上に、使用人はずっと昔から努めている年配女性のみだったため人手を探して父の元を訪ねてきたらしい。なんでも織田家はずっと昔から父の店で決まった銘柄の煙草を仕入れているらしく旧知の仲なんだとか。

「自分で言うのもなんだがうちは結構裕福でな。そのせいで色んな人間が群がってくる。内部に裏切り者が出ないよう使用人は出来るだけ信用できる人間で固めるようにしてンだ。……長年取引をしている煙草屋の息子なら、信用できるんでね。アンタの息子、俺に預けちゃくれねェか」

 最初父は反対していたが、その後も何日かに分けて旦那様に説得され、更には僕が自分から奉公に行きたいと言い出したのがきっかけで渋々ながらも僕のことを送り出してくれて、現在に至るというわけだ。

「親に恩返しがしたいってんなら、自分で稼いだ金は自分のために使いな。子供が幸せに、元気で暮らしてくれんのが親にとっちゃ一番の恩返しなんだよ」
「父さん……」

 父には血の繋がった息子さんと愛する奥さんが居たらしい。
 らしい、という言い方になってしまうのは、僕は写真越しにしか彼らと会ったことがないからだ。
 僕を拾う十年前の冬、実の息子さんと奥さんは里帰りのため列車に乗って出掛け――そのまま列車事故に巻き込まれて、帰らぬ人となった。店番をするため一人留守番をしていた彼にその報せが届いた頃にはもう列車は業火に包まれて殆どが焼け落ちており、結局亡骸と対面することすら叶わなかったという。
 僕が奉公にいくと決まったその日の夜に父がぽつぽつと話してくれたその話も、泣き出しそうな顔で話す父の顔も、未だに忘れられない。

「それから、たまの休みには帰ってこいよ。実家で羽根を伸ばすのも良いもんだぜ」
「うん、わかってるよ」

 父は煙草を探している間こうして世間話をしたがるから、注文した煙草が出てくるまでに数分かかるなんてこともざらだ。電車すら急いでいるこの大正という時代の中では、そのマイペースなのんびりとした雰囲気はどうやら民衆の期待にはそぐわないようで自分以外の誰かがこの店で買い物しているのをあまり見たことがない。
 ……が、煙草屋の稼ぎだけで自分をここまで何不自由なく育ててくれたことを考えると、織田家のように他にも得意先がいくつもあってちゃんと利益は発生しているのだろう。

「ところで、その右腕どうしたんだ? 怪我か?」
「あ……うん、仕事中に引っ掛けちゃって」
「そうか、気をつけろよ。お前は昔っからおっちょこちょいだからなぁ。覚えてるか? ガキん時、木の上に登ろうとして頭っから落ちてきてよぉ。あの時は本当に焦ったぜ」
「もう。いつの話してるのさ、父さん」

 父に不満を込めた視線を向けるが彼は、かかか、と笑うだけだ。
 このままではまた昔話が始まってしまうかもと思った僕はつい先程まで父が読んでいた新聞に人差し指を向ける。

「そういえば、それ、なにか面白い記事あった?」
「ん? ああ、新聞か。まあ、大して変わり映えしねぇ内容ばっかだな。今日の目玉は動物園で象の赤ん坊が生まれたって記事だったよ」

 平和でいいわな、と続けた彼は何かを思い出したかのように、そうそう、と零しこちらに少しだけ振り向いた。

「新聞には載ってないが奇妙な噂なら知ってるぜ。どうやら最近怪しい虚無僧がこの辺を彷徨うろついてるらしい。なんでも虚無僧のくせに尺八じゃなくて真っ赤な扇子を持ってて、ずぅっと何かを探してるみたいにふらふら街を歩いてるんだと」
「……!」

 その言葉に思わず固まった。
 脳裏に浮かぶのは、つい数時間前に遭遇したばかりの、あの気味の悪い虚無僧。僕が右腕に包帯を巻くことになった原因そのもの。ぶり返してきた恐怖に負けないよう心臓のあたりをぎゅうと掴むとタイミング良くこちらに振り向いた父が訝しげに眉をひそめる。

「みつ坊、どうした? ……もしかして、遭ったのか? その虚無僧に」
「ああ、いや。そういうんじゃないけど。ただなんか、寒気がして。風邪でも引いちゃったかな」

 つい咄嗟に誤魔化してしまった。
 だけど父を心配させたくはないし、今更訂正する気にはならない。

「そうか……いや、何もないなら良いんだ。なにやら最近物騒な事件が多いらしいから、みつ坊も気をつけろよ」

 はいよ、と言って父が煙草の箱を差し出す。一つは僕が持ってきた空っぽの箱、もう一つはラベルに包まれた未開封の箱。朱と金で装飾された高級そうな箱がカウンターの上に二つ並んだ。
 そういえばこの煙草、他の煙草屋では見たことないな。
 どこかから特注で仕入れているものなのだろうか。

「ああ、気をつけるよ。それじゃあ」
「おっとそうだ。ちょいと待ちな、みつ坊」

 箱を二つ受け取って立ち去ろうとした僕を呼び止めた父はどこからか取り出した小さな包みを僕に差し出す。

「十六歳の誕生日おめでとう。統」
「え?」

 突然のことに思わずぽかんとしていると、父が大口を開けて笑った。かと思ったら少し眉を下げながら店の中にかけてあるカレンダーをとんとんと指で叩く。
 それを見てやっと、なるほど確かに、そういえば今日は誕生日だったと思い出した。まあその日付は正確に言えば僕の誕生日ではなく、彼が僕を拾ってくれた日なのだけど。僕は自分の誕生日すら覚えていなかったから。

「……すっかり忘れてたよ」
「だと思った。仕事に夢中なのはいいが、働きすぎは体に毒だぜ」

 父から包みを受け取って開くと、そこには梟がデザインされた金属製の栞が入っていた。ずっしりとして高級感のある立派な作りだ。

「俺ァな、この日になるといつも神様ってやつに感謝するんだ。十六年前まではまさか、また子供の誕生日を祝えるようになるなんて思ってもみなかったからな」

 そう言って父は目を細める。
 彼の脳裏には、亡くなった家族が浮かんでいるのかもしれない。
 
「さ、そろそろ行きな。あんまり遅くなると旦那様に怒られちまうんじゃないか?」
「旦那様がそんなことで怒らないって父さんが一番良く知ってるくせに、もう。……じゃあ、またね、父さん。次のまとまった休みには帰るよ」
「おう。気をつけて帰るんだぞ」

 親指を立ててニカリと笑った父に見送られつつ、煙草屋を後にする。
 せっかく立派な栞を貰ったんだし、次の休みには実家へ帰る道中で新しい本を買いに行こう。それから父へのお土産も。そんなことを考えながらいつも通り、屋敷へ戻るための近道である路地裏に潜り込んだその瞬間だった。

「みィつけたァ」
「――?!」

 そんな声が聞こえて。
 かと思ったら視界がぐるりと廻る。
 背中にはひんやりとした地面の温度が触れて、目の前には逆光を浴びる深編笠があった。笠の向こうからは聞き覚えのある荒い呼吸音が聞こえてくる。

「お、お前は……」

 虚無僧は馬乗りになったまま僕の両手首をがっしりと掴み、笠を被った顔を僕に近づけた。そのまま荒い呼吸を繰り返しつつ僕の身体を上から下まで舐めるように顔を擦り付ける。
 ……どうやら匂いを嗅がれているらしい。

「な、なにするんだ! 離せっ!」

 本当に犬みたいだなと思いつつ、なんとか拘束から抜け出そうと藻掻くけれど相変わらず力が強すぎてびくともしない。それどころか暴れたら暴れただけ手首に巻き付く力は強くなった。

「嗚呼。ようやっと二人きりで逢えたなァ、御前様おまえさま

 笠の向こうからじゅるり、と唾液を啜るような音がする。
 そういえば先程会った時も"見つけた"と言っていたような。

「お前……やっぱり僕を探して……? 何のために――ッ⁉」

 腰が浮くような感覚が背中から脳髄までを駆け上がって、びくり、と腰が跳ねる。
 なにかと思い視線を下げると虚無僧は僕の上に跨りながら、自分の下腹部を僕自身にずりずりと擦りつけているようだった。

「やっと。やっとだ。嗚呼、どれだけこの時を待ち望んだことか。さァ、さァ。早うわれに触れてくれ。さァ、早く」
「待っ、やめろ! 離しっ、あッ、んぅ……っ!」

 何が起こっているのかわからない。
 どうして僕は突然路地裏で得体の知れない虚無僧に、下半身を擦りつけられているのか。
 一体なんなんだ今日は。
 奥方様に襲われかけたと思ったら今度は得体の知れない虚無僧か。厄日にも程があるだろう。
 脳みそはぐるぐると混乱して心臓は恐怖で早鐘を打つのに、身体は正直なもので虚無僧の熱く硬いそれが僕自身を擦るたびに腰やら背中やらが跳ねる。感情がぐちゃぐちゃで頭が弾け飛んでしまいそうだ。

「嗚呼、今生の御前様は酷く初いのう。それもまた良いのだが。何も知らぬ御前様に吾が手取り足取り、たっぷり心地よいことを教えてやろう」
「何を言って……っん、うぐッ」

 喉から甘い声が出そうになり、必死に唇を噛む。
 怖い、逃げ出したい。だけど同時に、時折全身を駆け回る甘い痺れに溺れてしまいそうになる。

「やっ、やだ……ッ、やめ、ろぉ……っ」

 ダメだ。――これ以上は。
 戻ってこられなくなってしまう。
 どうにか、しないと。

「みつ坊!」

 意識が飛びそうになった瞬間に路地の向こう側から聞き慣れた声がして、身体にのし掛かっていた重さがフッとなくなった。

「おい、みつ坊! しっかりしろ! 大丈夫か⁉」

 力なく地面に突っ伏した僕の顔を慌てて駆け寄ってきた夜方さんが覗き込む。視界の端っこであの虚無僧がひらりと軽い足取りで建物の屋根の上に消えていくのが見えた。

「とう……さん……?」
「ったく、言った先から事件に巻き込まれやがって! 心臓が止まるかと思ったぞ!」

 そう言う彼の手には恐らく近場で拾ったのであろう角材が握られている。父の顔を見ているうちに段々と意識がはっきりしてきた。
 ぼんやりとした視界と考えを振り払うように何度か首を振ってから深く息を吐く。

「えと……ありがとう、父さん……助かったよ」
「そりゃ良かったけどよ。ただでさえ老い先短いオッサンの寿命をこれ以上削らないでくれ」
「あはは、ごめんごめん」

 そう言って笑うとようやく父は安心したように少しだけ微笑んだ。差し出されたその手を借りながらふらつきつつ立ち上がる。

「さっきのはもしかして、噂になってる虚無僧か……? みつ坊、どっか怪我したりしてねぇか?」

 心配そうに僕の周りをぐるぐる回って傷がないかを確認する父。その視線がなんだか少しだけ擽ったくて、僕は笑いながら小さく首を振った。

「平気だよ。倒された時にちょっと背中を打ったくらい」
「そうか? ……それならいいけどよ」

 目視で確認した限りは怪我が増えていないことに安堵したらしい父は、やっと肩の力を抜いて、ふう、と深く息を吐く。

「ところで父さん、何でこんなところに? 店は?」
「ああ……小腹が空いたんでちょっくら飯でも食おうと思って歩いてたんだよ。そしたら路地裏から揉めるような声が聞こえて、覗いたらみつ坊が怪しいやつに襲われてるのが見えたってわけだ。そっからは無我夢中でよ。反撃されなくて助かったぜ」

 本当に助かったのはこちらだ。
 もし彼が通りかかっていなかったら。
 誰にも助けてもらえず、あのまま襲われ続けていたら。
 そう考えるだけでゾッとする。

「また襲われたら敵わねぇからな。屋敷まで送ってやるぜ、みつ坊」
「え? でも、」
「良いから良いから。ほら行くぞ。最近落ち着いて話す機会もなかったろ。もうちょっとぐらい息子と一緒にいたい親心わかってくれや」
「……はいはい」

 正直願ってもない申し出だった。
 を有り難く思いつつ二人並んで夕暮れの街を歩く。
 普段ならば美しいと感じるその景色も今日ばかりは薄気味悪く、かつ不安定に感じた。次いつあの虚無僧に襲われるかわからないという不安を夕日がじりじりと逆撫でする。

「それにしてもあの虚無僧はなんでみつ坊を襲ったんだろうな。たまたま無差別的に狙ったのか、それとも何か意図があったのか。なあ、あいつ、なにか言ってたか?」
「え? ええと……」

 逃げ出そうとするのに必死であまり内容は覚えてないけど……確かにあいつは僕を探していたらしいことを言っていた。
 思えば最初に会ったときも似たようなことを零していたし。

「言っていることの意味は大半わからなかったけど、口ぶりからして多分、僕を探してたみたい。見つけた、って言ってたし」
「そうか……あいつに見覚えあるのか? 仕事の関係で会ったとか、お使いの途中で話をしたとか」
「あんな危ない知り合いは居ないよ……」
「まあ、そうだよな」

 ううむ、と顎に手を添えて考え込んだ父はそれから数秒後、あ、と声を上げる。が、何も言わないまま黙り込んでしまった。

「なに、父さん? なにか思いついた?」
「ああいや。もしかしたらお前が六つより若い頃の関係者かもしれねぇと思ってな。お前、まだガキん時の記憶戻ってないんだろ?」
「……そっか。その可能性もあるのか」

 小さい頃の記憶なんて大人になればなるほど薄れていくものだ。全くないというのは多少特殊かもしれないけれど、普通の人でも殆ど覚えていないのはそこまで不思議なことではないだろう。だからこそ今まで僕は記憶がないからと言って何か不自由を感じることもなく至って普通に過ごしてきた。
 故に、その可能性を考えることはなかったのだ。

「だとしても結局あいつが誰なのかは分からずじまいだよ。記憶がないんだから」
「そりゃそうだけどよ。ちょっとでも記憶が戻れば襲われた理由がわかって、何かしら対策ができると思ったんだがな。難しいか……」

 難しい顔をしながら父が腕組をしたところで屋敷の門が視界に入ってきた。門の前に誰も居ないことを確認した僕は、ほっと胸を撫で下ろす。

「よし着いたな。もしまた次街に出る時は十分気をつけて歩けよ。なんなら俺が迎えに来てやるからよ」
「流石に過保護過ぎだって。ちゃんと気をつけるから大丈夫だよ。ありがとう、父さん。またね」

 豪快に手を振りながら帰っていく父を見送った僕は未だ少し不安で煩くする心臓を抱えながら屋敷の玄関を潜った。するとちょうど玄関前を通り過ぎようとしていた旦那様と目が合う。

「旦那様。ただいま戻りました」
「ん。おかえり、統」

 彼はそう言いながら手のひらをこちらに差し出した。
 ……?
 この差し出された手には一体どう反応したら良いんだろう。そう一瞬悩んだけれどすぐにピンときた僕は、彼の手のひらの上に買ってきた煙草の箱を置く。

「はい、どうぞ。お待たせしました」
「……おう」

 あれ? 表情がどこか不満そうに見えるような。違ったかな。
 いや、気の所為か。

「じゃあ僕、仕事に戻りますね」

 さてと、もう夕方だしあとは庭の掃除をして湯浴みの用意をして……他にやること何かあったかな。なんて考え事をしながら廊下に上がって旦那様の横を通り抜けようとすると彼は、おい、と僕を呼び止める。

「こっち向け」
「ん? どうしました、旦那様……わぶっ⁉」

 振り向いた瞬間、視界がもやりと霞んだ。
 いつもの甘い匂いがして彼の煙草の匂いが気管の奥にこびりつく。甘い匂いを感じたというだけで甘味を食べたような気になるのが人間の不思議なところだ。

「ん、ぅ……な、なにするんですか、旦那様」
「んー。厄除け」

 そう言って笑った旦那様は僕の前髪を指先でさらりと弄って、目を細める。

「統。明日から一週間、屋敷から出るんじゃねェぞ」
「え? ど、どうしてです?」
「良いから。とにかく出るな。何があってもだ。わかったか」
「わ、わかりました」

 わけも分からず頷いた僕を見て旦那様は満足そうに頷き、廊下を歩いていった。
 一方残された僕はと言うと。

「甘い……」

 じわりと残された甘い香りを吸い込みながら一人勝手にごちるのだった。
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