Formalisme──A Priori

朝倉志月

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梅雨の晴れ間

2.

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 突然止まった相手に合わせ切れずに、たたらを踏む。

「取り敢えず、撒いたようだな」

 息も乱れてない、落ち着いたバリトンは男のくせに艶があって、ぞくりと背筋に来るほどだった。一息吐いてようやく辺りを見回すと、人波のど真ん中だった。

 相手の手がこちらの左腕から離れたのを機に改めて観察すると、身長のせいだけじゃない、隠しようのない華がある。ずば抜けて手足が長くて姿がいい。スーツは嫌味なほど地味なパターンと色だが、俺ですらわかるくらいに織りが素晴らしくて、くだらない喧嘩に巻き込んでしまったこちらが怯むほどモノが良い。ぴしりと決まったスーツ姿にクラシックなアタッシェケース。

 このままパリでもニューヨークでもミラノにでも移したって何の違和感もない。唯一乱れた前髪を、長い指で梳き上げると、もう元の通り、一分の隙も有りはしない。

 四つ五つしか違わないのに、対する自分がどうしようもないガキ臭く感じる。いつも以上にヨレたユースドのシャツと穴の空いたジーンズ──別にファッションじゃなくて経年劣化だ。さっきの口ぶりだと、俺がアウトレットで買ったエンジニアブーツ込みでお幾らかまでお見通しなんだろう。きっと、俺の全身コーディネートもこいつのハンカチ一枚で釣りが来る。唯一の財産は、胸に抱えたスケッチブック。

「しまった、絵の具……!」

 慌ててきびすを返すと、後ろから肩を掴まれた。

「何を考えている。狩られるぞ」

「画材一式、置きっぱなんだよ!」

 相手は力を入れている風でもないのに、振り払えなかった。

 安全のためにわざと人通りのど真ん中の、邪魔な位置に立ち止まって、周りの雑踏が目に入らないように平然としている。それでも、きっと──絶対、普段はそんな野暮な真似しないことがわかる、俺が知らない世界の、多分、紳士ってやつなんだろう。

「命までは落とさなくても、利き腕を折られたらどうする。下手したら、一生差し支える仕事だろう」

(まだ、仕事じゃない)

 建築会社に就職も、著名なコンペで賞を取る事も、資格を取るための下積みだって、まだ何も、できてない。めぼしい就職先が決まるまではと、食いつないでいるバイトも最近は途切れがちで。

 一瞬沸いた苦い感情を、唾と一緒に飲み込んだ。

 それでも。今あれをなくしたら、買い直す金は俺に無い。

「金持ちにはわかんねえだろうけど! そう簡単に買い直せないんだよ!」

 捨て台詞を叩き付けるつもりが、つい僻みが口に出た。偉そうに画材とは言っても、色を忘れない程度に乗せるためだけの、小学校の授業で使う水彩絵の具と変わらない。

 ふん、と相手が鼻を鳴らしたのが嘲りに聞こえて、耳まで熱くなった。

「金があれば事足りるのか」

「金が全てだとも全くいらないとも言わねえよ。でもあんたなんかが鼻で笑うような貧乏人だって、人生があるんだよ!」

 振り払っても、びくともしない。ペン以外持ちそうもないような、長い指していやがるくせに。

「道具のために、一生を変えるかもしれないのはわかってんだよ! でも、あれは絶対に要るものなんだ。あんたはこんな所じゃなくて、ヒルズでも銀座でも行ってろよ!」

 じゃあな、ともう一度振り払うと離してくれたのでほっとしかけたが、低く問う声に、よせば良いのに足が止まった。

「なら、金さえ充分にあれば、莫迦なリスクは負わないのか?」

「バカか。幾ら金があったって、道具をポイ捨てする訳ないだろ。でも、金が無い今は、特に放り出すわけには行かないんだよ。
 あんた金持ち過ぎて、金がなんなのかわかってないんだろ? 教えてやるけど、金があると、やりたくないことをやらずに済むんだよ」

「ふん、金、か……」

 行きかけたところを半端に振り返ったまま、何で黙って突っ立って、そいつの顔を見ていたのかわからない。

「画材を買う金を出せば、置いて来た物は諦めるのか?」

「何ソレ。あんたが一式揃えてくれるって言うのかよ。
 誰も彼もが喜んであんたのお恵み受けると思ってンのかよ」

 思いきり嘲りを込めて言ったつもりが、負け犬の遠ぼえだと自分でもわかっていた。道楽のお恵みを笑ったって、俺が金に困って食うや食わずでいることや――近い将来、その道すら絶たれるだろうことは単なる事実だ。

 道を塞ぐように立つこいつを迷惑そうに振り返った女共が、顔を見て興奮した様子で似たような格好の女の袖を引っ張って振り返る。

「聞いているだけだ。誰もオファーなんぞしていない。お前が身体で返すとでも言うならともかく、な」

「語るに落ちてんな。やっぱりそれが目的かよ。あいにくだな。ウリに出すほど安かないぜ」

 舌打ちしたくなるのを、なんとか堪えた。

 こいつ相手だからこそいささか貫禄負けするけれど、充分稼げる顔は持ってる。でも俺が金を稼ぐのなら、俺が認めた道でだけ。どんな貧乏してたって、必ず自分の世界でのし上がる。

「誰も彼もが、金を出してお前を買うと思っているのか」

「へえ?」

 さっきの嫌味を痛烈に返されて、一瞬言葉を失った。

 なけなしの威勢をどうにかこうにかかき集めて、嘘だろ、みたいな顔を作って目を反らさずに見返してはみても、虚勢もそろそろ品切れだ。

「聞き方を変えよう。おまえは今、五体満足でいる。そしてここには、お前の道具はない。選択肢は二つ。それを優に買い戻せるだけの仕事と、すべてを失うリスクを犯して取りに行く事。それならば、お前はどちらを選ぶ?」
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